息ができなくて目が覚めるときがある。溺れていたのか首を締められていたのか、起きたらまったく憶えていないのだけれど、喉をしばらくさすっていたらだいたい快くなるのでいつもそうしていた。だけど、その日は違った。カーテンを開いたら夜に混じって細い雨がしとしとと降っており、それらは窓をしっとりと濡らしている。げほ、と咳が出て、血の味が口のなかに広がるものだから寝直す気にもなれずに寝室を出た。
明るい夜だった。大きな満月のおかげかもしれない。スリッパに包まれた履く足を静かに進めるのは難しくて、亀よりもゆっくり歩いていると、どこからか鼻歌が聞こえてきた。幼稚園や小学校に通っていたころに何度もうたった歌がメドレーのように流れ続けていく。懐かしい歌だと思った。あの頃はからだが健康でたくさん走れていたし、よく眠れたので、いまよりも幸福だっただろう。
すぽん、と間抜けな音が響いた。それと同時に音が途切れた。まずいと思った。あれだけ音を立てないように気をつけていたというのに、声の主に気づかれるほどの音が出てしまったようだ。
「、喉が痛くて目が覚めちゃった?」
真夜中の彼はいつも泣きそうな顔で笑いかけてくる。
「ちょっとだけ……」
「そっか。こっちおいで」
手を握られて連れられてきたのはぴかぴかのキッチンだった。レオが羽織っていた薄手の毛布を肩からかけられて、しゅんしゅん音を立て始めたやかんを見つめる。これはこのアパートに引っ越してきた折にレオのお友だちがくれたものだったと思う。黄色くてかわいいやかんが黒い夜のなかに明るく浮かび上がっている。
「セナがくれたあったかいレモンのやつでいい?」
「……うん。ありがとう」
レオは冷蔵庫から取り出した容器からレモン色のとろりとした液体をマグカップのなかに垂らし、それに混ぜるようにしてやかんのお湯を注いだ。くるくるくる、と細いスプーンでレモンの液体とお湯をなじませる。透明に近い薄いレモン色。くまやうさぎが描かれた幼い絵柄のカップに指を伸ばそうとしたら、指先をぎゅっと握って止められる。
「もうちょっと冷ましたほうがいいかもなあ……。口のなかを火傷したら大変だ」
「レオは飲まないの?」
「おれはが残したやつをもらう! きっと全部は飲めないだろ?」
「でもおいししそうだよ」
「おいしくても無理したらお腹がびっくりしちゃうから半分こな」
あまりよくない夢を見た朝は熱が出ることが多い。しばらくすると喉が痛み出す。そういう夜は、なぜかいつもレオの鼻歌が聞こえてくる。それはレオが作った歌だったり、なつかしい童謡だったり、どこかの国の短い歌だったりするのだけれど、どれもがレオにしっくりと乗っかっている。きっと少しずつアレンジしているのかもしれない。
柔らかいソファに二人で並んで座り、冷ましてもらったマグカップを受け取る。にこにこ笑って「どうぞ召し上がれ」と言われて飲んだそれは温かくて酸っぱくて、どこか甘い。空っぽだったお腹にすとんと落ちた液体が美味しくてもっと欲しくなる。
「ああ、そんなに急いだらだめだって。ほらほら起きたらまた作ってあげるから、今は我慢しましょうねえ」
「変な言い方しないで……」
「おまえ、こうなったときはめちゃくちゃ手がかかるからなあ。いつもちゃんとしてるから、お世話するのが楽しい!」
頭を何度も撫でられる。口調の明るさほどレオの表情は活き活きとしていない。私がこうなったら彼はだいたい悲しそうな顔をする。それを見ると心が揺さぶられて泣きたくなると同時に、不謹慎にも安心する。いつかふとしたきっかけがあったらどこか遠いところに行ってしまいそうなひとが、私のためだけに飲み物を作って、一緒に眠ってくれる。歌を聴かせてくれる。
「……レオ。口のなか、ちょっとひりひりするかも」
頰に添えられた手がぽかぽかしている。口を薄く開くと冷たい空気が喉に伝わって鋭い痛みに目を瞑ったら、手と同じくらいの体温をもった唇が痛みをともなう息を塞いだのだった。