「寝ている最中に僕がうるさかったら遠慮なく叩き起こしてくれて構わないよ。頬をぶたれるのはできれば遠慮願いたいんだけどさ」
 薄い寝巻きに着替えた悠真はへらりと笑って、ふたりで眠るために整えられたベッドに身体を滑り込ませる。
「どういうこと? いびきがうるさいの?」
「まあそんなところ」
 枕に後頭部を預け、それ以上の質問を暗に打ち切った悠真は「ほらほら早くこっちにおいで」と明るい声音で誘い、リモコンで照明を落として暗闇を作ってしまう。
「……誰かとこうして一緒に眠るのは初めてなんだよねえ」
 深く息を吸って吐いて、目を閉じたあたりでふと溢された宙をさまよう言葉にどう反応するべきか思いあぐね迷っていると、悠真はやはり「じゃあ、おやすみ」と、それ以上の応酬を打ち切ってしまった。

 眠りを掻き分けるような呻き声がかたわらで発せられている。重たい瞼をこじ開けると、常夜灯のうすい灯りが部屋のなかをひどく曖昧に照らしているのが見えた。何度か目を開いたり閉じたりしてほどほどに鮮明になった視界で、こちらに背を向けている悠真の姿を認める。うなされているようだ。
 夢見が悪いせいでよく眠れない日があるのだと、聞いたことがある。まさしくこの状況がそれなのだろうとようやく理解が及んで、だけれどもいったいどうしたらいいのだろうかと、気持ちがもたついてしまう。
 頬をぶつなどとんでもない話だ。眠気はとうに消え去っている。苦し紛れに、そろそろと伸ばした手を背にあててゆっくりと撫でてみる。寝巻きの薄さはこの背の骨ばっている感触を目立たさせている。
「はるまさ……?」
 小声で名を呼んでみるが言うまでもなく返答はない。起きているかどうかも、顔が見えないのだから気づけるはずもなかった。
 しばらく背を撫でていれば、荒くなっていた呼吸は少しずつ落ち着いていく。言葉としての形を持たない苦しげな声も、穏やかな寝息に変容する。
 翌朝、魘されていたのだとそれとなく伝えると、ばつの悪そうな顔をするものだから「少しのあいだだけだったよ」と伝える。「そう? ……まあでも、これに懲りずに僕と寝てくれたりする? もちろん、あんたが嫌になったらいつでもやめていいけど」悠真はときおり遠慮がちだ。

 一晩中ゆったりとした穏やかな眠りを続けられたり、悪い夢をみて魘されてしまったり。頻度は一定ではなく不定で、それがさらに悠真の心身を削っているのだとしたら胸が痛む。せめて予測がつけば備えられるのだがそれもどだい無理な話だ。
 魘されている悠真の背を撫でる。そうすると、丸く縮まった悠真の身体から力が抜けていく。いつでもやめてもいいと言われてはいるが、不規則な勤務に従事する悠真と眠るチャンスは月に数度しかないのだからやめるつもりは毛頭なかった。
「起きたとき、悠真が抱きしめてくれてるときがあるでしょ。あれが好きだから……えっと、やめないよ」
「……ふうん」
 茶化しも皮肉を飛ばすこともせずに、悠真は神妙な表情を貼り付けてそっぽを向いた。

 その日もいつもそうするように、お互い薄い寝巻きに着替えてひとつのベッドで並んで眠るというすっかり慣れてしまった流れに身を任せるはずが、悠真が布団の上に座って腕を広げているといったイレギュラーが発生した。
「……え?」
「あれ、もう忘れちゃった? 抱きしめてもらうのが好きだってあんなに可愛いこと言ってくれたのに?」
 いやそれは……好きなのはそうなんだけど、のっけからそのかまえで臨むのは恥ずかしい……という思いと、もしも夜から朝まで向かい合っていたとしたら肝心なときに背を撫でられない……という危惧が一緒くたに襲いかかってくる。
「最初からそうしていると悠真の背中に触れなくなってしまうからだめ」
「うん? あんたって僕の背中に触るのも好きなの?」
「私っていうか、悠真が」
「僕はあんたにだったらどこを触られるのも好きだけど?」
「好きっていうか……あのね、悠真って魘されてるときに背中を撫でると落ち着くの」
 はっと金色の目が見開かれ、こぼれ落ちてしまいそうだなとのんびり見つめていると、腰を浮かせてベッドから降りようとするものだから、慌てて追いかけてその腕を掴む。
「待って、ごめんね。言われたくないことだったらもう言わない。だからこれからも一緒に寝ようよ」
 やたらと大きなため息が頭上から降ってくる。くるりと振り返った頬が仄かに赤く染まっているのを認める。
「……お、怒ってる……?」
「あのさあ、僕のこの顔を見てなんでそう思えるわけ?」
 言いながらがばりと抱きつかれてぴしりと固まっていると、「予行練習だよ」とのこと。予行練習?
「このままでも十分背中には届くよ」
「届くけど、これだといつもよりくっつくことになっちゃう」
「僕としてはあんたが近くて願ったり叶ったり〜って感じなんだけど」
 腰に回っている腕から力が抜ける様子はなく、背を撫でるまでは意地でも離さないつもりなのだろう。意地は意地で立ち向かわねばと、意を決して悠真の背に腕を伸ばす。
 そういえば、そうだ、明るい場所でこうしてくっついていたことなんて一度もないのではないか……と今更ながらの羞恥が舞い込み、背をぽんぽんと叩く手からは力が失われていく。肩口に顔を押し付けて擦り付けると「あんたにも羞恥心があってよかったよ」と歌うように笑われる。顔が、あつい。熱いままの頬に悠真の唇がくっつけられ、いよいよ目尻が爆ぜて涙が滲みそうになる。
「でも、背中を撫でられるのは悪くないよ。たまにはこうやって起きてるときにもしてもらおうかな」
「……気が向いたら」
 唯一の抵抗として発した言葉は「じゃあ、あんたの気を向かせられるようにがんばるね」と軽やかに捌かれてしまったのである。