誰に指摘されるまでもなく世間知らずな私はH.A.N.Dという公的機関には縁もゆかりもないので、ビデオ屋のまえに佇むその人物の顔はインターノットの記事に添付された写真で見かけたことはあれど、やはりビデオ屋と繋がりがある人物であるようには到底思えなかったから、彼がアキラとリンと親しい仲である想定は端からなかった。
彼は悠真、浅羽悠真っていうんだ、対ホロウ行動部の執行官で、僕たちの友人。
アキラの薄い唇から雄々しい肩書が語られ、それらを体にくくりつけて立っているはずの悠真は人好きのする笑みを浮かべて「よろしくね、アキラくんとリンちゃんの幼なじみちゃん」と軽やかに手を振る。18号の横でぎこちない自己紹介を繰り広げる私をよそに、歌うような声音が古いビデオで敷き詰められた店内のあちこちで遊んでいる。
「アキラくんってあんたのお兄ちゃんみたいだよね」
アキラは悠真とルミナスクエアやリバーブ・アリーナに出かけて、仲の良い友だちがするような交流を重ねているようだ。そこに私が混じることはなく、悠真が私個人に話かける機会も用事もこれといって見当たらなかった。それが、カウンターごしに一輪のチューリップと焼き菓子を片手に話しかけられて、はじめましてのとき以来に硬直する。
「アキラくんはまだルミナスクエアに用事があるから帰りが遅くなるって。この花とお菓子はそのお詫び。そして、僕はアキラくんの使いっ走りをさせられたアキラくんのお友達」
「あ、そっか。ありがとうございます」
「素直にお礼ができるのはいい子だね」
悠真は満足そうに頷く。
「それと、帰りは気をつけて帰ること、だってさ」
「あ、はい」
「あんたの家ってどこらへんにあるの?」
「雑貨屋の近くの小さいマンションです」
「じゃあかなりご近所さんか……。アキラくんって実は過保護なのかな」
六分街からほとんど離れることもなく家とビデオ屋の往復がお決まりとなっている私に、アキラはときどきルミナスクエアなど外出先で購入したお菓子をお土産にくれる。それは幼なじみのよしみとしてのものか、店長としていちアルバイトを気にかけているのか、あのなだらかで凪いだ表情の底に沈む真意は読めない。
過保護ではないだろうとは思うが、家族としての枠に収まっているわけではない私がアキラにあれこれ気にかけられているというのは、第三者からみて過保護に扱わているように見えるのかもしれない。
「誰かにお花をもらったの、はじめて」
脈絡のないひとりごとを悠真は決して揶揄わない。
「花が好きなんだ?」
「好き……? ……貰えたことが嬉しいのかも?」
言ってから、なんだか私の発言には主体性がないなと思った。悠真は私のぼやぼやとした言葉たちに気に留める様子はなく、そうなんだ、と呟いただけで、あとは静かに店内でビデオを選び、とうとうなにも借りずに店をあとにした。
アキラやリンとは幼なじみで、旧都が陥落する以前も多くの時間を共有していた。三人で並んで眠ったり、お互いの誕生日にプレゼントを贈ったり、遅くまで出かけて揃って大人に叱られたり、諸々。
いまは私たちを監督する大人は存在せず、三人の眠りからアキラが抜けたものの、誕生日はお祝いするし、家に泊まったりもする。工房の壁を埋めるモニターに見て見ぬふりをして、なんにも気にしていない風を装い、ひとりで暮らす私はそうやって彼らと変わらぬ関係を保っている。彼らの「していること」に首を突っ込んだとしても、私が力になれることはないだろうけれど。
チューリップとお菓子を届けてくれた日以来、悠真はアキラとリンの不在を問わずビデオ屋を訪れるようになった。よく喋るひとという印象がくっついていたはずの悠真は、ビデオ屋で映画を選んでいる最中はおおむね静かで、カウンター脇のソファに腰掛けて持ち込んだ珈琲をのんでいるさまはまるで家でくつろいでいるかのよう。
「よかったら珈琲飲む?」
その日は雨が降っていて来客もまばらだったので、店内が悠真だけになったタイミングでお茶を淹れた。白いシャツの肩が濡れていて寒そうだったから、温かいものを飲んでほしくなったのかもしれない。
「僕に聞いたの?」
悠真の目は丸くなる。うなずいたらもっと丸くなった。「それならもらうよ、ありがとう」とマグカップを受け取るために伸びてきた手は大きい。
「……味はどう?」
ドリップのものを説明書き通りに淹れただけなのでまずくはないだろうが、珈琲を飲む習慣がないため良し悪しがわからない。
「美味しいよ」
「そうなの? 味の好みとかある?」
「いやいや、僕そんなにあつかましくないって……もしかしてそういう風に見えてる? だとしたら傷つくなあ」
大袈裟にため息をついてみせた悠真は、大丈夫、美味しいよと念を押す。淹れてくれてありがとう。律儀なお礼は飾り気はないけれどとても丁寧で、六十度のホットミルクが入ったカップよりも私の指先をあたためてくれる。
「たぶん、悠真はこの店を気に入ってくれたんだと思うよ。前に、温かみがあるって言ってくれたことがある」
アキラが不在のときの悠真の様子を伝えれば、彼は目を細めてそう教えてくれた。
「というよりも、僕はきみと悠真がそこまで親密になるとは思わなかったな」
「親密……?」
交わす言葉は多くない。アキラの言葉通りであれば悠真の目的はビデオ屋そのもので、私ひとりにごく個人的な用事をもって訪れているわけではないとは思う。たぶん、きっと。
「それよりも私、アキラに聞きたいことがあって」
悠真を話題に出されると胸の奥がぱちぱちと鳴って落ち着かなくなる。これ以上は困ると思い、不自然に話題を変えた。
「なんだい?」
アキラは私の不自然さに追求せず小首をかしげる。
「このあいだお菓子と一緒に買ってくれたチューリップ、あれどこで買ったの? 明日お休みだから久しぶりにルミナスクエアに行って自分でお花を選ぼうと思って」
だいじにお世話をしていた甲斐もあって二週ほどは元気でいてくれたチューリップがついにだめになってしまったから、花瓶に生ける花が欲しい。嘘ではないが、わざと話題を逸らしたため後ろめたさが滲み出る。
アキラはまだ首をかしげたままだった。さらに「……チューリップ?」と疑問を携えて私に問いかけてくるのでこちらの方こそ首をかしげたくなってしまう。
「ルミナスクエアの花屋には心当たりがあるけど、僕はきみにチューリップを買っていないよ」
「えっ……でも、悠真が、アキラからだって……あれ?」
アキラに心当たりがないのだとしたら、花を買った人物の候補はあとひとりしかいない。だけど……どうして?
いくら考えてもたどり着けそうにない悠真の意図をどうにかして汲み取ろうと足掻く私に、アキラは「やっぱりきみたち仲良いじゃないか」と苦笑いしてみせた。
朝露という花屋で一輪のチューリップを買った。紫陽花やアイリスなど他にも品種はあったけれど、結局チューリップを選んでしまった。白い紙にくるまれたチューリップを手にしてみても、悠真がどのような心持ちでこれを選んだのかちっともわからない。
火鍋屋がある通りから脇道にずれて水辺の方角へと足を動かす。やがて、雑踏の混沌とした匂いがすっと抜けて、澄んだ香りだけで鼻が満たされるようになるから不思議だ。
公園の鉄柵にお腹をくっつけながら暮れゆく景色を眺めていた。黄金色から、橙色に。それから、紺色に。空の色が変わり、それにともなって水面が真っ黒に染まっていく。
黙ってどこにでも行かないでほしい、それが難しいのならせめて変な気を起こしそうになったら必ず連絡してほしい。アキラは私の手を握って何度も何度も言い聞かせる。だけど、すでにホロウに飲み込まれてしまった家、あるいは家族を求めて、私は何度も夜な夜な家を出てさまよっていた。そのたびに水辺に行き着き、鉄柵に身体を阻まれて六分街に押し戻される。アキラとリンのお店でアルバイトをはじめたのは、数年前に突如発症した私の家出癖が寛解のきざしを見出したころだった。
そんなことを長時間考えていたからか、立ちっぱなしの膝裏はかたく強張り、歩き出すのを拒む。朝からなにも食べていないのに気づけば空腹を知らしめられて頭がふらついた。その場にずるずると座り込んで目を瞑って、足音がそばにやってくるのを抵抗なく受け入れる。
「体調でも悪いの?」
悠真は私の二の腕を掴んで引っ張り上げ、手近なベンチに座らせた。
「ずっと立ってたから足が疲れちゃっただけ……」
「は?」
「ご、ごめんなさい」
「べつに謝らなくていいけど。でも、いくらなんでも運動不足すぎるんじゃない? アキラくんがあんたを心配する気持ちが少しわかったよ」
私はぱちぱちと目を瞬かせる。
「運動不足だから?」
「そうじゃなくて、……まあいいや」
隣に腰掛けた悠真は、握りっぱなしにしていたチューリップを私の手のなかから引き抜いた。
「チューリップが好きなんだ?」
「このあいだのチューリップが枯れちゃったの」
「このあいだのって、アキラくんにもらったやつのこと?」
「……買ったのはアキラじゃないって聞いたよ」
「なんだ。気づかれちゃったか」
どうしてチューリップをくれたの、なんて訊けなかった。私だって、悠真に珈琲を出した理由を訊かれたら困ってしまう。雨が降っていて、悠真の服は濡れていて、温かい飲み物を出したくなったから、それだけ……それだけの単純なことの積み重ねによる日常の延長線上で、私はひとりで電車にのってルミナスクエアまでやってきたのだ。籠もりがちの人間にとっては驚くべき状況である。
「……えっと、その。どうしてここにいるの?」
「協会キャリアセンターにちょっとね。水辺でも見てから帰ろうとしたら、あんたがいまにも倒れかかってたからびっくりしたよ、ほんと」
手元でくるくるとチューリップを回している悠真の面持ちは水面よりも静かだった。また胸のあたりがぱちりと爆ぜる。心配してくれたのだろうか。ポート・エルピスでひとり潮風に吹かれていた夜を思い出す。あの日迎えにきてくれたアキラといま隣にいる悠真が重なって、しかしすぐにぶれる。
ごめんなさい、と謝罪を口にしかけたところで、ポケットのなかでスマホが細かく揺れた。悠真に断りを入れて届いたメッセージを確認すると、それはアキラからのものだった。
「どうかした?」
「アキラが、夜ご飯にピザをとるから食べにこないかって」
すぐにベンチから腰を浮かせて、地下鉄に乗って六分街に戻る。少なくとも、悠真と出会うまえの私はそうだったはずだ。いまは、ここでしばらく夜風に吹かれるという選択肢がうまれてしまっている。
私は動揺していて、隣にいる悠真に答えを求めるかのように視線を流すが、もちろん悠真が私のゆく先を示してくれるはずなどない。
なにはともあれアキラに返信しなければならないと思い、メッセージの入力フォームをタップしかけるが、悠真の手のひらがそれを遮り、画面をまるっと覆い隠してしまう。
「あ、あの……?」
「僕の名前は、あのでもそのでもないんだけどなあ」
そんなことは知っている。悠真の名はアキラやリンの口から何度も聞かされたし、私だって声にしたことがある。ただしそれは悠真が眼前にいないときのみだった。悠真がそれについて言及していることくらい、私にもわかる。
スマホと悠真の手が私の手のひらに乗っかっている。たいして重みはないはずなのにやたらとずっしり重く、その質量は私の逃げ道を埋めようとしている。
「浅羽悠真」
物覚えの悪い相手に言い聞かせるように、ゆったりはっきりと、一音一音丁寧に発音するのだ。
「……あさばはるまさ」
「そうだよ」
「浅羽、さん」
違う、と悠真は静かに諫める。悠真の手のひらのなかでスマホの画面は真っ暗に落ちてしまう。
「アキラくんのことはアキラって呼べるのに?」
悠真はアキラとは違う。悠真は、私の幼なじみじゃない。それがどうして、名前を呼ぼうとするだけでこんなにも無上に緊張するのだろう。
「……はるまさ」
やっとの思いで喉奥から押し出した声は半ばかすれていた。次いで、どんどん顔が熱くなっていく。心臓がどくどくと血を巡らせている。それらの気恥ずかしい変化を悠真に決して気づかれたくなくて、顔を俯かせた。
「及第点ってところかな。次はもっとスムーズに呼べるようになってね」
手のなかでスマホが震えた。勝手に触ってごめん、と言って手を離した悠真は、やや迷ってからチューリップを私の胸元にそっと押し付けた。アキラからの追加のメッセージは「もし都合が悪かったら遠慮せずに断ってくれて構わないよ」と慮るもので、慌てて「なんでもない、今晩はお邪魔します」と返信する。ようやっと、正常な体温が戻ったきた心地がする。
「アキラくんちに行くんでしょ? 送ってくよ」
「大丈夫だよ……子どもじゃあるまいし」
「ルミナスクエア、慣れてないんでしょ。さっきもふらついてたし危なっかしいから送ってくよ。そうしないと僕がアキラくんに叱られちゃうだろうなあ。あーあ、いやだなあ、アキラくんに叱られるの……」
手首を掴まれて、すくっと立ち上がらされる。川辺の方から吹く風が横髪をさらう。悠真は私の答えをじっと待っていたが、私がなんにも言わないものだから、やがてそっと歩き出した。それは忙しなく動いていた私の心臓をなだめるかのような、とても控えめな足音だった。