玄関扉が開け閉めされる硬い音をまどろみのなかで聞いた。眠気を纏ったまま立ち上がって音のしたほうへと向かう。今しがた帰ってきた悠真に抱きつくというよりは身体ごとぶつける結果になってしまったのは、浅い眠気と眠る前に飲んだアルコールのせいなのだろう。
「……まさかこんなに熱烈に出迎えてくれるとは思わなかったなあ」
 対ホロウ行動部の制服の上に羽織ったトレンチコートにつめたい夜の匂いが染みていた。そこに頬をくっつけて背中に回した腕に力を入れ続けていると、悠真が「えっと……?」と声音に困惑を滲ませる。
「僕がいないあいだになにかあった?」
「ううん、悠真が帰ってきてくれたのが嬉しくて」
 素直に告げた言葉は悠真が纏う怪訝な雰囲気を打ち消す。それにしてもここは悠真が契約している家で私は一緒に住んでいるだけだというのに、まるで家主であるかのような台詞を吐いてしまったな、とぼやりとした頭で反芻する。
 一緒に住み始めて二週間ほど、そのうちの一週間、悠真は仕事で留守にしていた。ひとの家でひとを待つこと、そのひとの帰りを焦がれること、どちらも初めての経験で、私は人生でいちばん長い一週間を過ごしたのである。
「ていうことは……寂しかったりしたわけ?」
「ううん」
「は?」
「帰ってくるのが待ち遠しかったの……」
 肩を掴み剥がされると夜の香りが遠ざかっていってしまい、やや残念に思う。顔色がよい。頬には血色がある。元気そうでよかった……と観察していると、悠真の顔が間近に迫ってきたので思わず唇を手で覆い隠した。
「は?」
 疑問の声があがったのは二回目だった。
「だ、だめ。さっきお酒飲んじゃった」
 手のひらの下でもごもごと言い訳をすると、さらに疑問の色を濃くした悠真が眉間にしわを寄せる。
 日勤だけではなく宿直勤務に加え緊急の出動要請があるから、私たちには飲酒の習慣がほとんどない。さらに付け加えると、アルコールの作用が悠真の持病に悪影響を及ぼしかねないのではないかと密かに危惧している。仕事云々よりもそちらの理由が大きい。つまるところ私は悠真の長生きに一枚噛みたいとつねに願っており、健康を損なう要素をできるだけ排除していきたいのだ。
「お酒くらいどうってことないよ、ってときどき僕に対して過保護になるよね。……いや、もしかして気分が悪いとか?」
 もらいものの甘いお酒の味がいまだ舌の上にへばりついている。すべて飲んだわけではないが、眠気に誘われるほどの量であったと自覚している。額にぺたりとくっついた悠真の手のほのかな温かさが心地良い。
「気分は悪くないよ」
「じゃあちょっとだけ我慢してね」
 横抱きに持ち上げられる身体は内臓から浮遊感を覚える。全身が心許なくて悠真の首に腕を回すと、体の構えが落ち着いた頃合いを見計らって歩き出す。やけにゆっくりとした歩みに気分の不快感どころか眠気が湧き上がる始末で、ベッドに降ろされたときには半分まぶたが下がっていた。
「夜ごはん食べる?」
 寝ぼけ眼を擦ってどうにか問いかけられたのは上出来だろう。
「ごはん? 用意してくれてたとか?」
「うん。あとは温めるだけのやつ」
「ありがとう。用意は自分でするよ。いまのになんにも持たせたくないし……片っ端からお皿を落として割りそう」
 悠真のまえでは飲酒のため強い眠気に襲われている酔っ払いでしかないのだろう。長丁場の仕事で疲れているはずの悠真に抱えられ、コップに冷たい水を注がせてしまっている。ベッドで優雅に喉を潤す私は甲斐性なしと糾弾されても文句が言えない。
 だというのに、悠真の機嫌は損なわれず、普段よりもむしろてきぱきと部屋着に着替えてベッドに近づいてくる。
「でもあんたがお酒飲むの珍しいね」
「今日、リンちゃんにもらったの。リンちゃんは友だちにもらったみたいなんだけど、飲まないからずっと置きっぱなしになってたんだって」
「それでさっそく飲んだわけか」
「ひとりで寂しいときに飲んだら気を紛らわせられるかもって言われたの。寂しいわけじゃなかったんだけどね」
「……少しくらい寂しがりなよ」
 正確には、ひとりの留守番ではなく、悠真の猫も一緒だったのだから、ひとりと一匹での生活だったのだ。必ず帰ってくるとわかってたし、毎夜届くメッセージのおかげで寂しいと思う隙を作らなかったのは他でもない悠真なのだから、そんなに拘らなくてもいいのにと思う。
「でもああいう……抱きついたりするのは、いつもだったらできなかったかも」
 理性が脆くなりすぎるのであれば、次からは飲酒量を控えるべきだろう。なにも、疲れている悠真に介抱されたいわけではないのだ。
「いつもしてくれてもいいのにな〜」
 上機嫌な悠真は、だめって言ったのに……だめって言ったからか、触れるだけの一瞬だけのキスを何度も落としてくる。上半身が崩れて枕に頭が沈む。見上げた先にも弛んだ口元がまみえている。
「悠真、機嫌いいね」
「そりゃあいいよ。外からさ、僕の部屋に灯りがついているのが見えただけで嬉しかったのに、あんなふうにお出迎えしてもらったからね」
 悠真は普段から気持ちを惜しみなく伝えてくれるひとではあるけれど、日常の一部をこんなにも大切に拾ってもらえると私もお腹のあたりが温かくなる。伸ばした手を繋いでもらえる幸福は、悠真が私に教えたのだ。
「明日は一緒にゆっくり起きようね」
 わかった、と目を閉じて小さく返事をする。控えめに立てられる生活音の合間に、頬や目元に触れられてくる悠真の指先を、夢うつつのなかで何度か受け止めていた。