紫陽花の続き


 咳き込み丸められた背中はかたく冷えていた。ブランケットを肩にかけて、背骨がふるりと震えるのに構わず手のひらを押し当て撫で続ける。血の気の引いた顔が持ち上がって、蜂蜜のやわらかな色彩を湛える金色の目が戸惑いがちに私だけを映しだす。



 ビデオ屋で飲んだ珈琲と引き換えに、一輪の花や小さなお菓子を贈られている。悠真は、私にもらったぶんをその都度律儀に返そうとしているのだろう。
 閉店間際のお店に滑り込んできた悠真は生温い春の気配を淡く纏っていた。透明なセロファンに包まれた桜の切り枝をカウンターに置いて「今日は冷たい珈琲がいいなあ」と軽い口調で注文をしたので、物々交換の法則にのっとっているのだろうという憶測はその輪郭を濃くさせていく。
 はじめて飲み物を出したときは金色の目が驚きに丸められていたが、この頃は差し出されることに慣れたのか、悠真自身が私に「お土産」を渡すことで折り合いをつけているのか、すっかりと慣れた手つきでマグカップを受け取るようになった。
 ひとつの隙もなく、綺麗に釣り合いが取れた関係。きっとそうなのだ。だから、お花見に誘われたときはとっさに冗談だと思ってしまったのだ。失礼なことに。

「地下鉄で少し行った先にある公園の桜が綺麗なんだってさ」
 淡い色の小さな花を控えめにつけた桜の切り枝を角度を変えて長いこと眺めていたからか、気に入ったの、と尋ねられて頷いた。そこから派生した会話の終着点が「そんなに気に入ったなら、桜を見にいく?」という悠真からの提案だったのだ。
「桜を眺めながらお弁当を食べるのって楽しそうだなって前から思ってたんだよね。お花見っていうんでしょ」
 ぺらぺらとやけに饒舌な語り口は「あんたの気が向けばだけど」という予防線によって打ち止められる。
「行きたい」
 黙ったままでいたら提案自体をなかったことにされそうなほど悠真が繰り出す言葉のスピードが速かったものだから、出遅れぬよう慌てて短い返事をした。丸められる目の奥底には、「行きたいと言うと思わなかった」という虚を衝かれた気持ちが潜められているのだろうか。
「……うん。それじゃあ、行こっか」
 明日の夜に公園最寄りの駅で待ち合わせる約束が取り付けられる。ふたりきりではない可能性も考えてみたものの、数分後にアキラが外出先から戻ってきても悠真はアキラをお花見を話題にも出さずに、軽い調子で世間話を振るだけだった。私だけが桜の切り枝に明日の約束を思い、ぱちぱち鳴る胸がじわりと温まっていくのを感じている。

 いつか教えてもらったように悠真がビデオ屋でゆったりと過ごす時間を好んでいるのは事実だろうが、誘い合わせて外出する習慣はない。ルミナスクエアに花を選びに行って以来、ふたりで出かけていなかったのだ。さらに付け加えるならばルミナスクエアのお出かけは「看病のお礼」という名目が存在していたが今回はその限りではないので、まっさらなところから生まれたはじめてのお出かけということになる。

 どうせなら悠真の希望に沿ってみようと用意したお弁当を片手に閑散とした駅の構内を出た途端に、昨夜、悠真を包み込んでいた生温い春の夜気が鼻先をくすぐった。甘い香りと柔らかい風。都市部から離れているからか、はたまた遅い時間帯だからか、人の影は予想よりもかなり少ない。道路を挟んだ向かいの公園の敷地を囲うようにして植わった桜の木々が、静かに花を咲かせている。
 目を閉じたり開いたりを繰り返していると、紛れ込んできた足音がこちらへ近づいてきた。
「ごめん、待たせちゃったね」
「う……ううん」
「あれ、緊張してる?」
 仕事帰りだというのにH.A.N.Dの制服からわざわざ着替えて私服に身を包んだ悠真のすがたが、お礼や釣り合いのために設けられたお出かけではないことを明確にさせて、茫漠とした緊張が襲いかかってくる。
 目に見えて硬い顔をしている私に、悠真は苦笑を返す。
「それにやけに大荷物だけど、なに持ってきたの?」
「これ? これはお弁当だよ」
「お弁当って……。あ、もしかして、ほんとうに作ってきてくれたんだ?」
「えっ……?」
 隠しきれない驚愕を孕む声に顔がどんどん熱くなるのが鏡を確認せずともわかる。こんなのは恥ずかしくて仕方がない。
「じょ、冗談だったの……?」
 私の顔色は赤いだけではなく青いのかもしれない。緊張と羞恥が一緒くたになるのは、とてつもなく心臓に負担がかかるらしい。
「違う違う、お弁当があれば嬉しいなとは思ってたけどさ、ほんとうに持ってきてくれると思ってなかったんだって」
 後退りしてこのまま地下鉄の駅に引き返しかねない私の手首を掴み、悠真はらしくもなく早口で捲し立てた。
「持って帰るとか言わないよね?」
「……実はけっこう、言いたくなってる。でも仕事のあとだし、お腹すいてるなら食べてほしいなって思う。悠真がいやじゃなかったらだけど」
 よくよく考えてみなくとも悠真の食の好みは把握しておらず、お弁当の中身が彼の口に合うかはかなりの疑問である。お腹を満たすには足りる量だ。逆にいえば、それしかない。
「……うん。あんたはそういう子だったよね」
 ありがとう、と一言呟いて、荷物を抜き取る。
「荷物持ちくらいさせてよ」
 早とちりに突き動かされて作ったやたらと手の込んだお弁当は悠真に運ばれる。なんてことだ、私はたぶん……きっと、自覚するよりもずっと、舞い上がっていたのだろう。

 定期的に珈琲豆を購入するようになった。苦く深い味が好みであると知ったから。ルミナモールに立ち寄って新品のブランケットを買った。ときどき咳き込む姿を見せるようになったから。
 ぜんぶ、悠真のためにしたいと思って、だれに頼まれたわけでもないのにしたことだった。悠真のためになにかをしたいと思えるのがなぜか嬉しくて、悠真が受け入れてくれるのはそれ以上にもっと嬉しくて……。
 でもおそらく、悠真は舌に合わずともお弁当を受け入れるのだろう。あの日のドリップ珈琲は後々になって考えるとお湯が多いせいで味が薄くお世辞も美味しいとはいえないものだったはずなのに、悠真は「美味しい」と言ったのだから。

 遅い時間帯のせいか、川に沿って平行に設置されたベンチを利用する人は多くない。そのうちのさらに人気が少ない場所まで歩き、並んで腰掛ける。
 爛漫と咲き乱れる桜の下。枝からこぼれた花びらが濃紺の夜をひらひら舞いながらすべり落ちていく。見上げれば、空を埋めつくさんばかりの花々が街灯の淡いひかりを照り返しており、白く明るく、一見すると昼間と見紛うほどだった。
「僕、お弁当を作ってもらうのってはじめてなんだよね」
 案の定、悠真はおかずを次々に口に運んで花丸の評価をつけてから、ぽつりと呟く。
「こうやって夜にだれかと公園で花を見るのもはじめて」
「そうなの……?」
「そうなの。もっと言えば、人の看病をしたのもがはじめてだし、だれかに花をあげたのも……」
 ぷつりと言葉が途切れて、悠真は花筏が淡く揺れる水面を眺めて押し黙る。つられるようにして私の視線も悠真に倣う。そよぐ風が気持ち良くて目を閉じる。まぶたの向こうで時間がゆっくり進んでいっている。
「……私も、だれかとこうやって……こういうふうに過ごすのは、悠真がはじめて」
 水音すら聞こえない静かな川を臨み、空になったお弁当箱の上に乗っけていた指先を遊ばせる。
「ひとりでこうしているときは昔のことを思い出してちょっと落ち込んだりしてたの」
 ものすごく悲しいことがあるわけじゃないし、ひとりじゃないのに、あたたかなもののなかにいると自身の孤独が浮き彫りになって薄寂しく、思い出にしか生きていない家族を探し求めていた数多くの夜のことはきっと一生忘れないのだろうけれど。
「……でも、最近はね、ひとりで川辺や海辺にいるとき、悠真のことを思い出すようになったよ」
「僕のこと?」
「前に、川とか海を見ながらじっとしているのも好きだって言ってたから。だから、昔のことよりも悠真のことを思い出すほうが増えたかも。そのおかげで落ち込むことも減ってきて、前よりも寂しくなくて……」
 ふと隣にいる悠真の顔を仰ぎ見て、羞恥を感じるにふさわしい言葉を口走ったのだろうと思い至る。手で口元を覆う悠真の目は、明らかに熱を帯びていた。「あんたって……」と喉から絞り出す声は低い。心情の吐露はあけすけすぎる発言だったと恥ずかしさに駆られながらも、心臓が脈打ちそこが熱を持っていく感覚もそう悪くないと思うなんて、どうかしている。
「えっと、いまのは……」
 軌道修正のための妙案もないままただ口を開くが、悠真の指が絡みついてきて硬い骨の感触が指の間におさまると、さすがに頭が真っ白になって思考が止まる。私を捕まえる悠真の手を握り返した。されるがままに、顔が近づいてくるのを従順に受け入れる。
「……よけなくていいの」
 どちらかが下手に動けば顔のどこかがぶつかってしまいそうな距離にあった。注意を払いながら小さくうなずくと、悠真は唇を噛みしめて目をぎゅっと閉じてからおもむろに顔を遠ざけ、額を肩口に押し付けてくる。
「……あんた、流されやすくて心配になるよ。ちゃんと駄目だって言わないと」
 悠真が吐き出す息が肩にかかって、熱がともる。深呼吸をしたところで、心臓がばかみたいにどくどく鳴っていることに気がついた。
 キスを、されるのかと思った。
 どうしてと考えを巡らすよりも先に、いやじゃないという欲が勝って、受け入れるほうを選んだ。
「ごめん。でも、あとちょっとだけ、こうさせて」
 触れた背中は見た目よりも広い。体調を崩して咳き込んでいるときよりもずっと熱い背を撫でていると、繋いだままの手にぎゅっと力がこもる。それは引き返せないところへ向かおうとするのを踏みとどまるかのような力加減だった。