ーーセスにずっと伝えたいことがあったので、こうして手紙を綴ることにしました。
 便箋を何枚もだめにして、とうとう腹を括って書き出しから本題を書き連ねる。ペンの先が情けなく震えている。窓の隙間から流れ込んでくる生温い夏の風にさらされたインクは待たずともすぐに乾いてしまった。
 ーー物心がついて間もなくして仲良くなってくれてありがとう。家から出られないでいるとき、家でできる遊びを教えてくれて、ありがとう。そして、そして……長年、婚約者でいてくれて……本当に、ありがとう。

 地下鉄駅から吐き出された人のかたまりがするするとほどけて、皆それぞれのゆくべき場所へと向かっていく。それらを数分眺めていたら、人の合間を縫ってこちらへ駆けてくる白銀のシリオンが初夏のまばゆい景色に侵入してきた。セスだ。
「暑かっただろ? 駅の中にいてもよかったのに」
 勤務終わりの疲れを微塵も滲ませずに言って、私の手を掬い取る。
「セスが待ち合わせ場所に来るところを見たかったの」
「なんだそれは。珍しく早く着いていると思ったら、妙な遊びをしていたんだな」
 指同士を絡めてエスカレーターを降りてホームへ向かう。セスの高い体温に指をぴったりくっつけるようにして力を入れると、やっぱり遊んでいるな、と笑われるのがくすぐったい。今日限りで手放してしまう温度を忘れないためにめげずに力を入れたままでいるのを、どうか許してほしいと希う。

 物心がつくまえの私は悪いひとに誘拐されたことがあるらしく、その事件が起きてから病的な神経質さにとらわれた母は室内で過ごす不自由を私に与えた。おなじ年頃のセスがはじめて家にやってきたのはその不自由に不満を抱きつつあった時分で、自由で活発なセスがやけにまぶしく見えたのである。影が濃く、日向が眩しい夏の日だった。
 陽に焼けていない不健康に白い肌が嫌だった。薄い長袖のカーディガンで身を守った私に、セスはだれにでもするように均等に笑いかける。
「庭で遊ぶのはダメじゃないんだろ? キミがサッカーボールを上手に蹴れたらいいんだけど」
 第一印象は『私とはきっと性格が合わない男の子』で、その次は『元気な男の子』、そして、その次は……。
 セスとセスの兄を交えてサッカーボールで遊んだり、映画を観たりするのは確実に私の生活に彩りを添えた。やがて季節がめぐり、そのうちにセスの兄はその輪から外れていったけれど、セスだけは変わらずに家にやってきた。
は外が怖い?」
 学校に通わず家庭教師に勉強をみてもらっている私を心底不思議に思っていたのだろう。セスの質問はその視線と同じくまっすぐで、たまに胸に刺さって痛む。
 何年もまともに家の敷地内から出たことがなく、出たとしても大人に手を引かれているので、想像しようがないというのが答えだった。家から出られない理由と一緒に、怖いかどうかもわからないのが怖いと伝えたら、セスは幼いながらも神妙な表情を丸い頬に浮かべる。
「そっか、それなら……オレがとずっと一緒にいれば問題がなくなると思う」
「……どうして?」
「どうしてかは、まだ秘密だ」
「わ、わかった。でもずっと一緒って、結婚の約束みたい……」
「オレはいいよ」
 ……いいの?
 セスの頬に朱が差し込んでいる。大事な折にはいつも夏があるなあと、セスとの約束を反芻するたびに思いを馳せている。
 幼くも拙い約束が交わされ、大人たちも了承するのにそう時間はかからなかった。『オレがずっと一緒にいれば問題がなくなる』という言葉のとおりになったのは数年後にセスが進路を打ち明けてくれたときで、近い未来、治安官として市民の安全を守るようになるセスとの約束は母を安心させた。
 そのうちに私は外の学校に通うようになり、私とセスの仲は順風満帆そのものだった。ルミナスクエアだけではなく、この頃は六分街へ出かけてアーケードゲームに興じることもある。セスの友人が営むビデオ店でビデオを借りる頻度も、しばしば。
 だけど、治安官になるために死にものぐるいで訓練をして学んでいるセスをそばで見ていると、後ろめたさが背後からじくじくと迫りくるのだ。いまだ学生という身分におさまりモラトリアムをなぞるように生活している私とセスは、絶対に対等ではない。

 セスがそれでいいならいいのではないか、というようなことを溢したのは誰だっただろう。彼の兄かもしれない。
、もしかしてばててないか?」
 思い出に浸かっているせいで呆けていたようだ。六分街に向けて改札を抜け、陽のもとに足を踏み出したところで繋いだ手を引っ張られた。
 上がった腕に空気が揺れて、ふわりとサボンの香りが漂う。長い勤務を終えたセスはシャワーを浴びてから待ち合わせにやってくることを知っている。熱を測るときは手のひらを額に押し当てて口を閉じて考え込むところだって、何度も見た。
「ばててないよ。セス、お母さんみたい」
「オレはキミの母親じゃない。婚約者だろう……暑さで記憶が混濁してるんじゃないか」
 生真面目な返しに笑い、セスはそれを咎める。婚約者という肩書きをセスから拭いとろうとしていることをまだ知らない大きな手が、また私の手を握る。
 疲れを滲ませはしていないにしろ、目の下には子どもの頃にはなかった隈が浮かんでいる日がある。一日丸々会える日はほとんどなくて、私は数時間会えるだけでも嬉しいけれど、セスにとってはどうなのだろうかと疑問は降り積もるばかりだ。自由気ままに休んだり遊んだりしたいのではないか、とか。
 だって、手を繋ぐだけで、キスをしたことがなければ、抱きしめられたこともないのだ。婚約は愛ではなく枷なのかもしれない。道理を充分に理解できていないがゆえの約束と、大人たちの強固な了解によって成り立ち、逆にいえばそれらがなければ婚約の中身はただの空っぽなのだろうと思う。
「ゲームセンターに行く前に喫茶店で休もう」
『COFF CAFE』のテラス席に腰掛け、陰のもとに吹き込むぬるい風を頬に浴びる。お別れのために薄い手紙を書いたときとおんなじ風だ。夏のはじまりに、パラソルの端から空を見上げる。青い空と白い雲の境目がくっきりとしている。
 セスがミントエスプレッソを注文するため店内に行ったのを合図に、鞄から手紙を取り出す。飛んでいかないように持参した透明なペーパーウェイトをその上に置けば完成だ。さよならの準備は万端で、あとは腰を浮かせてこの場から立ち去り、もうセスと二人で会わないだけだ。
 それだけのことが、こんなに難しく感じるだなんて。
 意を決して立ち上がると、椅子ががたんと音を立てた。陽が全身を灼く。心臓が忙しなく動き、ばかみたいに鳴って全身に血を送る。じわりと汗が滲む。汗と涙の判別がつかない滴が目尻から頬を伝っていく。
「あれ、君……どうしたんだい? セスと一緒じゃないのか」
 とんでもない間違いを犯した私は、セスに別れを申し出る置き手紙を残した足で地下鉄駅へと向かうはずが、真逆のビデオ屋に向かっていたのである。
「あなたは、ビデオ屋の店長さん……」
「アキラでいいよ」
「アキラ、くん」
「うん。なにか困りごとかな。ビデオを借りにきたとか?」
「い、いいえ。道に迷っちゃっただけです。今日は帰ります」
 ビデオを選んでいく余裕などなく、一刻も早く六分街を離れなければならない。喧騒から離れたこの街がとても好きだった、ずっと好きでいたかった。目の奥に燻る熱が涙を押し出すのが恥ずかしくてたまらない。
「……っ、居た! は、店長!?」
 さすが足が速いなと感心するそばから肩を掴まれ、身体をくるりと反転させられる。セスの薄紫の目がぎょっと見開かれた。
「弁明しよう。僕は誓って彼女を泣かせていない」
「そんなことは言ってない」
「でもセス、一瞬でも考えただろ?」
「……い、一瞬だけだ。オレにも心当たりがあるから」
 セスが封の開いた手紙をひらりと揺する。読んでもらうために書いたのに、いざ読んでもらった事実を突きつけられると肩がびくりと跳ねて恐ろしくなってしまう。
「余計なお世話かもしれないけれど、君たちが痴話喧嘩……いや、話し合いをするのなら、駐車場を貸そうか」
「いや、オレが言いたいことはすぐに済むんだ」
 アキラくんに向けられていた目は私を見据える。手紙を両手でしっかりと握り、それを胸のあたりに当てる。来たる言葉を受け止める準備もままならないまま、頭から降り注ぐ陽光の暑さとセスの視線に縫い付けられた私の足は一歩も動かせそうにない。
「オレは、のことが好きだ」
 頬に汗が伝う。
「だからオレはキミとの婚約を解消したくない。でもどうしても嫌なら……受け入れる努力はする。それで、またキミに好きだと伝える」
「手紙、読んだんじゃないの……?」
「手紙には別れたほうがオレにとって良いとか、婚約はオレのためにならないとか、オレのことばっかり書いてあった。……オレは、の気持ちが知りたい」
 セスの指先が私の額にかかる前髪を撫でつける。
「私、は……。セスが時間を作って会ってくれて嬉しいけど、申し訳ないなって思う」
「好きな相手と会うんだ。時間くらい、作る……」
 ぴんと立った耳と、気温のせいではない赤い頬に、石鹸の香りが薄れていく。押し黙って見守っていたアキラくんが「セス、ここはたぶん踏ん張りどころだと思うよ」と叱咤するのがおかしかった。
「からかうなよ、店長。いざ言うと照れ臭いんだ……。だからも早くなにか言ってくれないか」
 肩を竦めてみせたアキラくんはお店に引っ込んでいってしまい、往来には私たちだけが取り残される。独りよがりな手紙に綴らなかった言葉をセスは静かに待っている。頬から丸みを落とし、精悍な顔つきになった青年のセスだ。
「私は、セスとずっと一緒にいたいって、それだけ……」
 ずっと、好きだと言って欲しかったのだろうか……。セスにもらった告白のおかげか、騒いでいた血潮が落ち着いていくのがありありとわかる。感情のままに突っ走った自身を振り返るとだいぶ気恥ずかしい。
「あ、でも」
「なんだ? この際、オレたちはなんでも共有するべきだと思う」
 やはり駐車場を借りればよかったかもしれない。そこそこ長引いている話し合いに、アキラくんがいつ痺れを切らして店の前から追い払うかが心配で気もそぞろだ。
 風に乾かされたそばから新しい汗と涙が頬を伝う。手の甲で乱暴に拭うと肌が擦れて少しだけ痛んだ。
「……セスと、キスとかしたいかも」
 オオヤマネコの尻尾がぶわりと逆立つのが見えた。お別れを破棄した唇は今やわなわなと震えて葛藤の渦中にいるようだ。
「さすがにここでするのは駄目だ……」

 とうとうビデオ屋の前から追い払われた私たちはおとなしく地下鉄の駅に引き返した。セスは怪我を繰り返して硬くなった手のひらで私の顔を拭って、いつもしてくれるように手を繋いでくれる。
 珈琲を飲み損ねたからと、自動販売機でセスに買ってもらった冷たいカフェオレのペットボトルで手のひらを冷やす。電車が出たばかりでだれもいないホームのベンチに腰掛けると全身から力が抜けて、硬い背もたれに背中が溶けてくっついてしまいそうだった。
 そのとき、なんの前振りもなく、キスをされた。呆けてぐったりとしている私の姿かたちは、お世辞にもそれをしたいと思わせるものではなかっただろうに。
「なんで、いま……?」
がさっきしたいと言ったんじゃないか。オレはずっと待てをさせられてた側なのに、なんでそんなに驚くんだ」
「だってタイミングとか、ほら、いまの私けっこう汗かいてて変な匂いするかもしれないし」
「変な匂い? ……からはいつもいい匂いがするけど」
 たくさん感情を交換したあとだからかもはや照れをなくしたセスは恐ろしく率直で、このまま話を続けるのは私の分が悪く、熱のひとつでも出しかねない。
 いっそう深くベンチに身を沈ませる。は、と薄く息を吐いたら、また唇が合わせられる。視界の隅で、やわらかい毛に覆われた大きな尻尾がずっと左右に揺れていた。