大雨というほどでもないので、地下鉄駅から濡れた地面へと足を踏み出すのにはさほど抵抗はなかったのだけれど、お酒に酔った見ず知らずの男に絡まれるのは予期しない出来ごとだった。男のひとはそこそこ下品なことをいくつか並べ立てていたように思う。手首をがっちりと掴まれた私は情けなくもまともに返答などできず、つっかえた喉がやたらと息苦しくて、酔っ払いを撃退できるはずもない。不測の事態に上手に対応できる力を持ち合わせていない自分の頭を呪った。びっくりするくらいに回転の遅い頭だ。
 だいじなことは思考できないくせに、頭の隅っこでアキラとの約束の時間をだいぶ過ぎてしまっているかもしれないという考えが沸いて、途端に焦りが生まれる。離してほしい、と要望を告げようとしたが、依然として喉は言葉を貼り付けたままで微塵も使いものにならない。

 六分街をパトロールしている治安官ふたりが男と私を簡単に引き離して、酔っぱらった男は男性の治安官に連行され、事情聴取のすえ私はアキラが営むお店へ女性の治安官に送り届けられたというのが、ことの顛末だった。
「お風呂に入っておいで」
 大雨に降られたかのごとく全身をびっしょり濡らしているだけではなく、床にもぽたぽたと雨水を垂らしている私に、アキラは至ってやさしくしてくれる。閉店間近のお店はすでに客足が途切れていた。ボンプたちの横を通って二階の居住スペースへ行くときは若干の気まずさをおぼえてしまい、身を極限まで縮めるようにして一歩ずつゆっくりと階段をのぼっていく。

「うん、顔色がよくなったね」
 湯船にゆっくりと使って身体の隅々まで温めたおかげで、雨に奪われていた熱が全身に戻ってきているのをはっきりと感じている。閉店作業を終わらせて自室に戻ってきたアキラが言うのだから、私はほどよく火照っているのだろう。
「ここに座って。手と足はこっち」
 アキラに借りた部屋着は大きくて、裾をくるくると曲げてもらってやっと手首と足首が覗くようになった。夜ご飯を一緒に食べて映画を一本観るだけでお泊まりの予定はなかったのだが、濡れた衣服のかわりに部屋着を貸してくれるということは、そういうことなのだろうか。そんなことを考えている私の足首の骨の出っ張りを、アキラの指先が撫でつけてくる。存外、硬い指をしている。その指はお風呂上がりで湿った皮膚に吸い付いていたのにすぐに離れていってしまい、アキラが入れ替わりにお風呂場へと向かう。好きに過ごしていてもいいよなんて言い残されても、ひとりでやりたいことなんてひとつも思いつきやしない。
 ビデオを観たりレコードを聴いたりする気にはなれず、部屋のあるじに断りもせずベッドに飛び込んで、薄く目を開く。深い青色で統一された寝具が視界を埋めるのが心地よくて、一度開いたまぶたをまた閉じる。
 アキラのベッドだということに上乗せして、アキラが使っているシャンプーや石鹸を使ったので私の匂いはほとんど見当たらない。ほんの数時間前は知らないひとに手首を掴まれながら雨に打たれていたとは思えないほどにはここが一番の安全地帯に思えた。だから、自然と眠りにいざなわれたし、足音が近づいてきてしばらくのあいだも、夢と現実の曖昧な境界を揺蕩っていた。
「起こしてしまったかな? このまま眠ってしまっても構わないよ」
「……寝ない」
「今日は疲れただろう?」
「でも、いま寝たら帰れなくなっちゃうかも」
「……うん? 君が帰る気でいるとは驚いたな」
 ベッドに乗り上げてきたアキラの髪に指を通したら、ほんのり湿っていた。頭全体を撫でるように指を這わせ、耳の裏側を触ったら、ふ、と笑われる。それからお返しと言わんばかりに髪を何度も何度も撫でられれば、私のほうがくすぐったくなって笑い声がこぼれ落ちる。
「笑えるくらいには元気になったみたいだ」
「元気だよ。だから寝なくても大丈夫」
「やけに眠りたがらないね。そんなに帰りたいのかい?」
「そうじゃないけど……アキラは明日も忙しいんじゃない?」
 髪を撫で付ける手がぴたりと止まり、また動き出す。吐き出した言葉を巻き戻したくなって仕方がない。だってこれじゃあ、なにかとやるべきことやなすべきことが多いアキラを責めているかのようだ。
「ごめんね、なんでもないの、忘れて」
「残念ながら、君の言ったことをすぐに忘れられるほど僕は器用じゃないんだ」
 のろのろと起き上がったら、アキラも真似をした。ふたりぶんの重みを受け止めるベッドがぎしりと音を鳴らす。距離をとって膝を抱えてもにじりよってくるせいで足と足がくっついてしまう。なんで逃げるのって、近いからだよ。
「まず第一に、あんなことがあったあとで君をひとりで帰す気はない。明日はいつも通りお店を開ける必要があるけど、朝食を一緒に食べられるし、お昼まで二度寝してくれたっていい。あと……そうだな、君の服はぜんぶ洗濯中だ」
 膝を抱える両腕にアキラの指先が触れてくる。恋人になってからこれまで触れられていやだと思ったことは一度もないのは、アキラの触れ方が静かで決して乱暴ではなく、欲しいときに欲しいものを与えてくれるようなちょうどよさがあったからだ。アキラはだいじなものをだいじにするのがとても上手で、その力も持ち合わせているから、人によく好かれるし、スケジュールはすぐに埋まる。惹かれると同時に羨ましくもあり、羨望を抱いてしまう自分の浅ましさに嫌気がさす。
「……私、一緒にいてもいいの?」
「それはさっき言ったけれど、が安心するならもう一度言おうか?」
「う、ううん……もういっぱいいっぱいで……」
「そう?」
「……だから、触ってもいい?」
 目をぱちくりさせたアキラの目を綺麗だと思う。知らない誰かに満遍なく注がれているだろうという嫉妬心は汲めど尽きせぬものだけれど、いまばかりは私のもの。私だけのもの。
「いいよ。の好きにしてもらって構わない」
 大の字に寝転んだアキラのまつげが縁取る目元に指先をくっつけた。
「僕の匂いがするね」
「シャンプーとか勝手に借りちゃった……だめだった?」
「だめじゃないけど、男ものでよかったのかと思って」
「リンちゃんのを使うのは悪いし……」
「僕のは使うのに?」
「……嫌だった?」
「君、僕が嫌じゃないって答えるのをわかって聞いてるな」
 下から腕を引かれてアキラのかたわらに身体を横たえる。おなじ匂いがする胸元に顔を寄せたら、小さな笑い声が頭上から降り注いでくる。
 なにかだめだったのだろうかと顔を上げて視線で抗議するも笑っているばかりで、それどころか「君から僕の匂いがして安心するだけだよ」と、とんでもない発言をするので脳が茹だった。
「今日のアキラは恥ずかしいことばっかり言う」
「それくらいしないと君がわかってくれないからだよ」
 なにを? と訊ねる前に、頭を抱き込まれた。それを甘んじて受け入れ、もぞもぞと手足を動かして一番落ち着く体勢を探る。乾燥機にかけた衣服を身に纏えばいつでも帰れるけれども、そんな気はすでに消え失せてしまっていた。