進行方向の先に見慣れた赤い髪を見つけ、心の中で「げっ」と呻き声を上げながら踵を返した。

「人の顔を見て逃げるなんて傷つくじゃねえか」

 足の長さで堂々と敗北したせいで、背後から肩を抱かれてぐいっと引き寄せられる。耳元でけらけらと笑う燐音さんはわざと体重をかけているようで、重たい上に暑苦しい。離してくれないだろうかと視線を合わせるも、「睨んじゃって、かわいいねェ」と茶化してくる。
 はたから見れば女子高校生が派手な格好をした成人男性に絡まれているという犯罪の匂いがぷんぷんする光景だというのに、 放課時間からだいぶ経った校門の近くにはほとんど生徒もいないので誰かに助けてもらえるという見込みなどなかった。せめて一彩くんがいてくれたらと思う。彼はとっくに学校を出てアイドルのレッスンを受けているはずだから、それも叶わないのだけれど。

「あの、燐音さん。今日はなんのご用ですか……?」
「ご用はそうだなあ、一昨日怪我してたところの確認?」

 腕に貼り付けていた大きめの絆創膏をそっと撫でられる。じんわりと痛みを伴う傷は、まさしく燐音さんの目の前で作ってしまったもので、そして、燐音さんが丁寧に消毒してくれたのだった。
 行き届かなさそうな印象からは想像できないくらいに細やかな手つきだった。昔、その手で泣いている誰かを慰めていたのだろうか。

「大丈夫ですよ。深い傷じゃないし、もうあんまり痛くないです」
「ふうん」

 だからわざわざこんなところまで来なくてもいいと言ってしまうのはなんだかひどく失礼なことのような気がした。
 不注意でできた傷はすぐに消えるだろう。傷は瘡蓋になり、やがてそれもなくなり、まっさらな皮膚になる。少しでも長く傷跡が残ってくれればいいのにと思ってしまうのはなぜなのだろうか。

「……気にさせてしまってごめんなさい。あと、ありがとうございます。あんまり怪我をしないように気をつけます」
「はいはい。ちゃあんと前向いて歩けよ?」

 前髪をくしゃりとかき混ぜられる。この人にとって私は子どもなんだろうなと思わされる手つきだった。

「お子ちゃまはまっすぐおうちに帰りな」

 子どもだと思われているからこそ気にかけてもらえているようなので、「はい」と頷いて、素直に大人の言いつけを守る。
 一昨日、私が怪我をしたとき、燐音さんは焦った声を上げた。その音は今も記憶に刻まれ、いつでも鼓膜を揺さぶることができる。



 毎日ではないが、しょっちゅう会う。そのきっかけは、私が燐音さんの目の前で怪我をしてしまったこと。どうやら私の傷がなにか責任感を与えてしまったのか、怪我の治りを点検するために通学路で出くわすようになった。まるで偶然かのように装ってはいたが、おそらくあれは必然だったのだろう。

 秋に差し掛かった今となればその傷も十分に癒えて瘡蓋すらなくなり、燐音さんと会う口実もなくなってしまった。
 だというのに、不思議なことに頻度は下がったが週に何度かは傷があった頃と同じように通学路で会い、私を駅まで送り届けたらふらっといなくなる。ただそれだけのためにわざわざ学校まで来る理由はわからないけれど。

「ちゃんとお勉強してっかァ?」

 かなり失礼な言い方になるが、燐音さんは見た目に反してかなり頭がいいらしい。テスト結果が散々だったとこぼしたところ、テストの答案を出すように言われ、馬鹿にされるのかと思えば的確にアドバイスをくれて驚きのあまり目を見開いてしまった。その顔を見た燐音さんはさすがに私のおでこを小突いたのだけれど、痛くもなんともなかった。
 それからはたまに勉強をみてくれたり、ただ送ってもらったり、アイドルのお話を聞かせてくれたりといった日々を過ごしている。あれ、これは一緒に過ごす時間が楽しいものに思えているんじゃないだろうかと気づいたのは、やっぱり秋の入り口のことだった。


「……っ」

 慌てて押さえた手のひらの中でくしゃみをした。今日は朝から冷えていたというのに、いつも通り半袖の制服を着てきてしまった。夕方になると秋の気配とともに寒さは強まり、剥き出しの腕が冷えているのがわかった。

「そんな薄着してっと、風邪ひいちまうぞ」
「……はい。今日は帰ったら長袖を出そうと思います」
「いやいや、今必要だろって言ってんの。仕方ねェから、俺っちの服を貸してやンよ」

 そう言っておもむろに腰に巻きつけていた長袖のシャツをかばりと広げ、有無を言う暇も与えてくれず、肩にかけられる。ん、と顎で促すのは袖を通せというサインだろう。気恥ずかしいながらも袖を通すと盛大に布が余った。わかっていたことだけど、燐音さんの服はかなり大きかった。

「やっぱり、燐音さんって大きいんですね……」

 ちゃらちゃらとして遊んでそうなイメージだけど、高校生の私と違ってきちんと成人している大人の男の人だ。身長も高いし、体もしっかりと引き締まっている。そうだ、私が怪我をしたとき、燐音さんは私を抱き上げてくれたのだった。だからきっと力も強いのだと思う。

「ほら、袖こんなに余ってますよ」

 これはさすがに馬鹿にされて笑い飛ばされる類いだろうと、余った袖をぶらぶらと揺らしながら見せつける。しかし、神妙な顔をした燐音さんは黙ったまま手首が見えるまで袖を折り曲げるだけだった。袖を整えてくれた燐音さんは「帰ンぞ」とぼそりと言って私の腕を引く。ぐんぐん進んでいく長い足はそれでも私の歩幅に合わせてくれているようで転びかけたりはしないが、いつもよりもうんと早足だ。

「……そういうこと、誰にでもすんじゃねぇよ」
「はあ……」

 たぶん私に大きな服を貸してくれるのは燐音さんくらいだろうとは思うけど、ぐっと言葉を飲み下して大人しく頷いたら、燐音さんは柔らかいため息を吐き、私の頭をぐしゃぐしゃと撫でたのだった。



 今朝は偶然早起きをしたので、遠回りをして学校に向かっていると、美味しいパン屋さんを見つけた。綺麗な住宅が並ぶ静かな一角だった。朝の清々しい空気の中を歩いて気分がよかったからか、つい気持ちが大きくなり、昼食に食べきれない量のパンを買ってしまった。


 朝に買ったパンを抱えて、学院の近くにある公園のベンチに腰掛けている。早く家に帰ってテスト勉強をしなければならないのに、少しだけゆっくりしたいと思ってしまうから、家に向かう足取りは重たい。

「お、ちゃんと居ンじゃねェか。約束守れてえらいえらい」

 時間を潰す場所をここに選んだのは、燐音さんにこの場所に来るようにと指定されたから。ひらひらと手を振って機嫌よく公園に入ってくる。
 一彩くんから「兄さんがに用事があるみたいだから、放課後ここに行ってほしいよ」と伝言をもらった。燐音さんと会うときはいつも約束なんてしていない。わざわざ一彩くんを介して伝えてくるというのは、今回は明確な目的があるということだろうか。

「燐音さん、今日はなにかあったんですか?」

 私の質問には答えず、迷いなく私の隣に腰掛ける。それどころか、私が手にしているパンが入った紙袋を遠慮なく覗き込んでいる。本当に、なにをしにきたのか皆目検討もつかない。

「パン、いりますか? 調子に乗って買っちゃったけど、全部は食べられないと思うので」
「へ? ちゃん、今日は嘘みてェに親切じゃね?」

 ふざけた口調で茶化すように言われる。燐音さんと顔を合わせるたびに苦い表情を作っていたから、そう言われても仕方ないが、いざ現実を突き付けられるとばつの悪い思いが押し寄せてくる。
 第一印象は、苦手な人。だけど、出会す回数が増すにつれて、燐音さんの優しいところ、気を配ってくれるところ、親身になってくれるところが見えるようになり、お礼のひとつでもしなければならないと思ったのだ。
 なんでも好きなものをどうぞと、パンの袋を預ける。珍しく戸惑った様子の燐音さんは迷いながらも一つのパンを選び、手に取ってくれたので、ほっとした。私にも燐音さんにしてあげられることがあって、よかった、と思う。

「じゃあ、ちゃんには、これ」
「え?」

 燐音さんは取っ手付きの紙箱を膝の上に乗せたきり、正面を向いてしまう。綺麗に整った横顔は不機嫌ではないが、緊張したような面持ちで、決してふざけたように笑ってはいない。

「ESで売ってるやつ。ちゃん、前に食ってみてえって言ってただろ」
「言ってた、けど。なんでいきなり?」
「最近、一彩が試験勉強してっから。ちゃんも試験があンだろ」
「そうですけど……。差し入れ、くれるんですか?」
「……いらねェなら、俺っちが食う」
「いる!」

 私にとってESビルや周辺地域は敷居が高く、気軽に近づいてケーキを買うなんてことはできない。たくさんの種類があるのだと、一彩くんや藍良くんに聞いていて、羨ましいなと思っていたのだ。

「燐音さん、ありがとうございます。ちゃんとお返ししますね」
「パンもらったっての」
「そうじゃなくて……、いいです。覚悟しておいてください」
「はァ? ……じゃあ、楽しみにしてやるよ」
「はい」

 燐音さんと別れて、家までの道を歩く。もらったケーキの箱を大事に抱えると、朝と同じくらいに足取りが軽くなる。
 うんと軽くなっていた。心も、体も、寝不足気味で濁った頭のすべての、なにもかもが。