※アイリスの続き
夜に呑みこまれた六分街は昨日降った雨の名残でしっとりとしていた。次に飾る花は紫陽花にしようかと考えながら、ふたりぶんの足音が鈍く反響するのを聞いている。
アキラとリンと一緒に夜ごはんを食べて帰りが遅くなった日は、決まってアキラが家の近くまで送ってくれる。徒歩で数分、悠真にも「かなりのご近所さん」と表現されたとおりの距離感で送迎してもらうのはいちアルバイトにしては待遇が厚すぎるような気がして何度も断ったのだけれど、アキラは断固として譲らない。いつからか、断るのを諦めて、リンに送り出されてアキラの隣を歩くのが当たり前になっていた。
「は最近よくルミナスクエアに出かけるね」
明日の休みはなにをするのかというなにげない世間話をしながら、六分街で生活を完結させていた私にしては、近頃は地下鉄に乗って出かける頻度が増えたことにようやく気がつく。きっかけは、一輪の花。私の日常に花を差し入れたのは悠真だ。その悠真と一緒に、明日ルミナスクエアに出かける。
「遊ぶのもいいけれど、体調は平気?」
「もうすっかり元気だよ。あのときはありがとう」
「僕はなにもしてないよ」
アキラが悠真に連絡していなければ、適切な看病なしで寝込みうんうん苦しみ回復が遅れただろう。
「そんなことないよ……アキラにはいつもお世話になってばかり」
緩められる目元とやさしい眼差しを向けてもらうのが好きで、普段は照れ臭くて口に出すのを躊躇ってしまうはずの言葉をつい声にしてしまう。
「あ……えと、私、サンドイッチを買ってから帰るね」
二十四時間営業の雑貨店からひとりで住まう部屋までは目と鼻の先である。照れ臭さから交わった視線をほどき、早口でお礼を言って自動ドアに寄ればアキラは人懐っこい猫のようにくっついてきた。
「僕もリンとふたりぶんの朝食を買おうと思って」
それも紛れもない本音だろうが、サンドイッチを選んでいる最中に「ちなみに、明日のお出かけに誘ったのはどっちから?」と尋ねられたから、ほんとうは訊きたいことがあるからまだ帰らなかったのかもしれない。
指先がツナマヨネーズのサンドイッチに触れる寸前で、それはアキラの手に渡る。アキラとリンと私の朝食は、アキラの手のなかにあった。
「私が看病のお礼をしたいって言って、悠真が、そしたらルミナスクエアで一緒に花を選んでって言ったの。切り出したのは私だけど、提案したのは悠真になるのかな」
そうなんだ、と相槌を打ったアキラは流れるように会計を済ませ、ビニール袋から私のサンドイッチだけを取り出して持たせる。お代を払わなければとまごまごと財布を取り出そうとした手は制されて、ふと仰げば看板の電光に真摯な顔が照らされていた。
「昨日は今日の昔というか、なんていうか」
「え?」
「君がお出かけを楽しみに思えるようになって……」
アキラは思い猶予うように沈黙を挟む。
「……感慨深いな」
迷いをひとつの言葉に纏めて、ぬっと伸びてきた手に頬をつままれる。家族がいたらこんなふうなのだろうとアキラに案じられるたびに空想している。
「送り迎えは必要かい?」
でもやはり、アキラはそこそこに過保護だ。
休日のルミナスクエアは人通りが多くがやがやとした喧騒に包まれていた。陽光の薄い膜は人々に、私の目を惹く鮮やかさは悠真に。悠真に近づくと喧騒の出どころがそこにあるのだと知らしめられて徐々に歩みを遅らせる。待ち合わせ場所であるグラビティ・シアター前には悠真と、彼を取り巻くファンの人混みができていたのである。
ビデオ屋で悠真と出会い、悠真と関わるようになってから、インターノットで対ホロウ六課についてそれなりに調べたところ、彼らの人気はきらびやかで外を歩けば熱量の高いファンに声をかけられることもあることが伺い知れた。ビデオ屋での悠真はさほど口数が多くないものだから、器用に複数人と同時に笑顔でおしゃべりしているすがたに違和感をおぼえる。
……きっと珍しくもない光景だろうに、胸がつかえるのは、どうして。
気づけば路地裏に歩みを進めていたようで、光の膜は視界から消え去り、うっそりとした影が地面をねずみ色に染めていた。室外機が吐き出す生温い空気が立ち込める狭い空間はお世辞にも居心地が良いとはいえない。淀んだ空気をできるだけ吸い込まぬよう息を殺す。さっさと川辺まで抜けてしまおうと早歩きに切り替えようとしたところで、背後から手首を掴まれてぎょっとした。
「いまお時間がありましたら、簡単なアンケートにお答えしていただきたいんです」
こんな路地裏で……?
スーツを身に纏った男性は出で身なり不自然ではないけれど、依然として私の手首を離さず、簡単なアンケートと説明しながらも雑居ビルにぐいぐい引っ張っていこうとする強引さから、警戒心を抱くのは不可抗力だった。
「あの! すみません、待ち合わせをしていて時間がないんです」
歩みを止め、足の裏で踏ん張れば抵抗されると思っていなかったのか男は目を見開く。
「時間は取らせませんよ」
なおも食い下がられ、心臓が警鐘めいた速さでどくどくと鳴り出す。強引な販売を持ちかけられるのか、はたまた犯罪に巻き込まれるのか、誘拐をされるのか、ありとあらゆる嫌な想像が脳を駆け巡る。簡単なアンケートで済まないというのは火を見るよりも明らかだった。逃げなければと思うのに、強い力で手首を掴まれていては駆け出すのも難しい。
大きな声を出すべきかと、恐怖で震える喉を叱咤し口を開くと、まるで「声を出すな」と警告するかのごとく掴む手に力を込められて、痛みに血の気が引く。お腹が冷たくなり、膝の裏がふらつく。
「その子になにかご用ですか?」
無傷で済むのを諦めかけたところで、聴き慣れた声が割り入ってくる。途端、男性は私を解放し、私と男性のあいだにできた隙間にすかさず悠真が身体を滑り込ませたから、私の視界は悠真の背中でいっぱいになった。
「いや、ただアンケートのお願いをしていただけで、用というほどでは……」
「へえ。そのアンケート、僕も答えていいですか? もしもあなたにノルマがあるっていうなら、他に人を呼ぶこともできますよ。ああそうだ、すぐそこの治安局にも顔見知りがいますからね。散歩がてらアンケート用紙を配りに行くのも良いアイデアだと思いません?」
口を挟む暇を与えない悠真に気圧された男性は、そんなには必要ないから遠慮するというようなことをぶつぶつ言いながら、逃げるようにして駆けていった。その様子を見るに、やはりクリーンな勧誘ではないのだろう。危ないところだったな、と半ば放心している私の顔を覗き込む悠真は、眉間に皺を寄せてむつかしい顔つきをしている。
「怪我はない?」
「だ、だいじょうぶ……」
多少赤くはなっているが、骨は無事だし、血も出ていない。
「……よかった。はい、深呼吸して」
「深呼吸?」
「はい、深く吸って」
肺を通り過ぎ、お腹まで届くように深く吸って、悠真の「吐いて」の合図で長く長く吐き出す。三度それを繰り返したところで、膝の震えがおさまっていることに気がついた。
「うん、顔色がよくなったね。少し歩ける?」
頷いたら自然と手を握られ、悠真に引かれるまま足を動かす。やがて地面を光が照らすようになり、影が薄くなっていく。雑多な声が鼓膜を揺らす。それにひどく安心して反射的に悠真の手を握ると、それよりも強く握り返された。なんだか甘えた仕草になってしまったかもしれず、心がざわざわする。
喫茶店で珈琲を注文して川辺を臨んだ二階のテラス席に腰掛ける頃には引いていた血の気も戻り、指先がほのかに温かくなっていた。
「それで、なんであんなところに行ったわけ?」
カフェラテを一口飲んでカップに指をくっつけていると、硬い声に叱られる予感がした。アキラはあまり私を叱らないし、親にそうされたのは随分と昔の古ぼけた思い出でしかないから、慣れないシチュエーションに妙な緊張感を覚え背筋がぴんと張る。
「ちょっと散歩したくて」
「一度は待ち合わせ場所にいたのに?」
「……気付いてたの?」
「遠目にあんたを見つけたんだよ。そのとき……あ、もしかしてあんた変な気でも利かせた?」
「えっ? あ、そっか。ふたりでいるところを見られるのって、良くはないよね」
「は? なに、違うの?」
悠真のことを好きなファンの人たちに対する配慮以前に、多くの女の子に囲まれている悠真を見ていると胸がつきりと痛み、どうしてもその場から離れたくなったのである。
「……言っておくけど、あんたとふたりでいることで黄色い声援が減ったとしても、僕の仕事が減るわけじゃないからね? 僕は芸能人でもなんでもなくて、あくまで行動部の執行官なんだからさ」
「うん、わかってる」
「わかってるなら、ひとりで危ないところに行かないで、ちゃんと僕のところに来て。変なのに絡まれてるあんたを見て、久々に肝が冷えたよ」
運が悪かったんだろう。それでも、悠真に冷や汗をかかせたかったわけではない。
「……ごめんなさい」
「いいよ。でも気を利かせたんじゃないとしたら、待ち合わせ場所を離れたほんとうの理由はなに?」
「それは……言えない」
「なんで言えないの?」
「……秘密、だから」
「はあ……けっこう頑固だなあ」
あなたが女の子に囲まれているところを見て心に靄がかかった、なんて。
ミルクも砂糖も入っていない珈琲を飲む悠真から、川辺に視線をうつす。水面に光の粒がいくつも転がっていた。それらは川を行き来する船舶の動きや軟らかに吹く風に揺られて無秩序に瞬いている。
夕刻に差し掛かり冷たさの混じる風が火照った頭をいくらか沈静してくれるといい。ほどよく冷めたカフェラテを一息で半分くらい飲み干して目を閉じる。
「ちょっと、大丈夫?」
あんなことがあったからか、今日の悠真は気遣わしげに顔を覗き込んでくる頻度が高い。驚きも、恐怖もした。助けてくれて安堵もして……それでお釣りがくるくらいだ。
「大丈夫。川とか海を見てぼうっとするのが癖になってるみたい」
旧都陥落とともになくなってしまった生家を思ってふらふらと川や海に引き寄せられ、その私の行動自体がアキラとリンの混じり気のない善心を刺激していたことに気づかないほど、私は子どもではない。
「僕もそういうのは好きだから気持ちはわかるけど、端から見てるとぎょっとするもんだね」
「悠真も好きなの?」
「好きだよ」
躊躇いなくすっと差し出された応酬に鼓動が胸を叩く。路地裏で味わった苦いものではなくて、もっと……形容し難い甘さの混じった、なにか。六分街でぬくぬくと暮らしていただけでは味わえない感情を順繰りに引き出されている。
「そうなんだ……。さっき、楽しそうにしゃべっていたから、おしゃべりが好きなのかと思った」
「嫌いじゃないけどね。とこうしてじっとしているのも好きだっていうこと」
ビデオ屋で言葉少なに寛いで過ごしている様子がほんとうであるのなら、いまは、それだけでじゅうぶんだった。