悠真に一度だけ好きだと伝えたことがある。伝えたというよりはひとりでに喉元から這い出た言葉で、心の準備なんてしていなくて、ずっと抱えていた感情がぼろりとこぼれ落ちたという感覚にとても近い。
「べたな勘違いしても仕方ないから聞いちゃうんだけどさ、友達として好き〜っていう意味じゃないよね?」
「……うん」
予期せぬ出来事に当事者である私がいちばんに動揺していたが、悠真は至って静かな声音で事実を確認する。
川辺の方から吹き付ける冷たい夜風に頬がなぶられる。緊張に苛まれる身体が熱くてたまらないが、背筋が妙に冷たいせいでむしろぞくぞくとする。
「つまり、恋人?」
うなずくために動かした首はひどく強張っており、軋んだ音を立てそうであった。
「そっか、うん。それは、難しいと思う」
私の気持ちには応えられないと告げた悠真の顔を、いまも思い出せないでいる。
◉
悠真と私は奇妙な縁で結ばれている。ひとに説明するには悠真のごく個人的な事情まで芋づる式に知られてしまいそうなそれは、私の幼少期にまで遡る。
「先月までメニューにあった甘さが控えめのケーキは、もうやめてしまったんですか?」
肩にかかる髪と、眼鏡の奥に配置された穏やかな目が印象的な男性が叔父に訊ねる。共働きの両親をもつ私は祖父と叔父が切り盛りする喫茶店に預けられていることが多く、その日もいつものようにお店の隅っこで学校から出された宿題に励んでいたのである。
当時、健康の維持のため医師から糖分の摂取を制限されていた祖父が半ば道楽で作っていたケーキは売り上げがふるわず、祖父が亡くなると同時にお品書きから姿を消すことになったのだが、そのひとはあまり甘くないそのケーキを惜しんだ。
「弟子が好んでいて……」
好奇心をもたげた叔父が男性から事情を聴き取ったところによると、彼の養子兼弟子は重い病気の治療中で、普段は苦い薬や痛みをともなう注射に耐えており、「ご褒美」のひとつがここのケーキだったのだという。
なるほど、と納得した様子の叔父は事前に連絡をくれればレシピ通りにケーキを作ることは可能であることを説明した。男性は柔和に笑って「気遣わせてしまってすみません」と謝ったが、迷わずにケーキの予約をした。きっとその「弟子」のことがとても大事なんだろうなと、宿題を放り出して聞き耳を立てていた私は確信したのだった。
浅羽悠真。あさば、はるまさ。喉の奥で、たまには声に出して呼んでみる。
「悠真はお前さんと同じくらいの年齢なんだ」
「そうなんだ」
痛みにも苦みにも強くない私は、祖父のレシピで叔父が作ったケーキの味見役を任されていたため、甘さ控えめのケーキには慣れつつあった。苦みに慣れた悠真にとってこのケーキでさえ甘すぎるのではないか、完食が辛いのではないかと心配になったが、悠真のお師匠はこの間も美味しそうに食べていたと、ケーキの乗ったお皿を持ってにっこりと笑う悠真の写真を見せてくれたのでほっとする。子どもらしく単純な私は、悠真が喜んでくれるのならなんだってよかったのだ。
「もし悠真が元気になったら、一緒に遊んでやってくれるかい?」
「うん、いいよ。悠真はなにが好き? なにが得意?」
「そうだなあ……。ここのケーキは好きなようだ。あと最近は弓が上達してる」
弓など触ったこともないので青ざめていると、たまに一緒にケーキを食べるだけでいいんだ、と言って大きな手で私の頭を撫でてくれる。いつか、祖父のレシピを使って悠真のためにケーキを作ってあげられるだろうか。頭に浮かんだその考えはとてもすばらしいもののように思えた。
しかし、その日を最後に悠真の師匠からの連絡は途切れ、数年後に悠真がひとりで喫茶店を訪れるまで、私は誰に食べさせるわけでもないケーキをときおり練習していたのである。
◉
「痩せたか?」
治安局ルミナ分署と喫茶店は目と鼻の先にあるため、セスは週末の定時で仕事を終えられた日にはたびたび喫茶店に顔を出す。実家への手土産として珈琲豆を購入するためだ。
「痩せてないよ」
「そうか? それにしては顔色があまりよくないような……」
悠真に好きと伝えて、断られて、私の食欲は底を尽きてしまったのである。叔父の喫茶店の手伝いは学生の頃よりも頻度は減ったが、週に三日は顔を出すようにしていた。ここ一ヶ月はのっぴきない理由で……傷心で、悠真が常連として訪れている喫茶店に足を向ける勇気を持てないでいた。もうひとつの仕事に打ち込んで、あとは余計なことを考えないようにひたすら眠るかばかみたいに遊ぶかして過ごした。忘れるために必死だったのだ。それこそ、食事をおろそかにするほどに。
久しぶりに顔を出した喫茶店に悠真は訪れなかった。ほっとすると同時に悠真に会えなくて残念だと思うなんて、我ながらどうかしている。
「おすすめのラーメン屋があるんだ。一緒に食べにいかないか? 食べきれなかったらオレが食べるから」
気遣わしげなライラックの瞳があまりにも真摯だったから、食欲はてんで湧きやしないがセスの提案をのんで閉店の作業を終えてから並んで店を出た。
空のなかほどに白い月が浮かんでいる。建物の間を縫って吹く夜風は冷たく乾燥しており、ひと月前に悠真と話した場面がテープを巻き戻すがごとく想起されて心臓が痛んだ。あの日も、こうして閉店まで喫茶店に居座っていた悠真と他愛のない話をしながら歩いて……それで。
「浅羽先輩?」
悠真は地下鉄駅近くの交差点のそばでぼんやりと佇んでいた。だれかと待ち合わせをしているにしてはとりとめのない雰囲気につつまれており、覚束ない印象を受ける。「セスくんじゃん」とセスの名を呼ぶ声は覇気が薄くて、体調が悪いのではないかと心配になってしまうほどだった。
「今日は残業しちゃってさあ。疲れたのなんのって」
打って変わって明るく放たれた言葉に眉をひそめる。私よりも悠真の方がやつれているのは明白であったし、それが彼の持病によるものだとすぐに合点した。
「で、あんたらはデートの最中?」
悠真はセスにばかり視線を注ぎ、こちらにはたいして視線を寄越さずに言う。私の心臓はさらに痛む。
「いや、デートじゃないです。の食欲がないようなので、夜食でも食べようかと思って」
きっぱりと否定したセスに「浅羽先輩も顔色があまりよくないですよ? 一緒に行きますか」と純度の高い親切心をもって誘いかける。私たちの間に起きたことについて、悠真の方はわからないけれど少なくとも私は気まずさを拭えずにいるために、走って逃げ出したくてたまらなくなる。
「僕は体感いつも通りだから気にしなくたっていいよ。それよりも、食欲がないの?」
電光掲示板のひかりが眩しい。悠真と視線を合わせられないのは、私の方なのかもしれない。
「……ちょっとだけ」
「ふうん……そう。なんにせよ、治安官さんにしっかり送ってもらいなよ。世の中いろいろ物騒なんだから」
足音が遠ざかっていってしばらくしてから、俯かせていた顔を持ち上げる。セスは物言いたげにしていたが、結局なにも問いかけずにいてくれる。どこも見ないままの私は勝手に救われて、そのかわりに悠真の表情をどんどん思い出せなくなっていく。
◉
写真のすがたより数年ぶんの成長を経て現れた悠真はそのときすでに学校を卒業し、対ホロウ行動部の道に進んでいた。記憶は年月にともない古ぼけてしまっていたので、悠真に「むかし、ここにケーキを予約しにきていた男性がいたと思うんだけど」と訊ねられるまで、悠真をあの「師匠」の「弟子」である悠真だと気がつかなかった。
「悠真……?」
「あんた僕のこと知ってるんだ?」
悠真の師匠に写真を見せてもらったのだと伝えたら、じっと押し黙ってから「そう」と呟く。ゆくえを捜しているのかと訊いたが返答は誤魔化されてしまった。隅っこの席に座った悠真はたっぷり時間をかけて一切れのケーキを食べ、濃いブラックコーヒーを飲んだ。味についての感想はなにもなく、ごちそうさまとだけ言って出ていく背中を見て、もう来ないだろうなと思ったが、さほど日を開けずにまたやってきたのでびっくりした。
はじめてここにやってきた日以来ケーキを注文することはなかったけれど、ブラックコーヒーを片手にひとつずつ、ちょっとずつ私の記憶からから師匠のかけらを集めている。悠真は淡々と受け答えをしていたので、そこに思慕があるか否かについては一切読み取れなかった。そして私は、渡す思い出の種が尽きてしまい、会う理由を無くしてしまうのがこのときはなぜかなによりも恐ろしかったから、多いとはいえない思い出を一生懸命分割して悠真に渡していたのだ、いま思い返したらとてつもなく滑稽だけれど。
先日拾ったばかりだという小さな猫が全身の毛を逆立て「警戒しています」といった様相をめいっぱい醸し、部屋のすみでこちらを睨めつけている。「猫を病院に連れていきたいから手伝ってほしい」と頼み事を持ち出されたのは、喫茶店で会う頻度が週に一度のペースに落ち着いてしばらくしたころのことであった。
「……怪我してる?」
足から流れ出た赤黒い血が毛に絡みついた状態で固まっているのが痛々しい。
「気をつけてたんだけど外に出ちゃって、そのときに怪我を作ってきたみたい。病院に連れていこうにも嫌がっちゃってさあ……」
私物の少ない悠真の部屋は猫との応戦によりそれなりに荒れ果てていた。その景色は異性の部屋にふたりきりという状況による緊張をかき消すには十分だったし、そもそもふたりきりではない。
いつか私と悠真のあいだに横たわる細い糸がちぎれてしまうことをずっと心配していたから、頼りにされるのはとてもうれしい。だから猫の爪でひっかかれるのも構わずに子猫へ向かうが、私の手首を悠真が強い力で掴んだ。
「あんたって結構考えなしだよね」
呆れ顔を隠さずに言われる。私が猫にひっかかれて怪我をすることと、このまま猫の怪我が悪化してしまうことを天秤にかけていると、悠真は私を背に子猫に歩み寄る。猫は殊更警戒してか細いながらも唸り声をあげて意思の強い拒絶をした。
「めちゃくちゃ怒ってるよ」
「たぶん、僕の匂いが好きじゃないんだ」
悠真の匂い?
「悠真は嫌がられるような匂いなんてしてないと思うけど……」
なんの気なしに本当のことを伝えただけだというのに、むずかしい表情を向けられると困ってしまう。それでもいまは悠長にお喋りをしている状況ではなく、悠真の制止を振り切って子猫を抱き上げる。動物病院に連れていくまでは私が子猫を抱く役目を担ったが、懸念していたことはとうとう起きなかった。
「……あんたを見てると僕のか弱い心臓がどうにかなってしまいそうになる、勘弁してよね」
処置を終えたら子猫は迷わずに悠真のもとへと駆け寄る。悪態をつかれ耳が痛い。
「でも今回は助かったよ。ありがとう」
「ううん、どういたしまして。でもなんで私?」
「って猫に懐かれやすそうだし。それに、こういう頼み事するってなったらしか思いつかなかったんだよね。あんたにはいろいろ知られてしまってるからかなあ……」
私が知り得ている悠真のことは幼少期のほんのわずかな一節に過ぎないのだが、それをとても重要なことのように話す。金色の目は翳っている。猫はすっかり安心しきった仕草で、ふかふかの毛に覆われた身体を悠真に擦り付けている。
「怪我が痛かっただけなのかな、悠真にもちゃんと懐いてるみたいだよ」
「ええ〜? 気まぐれなだけじゃない?」
「そのわりには嬉しそうだけど」
「そりゃあ懐かれて悪い気はしないよ」
「悠真にもそういうのあるんだ」
「……あのさ、僕のことなんだと思ってるの? 人でも猫でも、好かれれば嬉しいよ。あんたはそういうのないわけ?」
「あるけど、好かれてるってはっきり感じることってあんまりない気がする……」
特に、人間。
「へえ。鈍感なんだ」
知らないひとにもよくもてて好意を向けられる頻度が高い悠真と較べられたくないと、むっとして顔をあげたら、猫の治療がうまくいってほっとしているのか、それとも他に理由があるのか、いっとう穏やかな表情をたたえていたものだから、怒る気も萎むというものだ。
◉
セスのてらいのない気遣いに突き動かされて、食事の習慣を取り戻したくなったのだ。喫茶店で叔父に余り物のケーキをもらって夜道を歩いていると、先日と同じ場所に悠真が立っていた。どきりと心臓が鳴り、気づかれていないうちに迂回しようかと計画を立てたそばから、悠真は意思をもってこちらに歩んでくるので逃げようがなかった。
「あれ、今日はセスくんと一緒じゃないの?」
セスは彼の家族が叔父の仕入れた豆を好んで使っているというだけで、なにもセス自身が悠真と同様に常連というわけではない。
「このあいだ珈琲豆を買っていったばかりだから、しばらくはこないと思うよ」
「そうなんだ……、っけほ」
「……悠真? 体調が悪いの?」
ひとつ飛び出た咳を皮切りに何度も咳き込み、私はふらつく手でその背を摩った。悠真が身につけている対ホロウ六課の制服はひどく冷えていて、私の指先から温度を抜き取っていくのが恐ろしかった。いったいいつからここに立っていたのだろう。
「少し冷えたかもね。こそ食欲は戻った?」
私の心配をしている場合じゃないと言いかけて、口を噤む。街灯の助けを借りずとも顔色の悪さは見て取れたのだ。そんな状態でわざわざ私の顔色を見にきてくれた気持ちを踏みつけになんてできるはずがない。平気だよ、とうなずいたらあからさまにほっとされる。
「よかった。だってあんたの食欲をなくしたのは……自惚れかもしれないけど、僕だろうから。実は責任感じててさ、もう少し言い方があったかもしれないとか、……いろいろ、のことを、ずっと、考えてて」
咳のせいで話は何度も途切れ、夜が明けない限り冷たいままの冬の大気はそこにいるだけでどんどん体力を奪っていく。ふられただとか、顔を合わせるのが気まずいだとかはもはや些末な悩みだった。
「ここからだったら私の家の方が近いから、落ち着くまで休んでいって」
冷たい手を握って有無を言わせず引っ張ったところで、「考えなし」と評価された行動の癖を思い出す。感情が先立つとなりふり構わなくなるきらいがあるらしい、それは悠真に教えてもらったことだ。
「……っ、立ち止まって、どうかした?」
苦しそうな呼吸を聞いている方がやはりいやだと思ってしまうのは、ほんとうだけど。
「あの、悠真が……私の家に入るのが嫌じゃなかったら」
「……はは、なんだそんなこと……。いや、ごめん。それを言わせてるのは僕か」
いやじゃない、と悠真は苦しげに断言する。
「嫌じゃないから、僕を助けて」
まず、できる限り寛げる格好に仕上げた悠真をベッドに押し込み、毛布を二枚重ねた。暖房と加湿器をつけ、おろおろとクローゼットを漁ってマフラーを引っ張り出す。正気? と悠真が頬を引きつらせるが、とにかく身体を温めるのが優先事項であるので嫌でも従ってほしかった。
「他に私が悠真のためにできることはある?」
「じゅうぶんだよ、もうこれ以上はなんにも身体に巻きつけられそうにないや」
渋々マフラーを首に巻き付けた悠真は、毛布に包まりながら白湯の入ったマグカップに口をつける。
「そうじゃなくて、欲しい食べ物とか飲み物とか」
「気にしないで。それよりもこそなんか食べなよ」
ローテーブルの上に置きっぱなしのケーキは気温の低さのおかげで溶けてはいなかった。正直なところ、悠真の体調不良が心配でなにも喉を通りそうにもなかったが、ここで食欲がないと打ち明けたら悠真の気を揉ませてしまうだろう。
「そういえば、そのケーキ……。あんたの叔父さんのとこのやつ、味が変わった?」
白湯を飲み切って横になった悠真は、ちまちまとケーキを口に運ぶ私をじっと観察している。正直、とても食べづらい……。
「レシピは基本的に変えてないとは思う」
「そっか、じゃあ僕の記憶違いかな」
「どうかしたの?」
「あの人……師匠が買ってきてくれていたやつとは味が違うなって思って」
「あ、それだったら記憶違いとかじゃないよ。あれは悠真のためのレシピだから、お店にはないの」
「え?」
「え、って……。だって、美味しいけどそこまで甘くないから……その、お店に並べるには不向きで」
「そうじゃなくて、僕のためってどういう意味?」
珍しく驚き目を見開いている悠真に、もともとは糖分を控える必要があった祖父が考案した店頭に並ばないケーキを、悠真の師匠が悠真のために注文していたのだと説明する。とっくに話していたと思い込んでいたが、この思い出は渡し損ねていたようだ。
かいつまんで話している最中、悠真は上体を起こしてこちらに身を乗り出さん勢いであったので、ふらついて顔面を床に強打してはいけないと、何度か肩を押して引き戻す必要があった。話が終わりさえすれば熱心に耳を傾けていた身体はおとなしくベッドに沈む。吐き出された息に苦しげな呼気は混ざっていなかったからひとまず安堵した。
「ちなみに、そのレシピってもうなくなっちゃった?」
「悠真のお師匠さんが、私に悠真と一緒にケーキを食べてほしいって言ってたから、いつかそういう機会があるかもって、ケーキ作りの練習をしてたときがあるの。だからいまも私が持ってるよ」
子どもじゃなくなった悠真には「ご褒美」としてケーキを食べる習慣がないようだったから、振る舞う機会には恵まれなかったけれど。
「……あーあ。みんなして、そんなことしてくれちゃって……」
「悠真、泣くの……?」
「まっさか」
いっときは目元まで持ち上げられた毛布を控えめに剥がせば、泣いてはいないが水気を帯びた目と視線が絡む。
「僕、湿っぽくなるのが苦手なんだよね。誰かに心を割いてもらうのも……居た堪れなくなるから得意じゃない」
子どもの頃に悠真の師匠から聞いたことを、大きくなってから得られる知識とすり合わせて、なんとなく、もしかしたらそれなんじゃないかという病名にたどり着いた。たぶん、悠真は私が「気づいている」ことを知っている。だから、猫の扱いに困れば私に助けを請ったのだろう。
「どうあがいたって、よっぽどのことがない限り僕はあんたよりも先にいなくなる」
「……うん」
「だったら、僕といる時間を他の誰かにあてた方がずっといいって思ってたんだよ。……でもうまくいかなかったなあ。あんたにもセスくんにも悪いことしちゃったし」
毛布でぬくまった手が私の手を握る。
「どこかでちゃんと、この先もずっと幸せでいてほしいって、そう思っちゃうんだよ。……僕のために、一生懸命になってくれるを見てるとさ」
あの日もそうだった。今日とひどく似通った寒い冬の夜で、川辺から吹き付ける風がしんしんと冷たくて、どちらともなく手を繋いだ。繋いだ手の温かさに、胸のうちにおさまりきらなかった好きだという言葉があふれ出てしまったのだ。
「好きだよ、悠真」
不思議と緊張はなかった。一度は答えをもらっている告白をみっともなく繰り返しているだけだったし、悠真は私の手を振り払おうとはしなかった。ただただ静かに二度目の告白を聞いて、深く息をしている。
大それた夢をもっているわけではない。一攫千金を狙いたいだとか、王様になりたいとか、そういうもの。そういうものはなくて、たとえばこうやって手を繋ぐとか、お昼まで一緒に眠ってパジャマのままトーストを焼いて一緒に食べたりしたい。そういった幸せが一日でも長く続くことを、切に願っている。
「……私は、そこに悠真がいてくれたらいいなって思うよ」
握る手に込められた力が増して、夢見心地をたゆたっていた私をはたと現実感に引き戻す。またひとりで突っ走ってしまったかもしれないと思い、さすがにそろそろ手を離すべきだろうと腕を引いたが、悠真はそれを許さなかった。
「嫌じゃない。だから、僕から離れないでよ」
まだなんにも訊いていないのに、震える声に懇願の色を乗せてこちらに寄越す。強くはないがゆるぎない語気に言葉の繋ぎ目をうしなってしまったが、黙ったままでいるのもそう悪くはなかった。
翌朝、というか私の希望どおり昼近くに目を覚ますなりに悠真が「が作ったケーキを食べたい」と要望を口にした。本気かと確認すれば「至って本気だよ」と体調を取り戻した悠真は溌剌と笑う。
「私は製菓学校で学んだとかじゃないから、売り物になるようなケーキは作れないの。それに、最近はあんまり練習してなかったし……悠真の胃腸を壊してしまうかもしれないし……」
「うんうん、わかってるって。大袈裟だなあ」
真昼のみずみずしい陽光が窓ごしに部屋を温める。悠真の顔色はとてもよく、血色が好調を物語っていた。そのまま眠ったせいで皺くちゃになった制服のシャツを身につけている悠真は、いつか猫を抱いていたときと同じく穏やかな色を黄金に滲ませる。
「……と一緒にいたら、これから先も良いことがたくさん起きるような気がする。そういうところを、好きになったのかな」
「え……?」
数年振りに引っ張り出したレシピのうえに、私の間抜けな声が降り注ぐ。
「あれ、聞こえなかった? のことが好きだって言ったんだけど」
きらきらとした柔らかい光に満ちた部屋のなかで「なんで泣いちゃうの」と言って照れ笑いをうかべながら私の目元に指を伸ばす悠真のすがたを、私は生涯忘れないのだろう。