そのとき、金色の目がおおきく見開かれた。まんまるの中心から戸惑いがにじみ出し、一気に瞳全体を覆っていくのを認める。悠真の捲り上げた白いシャツの袖下にはやはり白色の包帯が肌を隠しており、さらにその清潔な包帯の下にあるはずの大きな怪我は、悠真の神経をじくじくと痛めつけているのだろう。
「……僕さ、あんたの泣き顔に弱いんだよね」
 対ホロウ六課の任務中に大きな怪我を負った悠真はベッドにくたりと身を沈めて発熱に苛まれながらも、私のほうへと腕を伸ばして指先で涙を拭ってくれる。湿り気を帯び、ひどく熱い人差し指だった。明らかに力の入っていない指がとんでもなく切なくて、涙は次から次へと這い出て止まらない。
 いくら武に秀でているとはいえども、悠真も生身の人間であり、危険な環境に身を置いている限り怪我は避けられない。怪我をすれば当然血は流れるし、傷口が熱を持つこともある。
 あまりに驚いて、その拍子に涙が出てしまったのだ。数日の療養を要するほどの怪我を負い、ベッドから起き上がるのも億劫な高い熱に苦しめられているすがたを目の当たりにしたのは初めてだったから。だけど……。
 あとで思い返してみても、悠真に苦しそうな顔をさせてしまったことが苦みとして舌の上にずっと残り続けている。


 うたた寝の合間にみていた夢は脳が編み出した空想ではなく、ひどく脚色された思い出でもなく、ありのままの過去の回想である。
 きっと、眠る前に観た映画で派手に泣いてしまったから、大泣きして悠真を困らせた出来事が自動的に再生されてしまったのだろう。あの日もこうやって、金色の目が私をじっと見据えて、慰めるように目元に指を押し当ててくれて……。
「えっ……?」
 てっきり、夢をみているのかと思ったの。けれどこれは夢でもなんでもなくて、現実の悠真はソファで横になっている私のかたわらに身を寄せている。過去のそれよりも体温の低い指先は私の目元を撫でている。とろりとした夢見心地は、現実に引き寄せられたせいで消えつつあった。
「合鍵で入らせてもらったよ」
 いつまでもぼやっとして状況を掴めないでいる私に、いつか渡した鍵を使って入ったこと、一応メッセージは入れたが返事がなかったので直接向かったことを説明する。
「眠っちゃってたみたい」
 手繰り寄せたスマートフォンには確かに悠真からのメッセージが届いていた。泣いたせいで重たいまぶたを思い切り擦ると悠真はぎょっとして私の手首を掴む。
「だめだって。擦ったらもっと腫れちゃうよ」
「もっと、って……」
 悠真の指先が冷たく感じるのは目元が熱をもっているせいに違いない。なんてことだ、と絶望が打ち寄せ、血の気が失せた。

 あの日、悠真の大怪我にびっくりして身勝手に涙を流す私は、腕の一本、指先ひとつ動かすのにも痛みをともなっているはずの悠真にじっくりと時間をかけて慰めてもらった。視界は涙のあるなしにともない、滲んだりクリアになったりと忙しない。なんにもわるいことをしていないのに、悠真は「ごめんね」と謝罪を口にする。私は首を横に振る。悠真に刺さる刃を私が防げるわけでもなし、安全圏にいるからこその感傷を決して茶化さないけれど、困らせてはいるのだろう。「涙に弱い」という言葉が事実であるのなら、悠真の前で涙を流して余計な心労をかけるのは金輪際よしておこうと、散々背を撫でられて落ち着いたころにかたく誓ったのである。

 まさか数ヶ月も経たないうちに誓いが破られるとは思いもよらず、自身が掲げたささやかな目標さえも達成できない情けなさにふらりとめまいがする。
「大丈夫?」
 ふらつく上半身を支えた悠真に顔を覗き込まれて、あからさまに視線をそらした。
「うん……。でもいまは顔を見ないでほしい」
「は? なんで」
「目をもとに戻してくるから」
 涙の理由はあのときとは違って映画の感動的なシーンに誘発されたものであるから、ぶり返す心配もほとんどないだろう。
「僕が用意するからは座ってて」
 ため息をついた悠真は私の頭をくしゃりと撫でて洗面所へ向かい、すぐに冷たい水に濡れたタオルを差し出してくる。
「なんで泣いたの」
 ソファのうえで膝を立てて座り、まぶたにタオルを当てて黙っていると、隣に座る悠真によって沈黙がそろりと破られる。
「たいしたことじゃ……」
「うんうん。なに?」
 たいしたことでないのなら理由を述べろと言外に圧力を含ませて疑問を重ねられる。
「……レンタルした映画を観て感動して泣いちゃっただけだよ」
「映画?」
「うん。恋愛ものなんだけど、感動しちゃって……ほ、ほら……たいしたことないって言ったでしょ」
 呆れられるのを推し量って言葉を付け足すも、悠真は至極まじめな表情のままじっと私を見つめて、タオルで冷やされた目元にそっと触れてくる。
「珍しいね。がそういう映画を選ぶの」
「そうかな……たまに観るよ」
「じゃあ、僕の前では選ばないようにしてたってことか」
 ど真ん中の当たりを撃ち抜かれて喉からぐっと唸り声が出る。
 涙脆くはない。けれども、映画の描写ひとつが琴線に触れて涙腺を刺激することはある。「悠真の前では泣かないように注意を払う」という誓いを打ち立てている身であるがために、悠真と一緒に観るジャンルから涙を誘うものを除外していたのだ。
が映画で泣いたって、からかったりしないよ?」
 いくらか軽くなったまぶたに唇がくっついてから、鼻と鼻がくっつきそうな距離で視線がそっと絡む。
「悠真がそんなひとじゃないって、ちゃんとわかってる」
「だったら、次こういう映画を観るときは僕と一緒に観られる?」
「いや、えっと……どうかな」
「そこは嘘でも頷きなよ。……なんて、冗談。が泣きたくない理由もなんとなくわかるし」
「……わかるの?」
「僕はのことならなんでもわかっちゃうんだよねえ」
 それはさすがに言い過ぎなのではないかと、じゃれるようにして膝に寝転び出した悠真の髪に指を差し入れながらじっとり見つめる。すると、くすぐったかったのか、ふ、とかすかな笑い声があがる。見下ろした顔には、笑顔のほかにもっと切実な、私の様子をじっと伺って思案するような硬い感情も見え隠れしていた。
「それに、案外僕のほうが泣いちゃうかもしれない」
 悠真が膝のうえで頭を動かせば、髪が太腿をくすぐる。
「悠真もこういう映画を観たりするの?」
「あんまり観ないけど、ちょっと前に観たよ。泣ける系の、恋愛映画」
「泣いちゃった?」
 目元のうすい皮膚は私のものと違ってしっかりと乾いている。だけど、いつかの過去に、ここを伝ったものがきっとあるのだろう。
「……泣かなかったよ。でも、と一緒に観たら泣くかもね」
 歌うように軽やかな声音はやっぱりどこか硬く強張っていた。身体の横に放り出されていた悠真の手を取れば、指の一本一本が丁寧に交差し、ぎゅっと握り込まれる。
「だからも、そういうので泣くのなら僕と一緒にいるときだけにして」
 了承を得ようとしないままお願いだけを連ねた唇はそれきり閉じられてしまう。悠真がのぞむ返答はひとつだけで、私はそれを躊躇わずに差し出すことができるのだ。
 約束をするという意味を込めて、繋いでいないほうの手で悠真の小指を撫でた。しばらくそうしていると伏せられていた目がそっと開かれる。
「ちゃんと口で言ってよ」
 まつ毛の下で瞳がうんと柔らかく解けている。不満を主張する言葉は、ゆるんだ頬の前では形無しだった。