昨晩から間断なく降り続ける雨は霧のようにやわらかいらしい。キッチンに立ってクリームシチューの鍋をかき混ぜているアキラは、まる二日間も部屋にこもっている私の服を着替えさせているときにそう教えてくれたのだった。
 病人ではない。ましてや、怪我人でもない。虫歯があるとか鼻炎に苦しめられているとか、はたまた慢性的な疲労感に襲われているわけでもなく、きわめて健康そのものである。どうしたものか、不思議なことにこの健康体は月に一度あるかないかの頻度でぐったりと布団に臥せてしまう。晴れでも雨でも曇りでも、雪でも雷でも……天候問わずにそれは決行されるのだ。
「シチューの他にパンは必要かい?」
 ふるふると首を横に振ってみせたのはたいして食欲が湧かないという理由の他に、首肯はアキラの手間を増やすだけだと数十分前に学んだからだ。
「それじゃあ一応一切れ用意するよ。もしかしたら欲しくなるかもしれないしね」
 にこりと笑いかけられ、ぐっと喉をつまらせている私をソファに置き去りにして、ナイフでバケットを切り分けるべくキッチンに戻っていく。
 パジャマのボタンをひとつひとつ丁寧に外した長い指先は、今や私のために食事を用意している。私はアキラに着せてもらった部屋着に身を包んで、食事が出来上がるのをおとなしく待っている。アキラがそうしたいのであれば親切をはね返さずにいようと思ったのも束の間、ほどよく冷まされたシチューを手ずから食べさせようとするものだから勢いよく身を後退させれば、腰骨がソファの肘掛けにぶつかって鈍く傷んだ。
「急に動くと危ないから、おとなしくしていないとだめだよ」
 ついでに叱られ、了承のひとつも取らずに唇にスプーンの硬質な感触が押し当てられる。ほとんど反射的に開いた口に温かいシチューが入り込み、咀嚼をして飲み込むとアキラはたいそう嬉しそうな表情をして「いいこ」と言って私を褒めた。

 記憶が定かであれば、アキラの来訪についてうんと躊躇ったはずだ。
 まどろみから私を引っ張り出したスマートフォンを横たわったまま耳に押し当てて、窓を濡らす淡い雨音にアキラの穏やかな声が混ざるのを聞いている。
『僕は君の寝起きも寝巻き姿も見たことがあるよ』
 それが指す状況はふたりでお泊まりをした日のことだろう。肌を合わせたり、ただただ身を寄せ合って眠るだけであったり、そこそこの覚悟をもって臨む夜のこと。不意の無防備をさらすのとはわけが違うと思うが、アキラは重要な問題として捉えてはいないのか、『なにか食べたいものは?』とリクエストを訊ねてきた。
「……からあげ。揚げたての」
『ご期待に添えなくて申し訳ないけれど、揚げ物はできないんだ。シチューでいいかな』
 最初からメニューが決まっているどころか、家に入ることだって決定事項だったのではないか。憮然としてスマートフォンに頬を押し付けて黙っていると、薄い板から小さな笑い声が運ばれてきた。すぐに行くよ、という言葉が添えられてしまえば、降参は容易かった。

「今日は揚げたてのからあげでいいかい?」
 あれから不調のたびにアキラは毎度飽きもせず私の部屋にやってきては着替えや食事をさせるのに凝っていた。いつかはいやになるだろうと思っていたのに、アキラの自炊スキルはどんどん上がっていく。パジャマのボタンがまったく違った意味合いをもって外されていくのをはじめは複雑な心境で眺めていたというのに、いつのまにか眠気がさめない目でなりゆきを見守るのみとなっている。
「……ごめんね。あれ、冗談だったんだよ」
 部屋着に身を包んだ私にアキラは肩を竦めてみせる。
「そうだろうね」
「わかっていたのに作ってくれるの?」
「せっかく練習したんだから披露という意味合いも兼ねて作ろうかと思ってね。味はリンのお墨付きだから、問題はないと思うけれど」
 わざわざ練習をしたのだと告げられて、さすがに眠気が吹き飛び目を大きく瞬かせる。いくらなんでも献身が過ぎるのではないかと困惑が胸の奥で渦巻き、やがて大きく膨らんで身体のそこかしこを騒めかせるものだからたまらない。

 歓喜とも当惑とも判別がつかない感情に支配されているうちにアキラは練習の成果を遺憾なく発揮し、完ぺきなからあげを作り上げて私の度肝を抜いた。
「気に入った?」
「気に入ったっていうか……すごい」
 テーブルに並べられたお皿を見つめる私に向ける眼差しは「飽きた」とか「いやになった」とは対極にあるのではないかと都合よく捉えてしまうほどにやわらかい。
「練習したかいがあったな」
 アキラから惜しみなく与えられるやわらかいものに包まっているばかりでは、ひとりで不調を乗り越える力をつけられないのではないか。甘やかされるたびに後を追ってくる恐ろしさの存在を認知する。シーツに頬を押し付けて、水を飲んで空腹をいなし、調子が戻るのを今か今かと半ばうんざりした心地で待ちわびるのだ。
「さましたから熱くないとは思うけど」
 はっとして思考をやめると今まさに口元にからあげが運ばれているところであった。食べさせてほしいと強請った自覚はないが、私の両手は太腿の上でおとなしくしているので、自らの意思で食事を摂ろうともしなかったらしい。
 ものを手ずから食べさせてもらうのに躊躇する心をなくし、アキラに身を委ねるほうを選んだのは一体いつからだろう。
「味はどうかな」
 見た目の出来どおりに味も完ぺきなからあげを噛みしめてどうにか首を縦に振る。無意識に甘えた行動をとってしまっているのだと気づいてしまったがために、羞恥に喉が燃えて声をあげられそうになかった。