がぐずぐずと鼻を啜り始めてからどれくらいの時間が経っただろう。訊いたってなにも教えてはくれないのだから声を出すだけ徒労だ。とはいえ、手で口を覆う手が震えているし、ときどき、引き攣った泣き声を漏らしているから放って立ち去るなんてことはできない。下手をしたらこのままこの音楽室で一夜を明かしてしまいそうなほど、は動く気配がなかったからだ。

「……せめて顔ふきなよ」

 確か、鞄の中に使っていないタオルが入っているはずだ。荷物を音楽室に持ってきておいてよかったと、聞かれることのない独り言を言いながら、ピアノのそばまで這っていく。好きなだけピアノを弾いて少しだけ眠ったら家に帰るつもりだったのだ。ところが、豊かに流れる旋律は扉を乱暴に開く音にぶつ切りにされてしまう。心地いい時間を台無しにされた苛立ちをこの不法侵入者をなじることで発散しようとしたら、当事者は目にたくさん涙をためて「凛月……凛月……」と縋ってくるので、ものすごく困ってしまった。
 どうして泣いているのか訊いてもしゃくりが返ってくるだけで、真相にはたどり着けない。しつこく尋ねるのも面倒だったのでせめて呼吸が落ち着くまで待ってやろうと隣に腰を下ろしてぼうっとしていたのだが、それにもそろそろ飽きてきた。さて、これからどうしてやろうか。
 取ってきてやったタオルを手渡すと素直に受け取ってそこに顔を埋める。ありがとう、とも言われた。喋る元気が出てきてなによりだ。

「言いたくないなら聞かないけど、俺のところに来るってことは俺になにかしてほしいってことなんでしょ。なあに、誰かにいじめられたの?」

 のことはちゃんと大事だから、いじめられて困っているのならちょっとくらい助けてやってもいいかなあ。ピアノは途中でやめさせられたけど、昼間はたくさん眠れたし、誰を差し置いても俺に縋り付いてきたというのはかなり気分がいい。

「……そうじゃない」
「じゃあ、なに?」

 まただんまり。そのくせ、察してほしいですといった目をして見上げてこられると放っておけなくて、卑怯だ、と思う。まだどうしようもなく幼く、兄のように察し良く生きられやしないのだから、やんわりと聞き出す芸当はできそうにもない。

「……さっきね、帰ろうとしてたんだけど」
「うん」
「校門出たところで知らないひとにキスされた」
「は?」
「びっくりして逃げてきたの」

 涙も鼻も落ち着いたらしいは赤くなった目元にタオルを当てて、拙い呼吸を繰り返している。気持ちの整理ができつつあると、思考がぐるっとかき混ぜられて混乱状態の俺は対照的だ。

「いや、なにそれ……?」
「し、知らないよ。怖い顔しないで」
「するでしょ。は俺のものなんだけど」
「意味わかんなくて怖い」
「見ず知らずの人間にキスするやつのほうが怖いよ。なんなの、それ。このへんに変質者が出るなんて聞いたことないんだけどなあ」
「うん。ほんとびっくりした」
「のんきなこと言ってる場合じゃないと思うよ。ほんと危ないなあ、は」

 夢ノ咲は特殊な学院なのでストーカーなどの被害に遭った生徒も実際にいるらしいが、彼女はアイドルではないのでそういう熱の篭った行為とは無縁だと思い込んでいた。それを抜きにしてもが熱狂的なだれかにえろいことをされるだなんて想像もしなかったのだが、振り返ってみるとには山ほどの隙がある。頼んだらすぐに膝枕してくれたり、添い寝を頼んだらスカートのまま布団の中に潜り込んできたり、その他もろもろ。人の善意につけ込んで悪いことをしようと考えている連中の餌食にされやすいタイプといえるだろう。どうしていままで野放しにされていたのか不思議なほどは無防備だ。

「そういえば、さっきから知らない男のにおいがする」
「凛月ってほんと鼻いいよね……」
「俺が夜に強いから送ってほしくてここに来たんでしょ」
「うん……。途中まででいいからそうしてもらえると嬉しい、です」

 途中の先でおかしな事態に巻き込まれないとも限らないのに、こいつはほんとうに考えが足りない。相手がイカれたやつだったら、いまも校門前に張り込んでいて、出会い頭に殺されてしまうだろう。
 タオルで涙を吸いきったはすっきりとした様子でタオルをたたみ「洗って返すね」と笑っている。他人の世話を焼くなんて御免なのだが、一緒に帰っているときに襲われたら寝覚めが悪い。ひとまずまだ残っている教師にことのあらましを伝えて対策を練ってもらおう。ああ、面倒くさいなあ、なんて、言ってられない。ここは俺がしっかりを守ってやらないといけない場面だ。放っておけばは明日の朝にはお陀仏になっている。

「行くよ」
「……うん、ごめんね凛月」

 のろのろと立ち上がった俺に申し訳なさそうな声音をふっかけるのもやめてほしい。俺だってちゃんとのことが大切で、守ってあげたくて、タオルを貸したのだから。

「手でも繋ぐ?」
「いいの?」
「いいよ。が変質者に埋められないように、ちゃんと守ってあげるからね」
「怖いこと言うのやめてよ……」
「脅されないとわからないくせに」