アキラのかたちの良い指先が触れる寸前に、手を引いた。ほんの一瞬だけ遠ざかった映画の音声は「やってしまった」という内省を伴って耳のそばに戻ってくる。
 ごめん、と謝罪を口にしたのはアキラの方だった。優しい彼の声が硬い謝罪にかたどられるのが嫌だった。それを引き出してしまった自分自身をこれでもかというくらいに呪う。
「そろそろお開きにしようか」
 宙ぶらりんになった手はなににも触れられない。


 摩擦なく日常の端から滑り込んできた人だったから、せっかく作ったレンタルビデオの会員証を一度たりとも使っていないという事実をときどき忘れそうになる。アキラは私を一緒にビデオを観ようと誘い、私はお礼にお菓子を持参したり、ラーメンを奢ったりしている。無料でビデオを観て、お返しをして、そのお返しにビデオを観る権利をもらう。するすると滑り込み綺麗に成り立ったルーティンが、日常の端ではなくほとんど真ん中のあたりに確立されてからどれくらい経つだろう。

「こういうこと、他の人にもやってるの?」
 工房の脇にある階段をはじめてふたりで上ったときに、思わず訊ねた。こっちだよ、と私の手を握る仕草に躊躇いや遠慮のないところが、人との距離が比較的近いのではないかという憶測に結び付けられたのである。
「強引にしてしまったかな。痛かったかい?」
 まさか、そんなはずはない。ぶらぶら揺すったらすぐにほどけてしまいかねない拘束に痛みを訴えるほどか弱いつもりはないので、首を横に振る。
 よかった、とアキラは薄く微笑んで、私の肩を押してソファに座らせる。それにしたって、強制力が包含しない程度の力だったから私はいつでもアキラの部屋から出られたはずなのに、そうしなかった。そうするつもりは毛頭なかった。最初の質問の答えはとうとう与えられず、この部屋に足を踏み入れた人がどれくらいいるのかを、私は知らない。 


 会えば次の約束を必ず結ぶのに、手を握られたのはその日から一度もなかった。最初に私がおかしな質問を投げたせいかもしれないが、アキラの部屋に誘われる回数が増えていくにつれて、触れてもらえないことへのうら寂しさがしんしんと積もっていく。とうとう望みが叶いかけたと思えば反射的に彼から身を退き、謝罪まで言わせてしまったのにはほとほと呆れて、情けなさに涙さえ浮かびそうになる。
 それでも今回は「お開き」なのだからと、テレビの電源を落とすアキラを尻目に逃げるようにしてアキラの部屋と廊下の境目を越えて足を踏み出す。一歩からその先は、足を動かせなかった。振り返ってみても、経験上、いちばんに強く手首を握られたのはこのときがはじめてで、驚きに思わず身を竦ませる。
「……やっぱり、今のは無しだ」
 逃げ道へと繋がる扉が閉ざされ、部屋の中ほどに連れ戻されてしまった。
「アキラ?」
 ただならぬ雰囲気を醸し出され、怖気付くままに後退りしようとも、握られた手を離してもらえていないおかげで却って退路が塞がれる。スチールの棚に背中がぶつかり、その拍子に軋むような音が鈍く響く。痛みはないが、階下にこの音が聞こえてしまっていないかが心配だ。
「アキラ、ねえ……」
 手心を忘れた手にしかと捕まえられている。ちっとも動かせそうになくて、棚とアキラに挟まれたまま顔をあげて名前を呼ぶ。
のことが好きだ」
 どうして? なんて……そんなこと言えっこない。繰り返し部屋に誘われて、こうして触れられて、どうしてとぼけたふりなんてできるだろうか。他の誰かがここに訪れているのだと考えだすと心がぶわりと毛羽立って落ち着かない感覚がある。もしかすると、その奥底に潜んで脈打つ私の下心もまとめて、はじめての日からずっとアキラには透けて見えていたのかもしれない。
「君ははじめてここに来たとき僕に訊いただろう。こういうこと他の人にもやっているのかって」
 持ち上げられた片方の手は躊躇いがちに空で止まるが、間もなく頬をすっぽり包む。
「正直に言えば、異性を部屋に招いたのは君がはじめてじゃない。だけど、なぜか後ろめたくてね」
 背が汗ばんでいくのがわかり身を捩るが、結局は棚が音を立てるのみで、さらにはアキラの手のせいで顔を俯かせることすらかなわず、焦燥が湧き立つ。
「だけど、誰かの……異性の手を握って部屋まで歩いたのは、がはじめてだ」
「……こういうことするのも?」
「ないよ。君は知らないだろうけれど、普段の僕はもう少し余裕があるんだ」
「余裕……あるのは、知ってるよ」
「そうか、僕の面子がまだ保たれてるみたいでよかったよ」
 天窓からは橙色の陽光が降り注ぎ、床を四角く切り取って光っている。まだビデオ屋は営業している最中で、アキラも一日ずっと休みというわけじゃない。こんなことはいつだって言えるだろう。それでも、そのときその場で言わずにはいられないことが、生きているうちにはいくつかある。
「好きなの、アキラのことが……ずっと、好き……」
 うん、とアキラは頷く。やっと離してもらえた頬にほっとするのも束の間、額同士が触れ合って、今度は頭のうしろが棚にかちあった。もちろん痛くはないけれど、それなりに派手な音がしたのでさすがにアキラが「ごめん」と謝罪する。
 ずっと好きだと思っていた。触れられたかった、触れたかった。言葉にしてしまえばどうにかこうにか保たれている均衡が崩れて、「はじめてアキラの部屋を訪れた異性」に妬くだけでは足りなくなったら……好意が転じて生まれたどろどろとしたものによりアキラに迷惑をかけることになったら……怖くてたまらない。好きで居続けるのは、とても怖いことのように思えてならない。
 臆病な私がかたくなに守り続けた一線をいともたやすく飛び越えられて、喜びと恐怖が綯交ぜになる。わだかまった気持ちがぜんぶ涙となって目の端からぼろぼろとこぼれ落ちた。おでこが合わさっているせいで顔は逸らせないし、掴まれている手はびくともしない。ひくりと動く喉を伝い、顎、耳の裏まで撫でられる。そうして目元にまでたどり着いた指先に涙をやさしく拭われた。
「……わ、私、アキラの思っているような人じゃないかもしれない。きっとそのうちわがままも言うようになる」
「いいよ。ただし、僕だけに言うのならね」
 だめじゃないよと教えてくれる手を恐る恐る握り返したら額がそっと離された。間近にあった顔が傾いたのを合図に目を瞑る。予想通りやってきた柔らかいものを唇で受け止める。きっと涙の味がするだろうに、アキラはなんにも言わずに二三度ほど繰り返した。
「わがままも全部ひっくるめて、と付き合いたいと思ってもいいかな」
 彼が私の日常の一部となったときと同じように、摩擦のない滑らかな言葉が素直に胸のうちにまで到達して、じんわりと沁みてくる。それがうれしくてうまく言葉にならずに頷きで答えると、笑った気配をともなったアキラに体ごと抱きこまれたのだった。