※チューリップの続き
夕食どきの時間帯だからか地下鉄の車内はそれなりに人が多かった。チューリップが潰れてしまわないかが心配で人混みに怖気ついている私の手を引いた悠真は、ひとりぶんの空いている席を見つけ、私をそこに押し込む。正面に立った悠真の足が電車の揺れに合わせてときどき膝にぶつかる。気分は悪くなっていないかと気遣い尋ねてくる悠真にそこまで脆弱ではないと言いたいが、ふらつく姿を見せた手前、説得力に欠けるのでやめておいた。
支えがなくともまっすぐ立っている悠真から注がれる視線がむずがゆい。自身の膝を見つめたとしても悠真の足が視界の一部を占めている。私よりも大きい悠真の身体は、座っている私をすっぽりと覆い隠してしまうような距離感をもってそこにあった。
この日からずっと、悠真のことを考えている。
「ほんと、びっくりしちゃったなあ」
夜が更けてお客さんがほとんどいなくなったタイミングで、仕入れてきたばかりのビデオテープを整理しながらリンが言う。
「なににびっくりしたの?」
「なにって、そりゃあ悠真がを送ってきたときのこと! 悠真って結構面倒見がいいんだね」
数日前、しっかりとアキラとリンの家まで送ってくれた悠真は、誘われるがまま夕食を一緒に食べていった。デリバリーで届いたピザはすぐになくなって追加で注文したものの、胸がつまってしまっていた私は味がよくわからなくて、その場にいた誰よりも食べた量が少なかった。
「なんかあったんでしょ?」
胸が爆ぜる感覚や、息が詰まる心地、意図しないタイミングで悠真のことが脳裏によぎること、それらと一緒に数日過ごしていたから、リンにじっと見つめられてどきりとする。
「え? なんかって……?」
「嬉しかったこととか、悲しかったこととか? だってあのときの、様子がおかしかったもん」
「私、様子がおかしかったの?」
食事がいまいち喉を通らなかったことを除けばいつも通りを装えていると思い込んでいたが、それは私の思い込みにしか過ぎなかったのだとリンの丸い目が教えてくれる。
「上の空っていうか、落ち着きがないっていうか。お兄ちゃんもさ、言わないけどたぶん気にしてたと思うよ。悠真になにかされたの?」
アキラもリンも鋭いところがあることから、誤魔化しが効かない。
「あのね、リン。悠真がね……」
「うんうん」
「私に、名前を呼んでほしいって言ったの」
「うん……? 名前って、悠真、って?」
「うん」
「呼んだことなかったの?」
「実は……そうなの」
「なるほど。そっか、そういうこと。それで悠真が拗ねたんだ」
「わからないけどたぶん、拗ねてはないと思う」
アキラからのメッセージが届いたスマホを手のひらで覆い隠されはしたが、それくらいで……あれは拗ねているのとは違うだろう。違うことはわかっても正解が掴めないのは情けない話だけど、いまの私に考えが及ぶ範疇ではない。わかるのは、アキラとおなじように名前で呼ぶことを悠真が求めているということだけだ。
「まあまあ、名前くらい呼んであげなよ。それにしても悠真もかわいいお願いするんだね」
「う、うん……」
「……、顔赤くない?」
一度目はぎこちなかった。いきなり呼んだせいだ。眼前にいないときはするっと滑り出てくるのだから、二度目はきっとうまくいくだろう。
活発そうな色を湛えた大きな瞳に顔を覗き込まれて、頬に触れる。言われた通り、ほんのりと熱を帯びていた。自覚は体温をさらに上昇させる。
「体調悪かったら明日休んでもいいんだからね」
帰り際に放たれたリンの言葉は然して現実となったのである。
疲れが出たんでしょうね、ゆっくり休むことですよ。なにせ熱が出るのが久々だったので高熱とまでもいかない発熱で診療所にかかると、医師は柔和な笑みでそう言い、解熱剤を処方してくれた。
シフトの入っている日に病欠するのは初めてのことで、アキラに連絡するのに数分ためらった。
「平気かい? 看病に行こうか……いや、わかってるよ、リン」
電話の向こう側でがやがやと声がする。今日、彼らは多忙らしく、そのような日に休んでしまって申し訳なさが際立つ。
「君はなにも気にしなくていいんだ。とにかく、ゆっくり休んでくれ」
アキラの声は医師と同じくらいに柔らかい。
「……うん。ごめんね」
「気にしなくてもいいって言ってるのに。夜になったらまた電話するよ」
電話が切れると途端に部屋が冷たく沈黙する。火照った頭を枕にあずけて天井を眺める。視界が回っているのが気持ち悪くて目を閉じた。
熱を出したのは何年ぶりだろうか……。運動の習慣がないうえに六分街からまともに出ない生活を送っているとはいえ、風邪とは無縁だったので、旧都で暮らしていた幼少期以来だろうと思う。まだ両親が健在で、アキラとリンもそばにいた。熱を出して眠っていても誰かがそばにいてくれたから、心細い思いをする暇などなかった。
やることがないのはよろしくない。昔を振り返るなどとんでもなく、そのせいで眠りの合間に夢を何本か見た。
あるときは父と母と手を繋いで歩いている。あるときはアキラとリンと庭に出て各々好きな本を読んでいる。青々とした芝のある庭で、大きな木に葉が幾重にもなって大きな影をつくっていた。地面を塗る黒がどんどん広がっていく。つま先をべたりと侵食する黒のなかから両親の声が聞こえた気がした。
目をさましたら夕方で、夜まではまだ時間があった。いやな夢を見たせいで額に汗が滲んでおり、タオルで顔を簡単に拭うとその刹那、インターフォンが鳴ってどきりとした。アキラかリンが来てくれたのだろうか。反射的にスマホを引っ掴み、最新のメッセージを開こうとしたところで、床に落としたスマホが足のすぐそばにぶつかり硬い音を立てる。そのあと、再度インターフォンが鳴って、慌ててスマホを拾い上げモニターを確認すれば、玄関先には予想に反して悠真が立っていた。
「寝ているなら帰ろうかと思ったんだけど、物音がしたから鳴らしたよ。顔色が悪いね。あんたはまぎれもなく病人だ」
スマホを握りしめてうんともすんとも言えないでいると、悠真が目の前で手を振って「疲れが出ただけって聞いてるけど……」と声のトーンを落とす。この家を訪れる人は決まりきっているから、悠真がここにいる光景にはっきりとした違和感をおぼえるのは当然で、私は混乱の渦中を彷徨う。
「もしかして、アキラくんから連絡きてない?」
「いままでずっと寝てて、ちゃんと見てないの。あ……、悠真がお見舞いにいくよって連絡がきてる……」
それを告げたときの悠真の顔にばつの悪さが浮かび、私は申し訳なくなる。私の顔に浮かぶ驚きと混乱が悠真の好意に水をさしたのだと思うとひどく胸が痛んだ。
アキラとリンは夜遅くまで用事があるため、お店にやってきた悠真に訪問を頼んだ旨が丁寧に書かれているメッセージに取り急ぎ返信をして、画面を落とす。
「……なにか飲んでいく?」
病人のそばにいるのはいやかもしれないと考えが及ぶ前に、その場しのぎの言葉がこぼれ落ちる。悠真の手にあるビニール袋と、透明なセロファンに包まれた一輪のアイリスが視界に染み付いたものだから……どうしても帰ってほしくなってしまったのだ。
「なんで病人がおもてなししようとしてんのさ。それは、僕の役目でしょ。アキラくんにも許可もらってるけど、あがってもいい?」
どうぞと答える掠れ声に悠真は「なにか飲まないとね」と苦笑した。
ソファに身体を沈ませ、花瓶に生けられたアイリスの紫がかった青色を見つめている。その向こうにあるキッチンでは悠真が鍋でホットミルクを作っている。現実味のない状況に、これも夢かもしれないとおでこに手を当てるがきちんと熱かった。
「無理に起きてなくていいから寝てなよ」
一挙手一投足を気に留められ、そのたびに平気だと伝える。引き結ばれた唇は納得していませんという心の表れだろう、しかしただの疲れだ。それも、長いあいだ崩れなかったサイクルにほんのわずかな変化がうまれたことによる、知恵熱のようなそういうもの。よく眠り、よく休めばじきに引いていく不調である。
悠真って面倒見がいいんだね、と言ったリンの声が唐突に思い出されてなるほどと納得した。悠真は面倒見がいいのだろう。きっと、そう。
「言っとくけど、あんたに変なことしたらアキラくんが黙ってないんだから、警戒しなくてもいいよ」
「えっ。警戒なんてしてないよ。もしかして、そういうふうに見えてるの?」
「どうだろう、僕の被害妄想かもね。でも、なにもしないから安心して」
はぐらかされたなと思った。頭がぼんやりするのは熱のせいだ。
「ホットミルク、飲むでしょ?」
マグカップを持てるかと問われたのにはぎょっとした。さすがに悠真の目にうつる自分の強度が心配になりかけたのが、しっかりと顔色にあらわれたらしい。
「違う違う、もしマグカップも持てなそうなくらい具合が悪そうだったら病院に連れていくって。……さっきまであんたの手が震えてたから気になっただけ」
ほんとうによく見てくれているんだなと思ったし、それほどにまで私がわかりやすいのかもしれないとも思った。いまや手のひらは震えてはいなくて、その余韻すらも確認できない。
「寝てたらいやな夢を見たの。だから……そうなってたんだと思う」
「いやな夢か……」
マグカップを持たせてくれた悠真は持てるかどうか念入りに確認してから手を離した。普段飲むものよりも甘い味付けのホットミルクは空腹のお腹にやさしい。
「お味のほどはいかかですか〜」
隣に座る悠真は戯れるような口調だ。
「すごく美味しい。ありがとう」
「味付けの好みとかあった?」
どこかで聞いた台詞は、以前、珈琲を淹れた私が悠真に投げたものだった。意趣返し……? まさかそんなはずはない。でも、まだ悠真というひとのことをなにからなにまで知りえているわけではない。伺い見ればまたばつの悪そうな顔をされて戸惑ってしまうくらいなのだから。
「人に出すのって落ち着かないんだなって思ってさ。僕は甘いものをあんまり飲まないしね。でもあんたが気に入ってくれたならいいや」
そんなふうに笑いかけられた私はすっかり落ち着かない心地に浸かっている。警戒しているのではなく、あの夜にアキラとリンの家に送り届けてもらったときのような変化がいまも起きている。
頭が熱く、顔が火照っている。発熱を指摘されるまえに、悠真の名を呼んだ。一度目のぎこちなさが嘘に思えるほどすんなりと素直に彼の名前が舌先から離れていった。
「悠真」
さらに重ねれば、名前で呼ぶようにと言いつけた側が声を詰まらせる。それに構わずに、もう一度呼んだら、口を手のひらで覆われ塞がれてしまった。
「ちょ、ちょっと!? いきなり積極的だなあ……じゃなくて、どういう風の吹き回し?」
「悠真の名前、ちゃんと呼んだよ」
手首を掴み、口を覆う手を遠ざける。スマホを押さえつけていたときよりも力は込められていなかった。
「でも、悠真は私の名前を呼んだことがない……」
あんた、あんた、って、そればかりだ。私の名前はあんたじゃない、と言ってしまえば、列記とした意趣返しになるだろう。そこまで口にする度胸は持ち合わせていないものの、不平を抱く心はわだかまるばかりである。
「気づいたんだ? あんたは、僕があんたの名前を呼んでいないことに気づかないと思ってた」
「……? どうして?」
悠真の指先が空になったマグカップを取り去る。はぐらかされるかと思ったが、それらしい言葉はいつまでも飛んでこない。なにやら深く考えあぐねているようだ。日夜悠真のことばかりを考えているから、気づかないはずがないのに。……初対面で名乗ったきりだから、私の名前を忘れてしまっている可能性も考えられるだろうか。
「アキラとリンから聞いたことがあるかもしれないけど、私の名前は……」
「。……知ってるよ」
私の名を呼ぶ声。幾分か低いトーンと私にだけ聞こえる大きさで、耳の底にゆっくりと落ちてくる。
「……はい、おしゃべりは終わり。病人はちゃんと休むこと」
ぱん、と手のひらを鳴らした悠真にベッドに押し込まれて、胸元まで布団をかけられてしまえばあとは眠るだけだ。
「こんなにしてもらっちゃって……どうやってお礼したらいい?」
「それは治ってからでも考えられるでしょ」
「そっか……でも、私にしてほしいことがあったらなんでもするから、考えておいてね」
「……なんでもするって、あんまり言わないほうがいいと思うんだけどなあ」
額に冷却シートを貼り付けてからぺちぺちと指先で叱られてしまうが、すでに意識は眠りに片足を突っ込んでいる状態であったので、これ以上会話を成り立たせる自信がなく、おとなしく口を結ぶ。
「僕が悪いやつだったらどうするつもりなんだか……」
すでにまぶたは薄く開いたり閉じたりを繰り返している。ホットミルクの香りに似た甘い眠りがすぐそばまでやってきている予感がする。
「それとも、あんたの無防備さってアキラくんのことを信頼してるからこそなのかな」
まぶたがぴったりと閉じて、こめかみを枕に押し付けるように身じろぎをした。汗でうっすら湿った横髪に触れられるのに抵抗感をおぼえても、目を開くことができなければ、喉から声を出すことも叶わない。身体のすべてが動きをやめてしまっている。
よけられた横髪と、むき出しになっているはずのこめかみ。目のすぐそばにある場所に、柔らかいものがくっつけられて、すぐに離れる。
なにもしないって、言ったのに。
胸の奥がまた爆ぜる。ぱちぱちとうるさいそこを守るように身体を丸めると、布団ごしに背中を撫でつけられた。その日は、ずっと悪夢を見なかった。