二十歳になった凛月がこの部屋に住み始めたときからずっと飼っている茶色の毛の柔らかい猫が、ぴょんと跳ねて膝の上に飛び乗ってきた。ぴんと山になった猫の耳はどこか遠くの風の音を聴き取ってぴくぴくと動いている。窓を揺すりはじめたその強い風が電車を止めてしまう前に、私は私の部屋に帰らなければならない。

「これ、お土産にもらってもいい?」

 重たそうな黒いテーブルの上に置かれたお菓子は彩が豊かだ。毒々しい青色も赤色も、美味しそうな甘い香りを放っている。試食のために並べられたお菓子のすべてを食べきることはできなそうだが、生菓子が無駄になってしまうのは寂しい気がして、いくつか持ち帰ろうと思った。これまでも凛月の家でお菓子を試させてもらったときはそうしていたから、あたりまえに許されると思った。

「わざわざお土産にしないで今食べちゃったらいいのに。もうお腹いっぱいになった?」

 エプロンを外して椅子の背もたれに掛けた凛月に顔を覗き込まれて、とっさに顔をそらした。カーテンの隙間から見えた窓の外は真っ暗で、びゅうびゅうと風が吹いている。これからたくさん雨が降って風が吹いて、明日は私が住む一人暮らしのアパートはべちゃべちゃに濡らされるだろう。
 凛月がお土産にしたがらないのもわかる。風に吹かれて、せっかく作ったお菓子が崩れてしまうのは勿体無い。いくら息を潜めても雨風は止まないのだから。

「そうじゃないけど、電車がなくなっちゃったらいけないから、もう帰ろうと思って」
「ああ、そういうこと。は着替えを忘れてきっちゃったんだねえ」
「え、違う……」

 ゆっくりと頷いた凛月はにっこり笑って「絶対にそうだ」と確信を持ち、迷いなくクローゼットに近づく。その足に擦り寄るようにして猫もくっついて歩く。足音はほとんど聞こえない。
 案外綺麗に整頓されているクローゼットの中から適当に引っ張り出したスウェットを胸元に押し付けて「それでいいよね」と、とんでもないことを言い放ち、猫を抱きかかえて顔を寄せ合う。着替えが欲しかったのではなかった私は凛月のにおいのするスウェットを抱きかかえながらその場から動けず、凛月が猫に「はねえ、今日は早く寝たいんだって」と話すのを、気が遠くなりながらどうにか聞き取る。

「ふとん行こっか」

 じっと見つめる視線に気づいてくれた凛月は、ふと表情を綻ばせてそう言う。


 まだお風呂にも入っていないから、凛月からは甘いお菓子の匂いがする。手分けして冷蔵庫に入れたお菓子たちのことを思うとお腹が空いてきたが、お土産を言い訳にしようとしていたことを思い出してぐっと堪えた。
 帰らなくてもいいと暗に伝えてくれた凛月の申し出を断りたくない私は、布団に行く前に素早く着替えてしまったのだ。それを凛月はたいそう嬉しそうに見ていた。すっぽりとかぶった上衣から出た頭の上の乱れた髪を、丁寧に直してくれた。爪が切りそろえた指先は丸っこい。

「……なんでにやにやしてるの?」
が泊まっていってくれるの久しぶりだから。俺のスウェット、あんまり似合ってなくて可愛い」

 似合ってなくて可愛いって、それはちっとも褒められている気がしない。

「明日、電車が止まってなかったらのパジャマを買いに行こっか」

 凛月も寝巻きに着替えてからベッドに寝転ぶ。私と凛月と、凛月の猫。みっつの体がひとつのベッドに沈み、外は激しい雨が降り出しそうな天気だというのに、体温にともなって布団の中もぽかぽかと温度が上がっていく。昼間、洗濯をして乾燥機で乾かしたシーツはふんわりと柔らかい。
 猫のあくびにつられた凛月は大きく口を開き、少しずつまぶたを下げていく。夜に強い凛月の、まだまだ日付が変わらない夜の時刻に眠たそうにしている姿を見るのは、初めてかもしれない。そうしたら、私はもっと、凛月の部屋にお泊まりをしてもいいのかもしれない。

「凛月がこんな時間に眠たそうにしているの珍しいね」
「まあねえ……。雷と大雨が嫌だから、はやく寝てしまいたいんだよね」
「……うそでしょ?」
「ほんとう。うるさい夜なんて碌なもんじゃないし、俺たちだけだったら夜更かししちゃうから、には一緒に寝てもらわないと困るの」

 真ん中に挟まれた猫は一番最初に眠りに落ちる。常夜灯の暗い光の合間に、凛月の優しげな瞳がよく見えた。なんどもなんどもあくびをする凛月につられて出たあくびと一緒に言い訳がいなくなり、なくなってしまうかもしれない電車を盾にするのをやめて、凛月の胸に顔を埋める。

「……雷と大雨で心細いから、今日は泊まっていってもいい?」
「いいよ。は特別だから、許してあげる」

 後頭部をするりと撫でる手の動きと心臓の速度が一緒になって、眠れなそうだと心配する心もゆったりと落ち着いて、呼吸が整う。凛月の体は甘い香りでいっぱいで、猫はすでに体を丸めて目を瞑っている。足をお腹に引き寄せるように身を小さくすると、凛月の手が腰に回された。そうして、自然とまぶたが落ちていった。