※ほんのりファンタジーパロディ


 凛月と初めて会った日、理由は忘れたけれど、私は朝から泣きながら布団の中に潜り込んでいたものだから、目はみっともなく腫れていた。髪はあちこちに跳ねて、鼻のてっぺんは赤くなっている。だけど、不格好な要素をたくさん背負った私に、凛月は優しく笑いかけて、恐る恐る差し出した右手の指をそっと包み込んでくれた。やたらとあたたかい手にほっとしたのを覚えている。父からは彼の年齢を聞かされていたが、ただの数年だけ歳上だとはゆめゆめ思えないほど大人びた仕草で、音を立てずに、腰をかがめて私の手の甲に口付けをした。

「……おうじさま?」

 もしも、「決められた相手」が凛月だったらよかったのにと思い、地に片膝をつけた彼にそう尋ねると、まるで王子様みたいに綺麗な姿をした彼は、ふっと表情を綻ばせて「朔間凛月と申します。王子様じゃないよ」と、優しく教えてくれた。


 私の望みに反して、数年経っても王子様にはなってくれなさそうな凛月は、日に日に成長して、より一層、騎士らしくなっていっている。
 初めて会った日から、凛月はたくさんの厳しい訓練を受けながら、隣の部屋で眠っていた。そうした年月を繰り返して、凛月が来て一年ほど経った頃に正式にほとんど私のそばから離れない立場となった。成長に比例して、訓練で怪我をすることも少なくなったので、ほっとしたのを覚ええている。父が言うには、凛月は騎士の中でも一等に腕が立つらしい。腰につけた剣で戦っている姿を見たことは、いまだにないのだけれど。

さま、失礼致します」

 廊下に面した扉とは別に、部屋と部屋を繋ぐ扉がもう一枚設置されている。そこから出入りすることが習慣化している。扉を叩く合図なんてしなくてもいいと命じているというのに、凛月は律儀に扉を叩いて合図をしてから部屋に入ってくる。きちんとした敬語と、緩やかな笑顔を携えて。騎士として文句のないやり方だというのに、なぜか、そこからは他人行儀さが滲み出ているから、あまり得意ではない。

「二人のときは、さま付けしないでって言った……」
「ふふ、そうだったねえ」

 このやりとりも、もう何度目だろう。凛月の余裕そうな笑みからして、わかって言っているのだろうが、このようにふざける意味がわからなくて毎回性懲りもなく戸惑う。

「ねえ、今日は元気がないけど、どうしたの」

 夜に聞く凛月の声はやたらと甘い。その低く甘い声は耳をくすぐって、背筋がじわりと熱くなる。
 綺麗な花の刺繍が入ったドレスは、雑に座ったせいで皺になっていることだろうと思う。それを手のひらで撫でつけながら、今日、お稽古でたくさん駄目出しをされたことを思い出す。それでは、お相手になる方が悲しみますよとの太鼓判も押されて。

「ねえ、凛月……」
「なあに」
「凛月は、私が結婚したらいいと思う?」

 はじめて会ったときみたいに、床に膝をついて見上げるようにしてくる凛月は、その目を大きく見開いた。
 決められた相手と結婚をしなければならないというのは幼い時分から覚悟していたが、それが間近に迫ってくればくるほど、気が進まず、お稽古もうまくできなくなる。

「それは、俺が決めることじゃないよ」
「……そうだけど」
は俺になんて言ってほしいの」
「それは……」

 結婚しないでほしいと言ってほしいと言えば、凛月は私の命令に従うのだろうか。

「私は、昔から凛月が結婚相手になってくれたらいいなって思っているよ」

 わがままを我慢せずに告げると、凛月はさらに目を大きく開いて、口をぽかんとさせる。それから、額に手を当てて考え込んでしまった。もしかして、困らせてしまっただろうか。

「……りつ」

 春の夜風が窓をがたがたと揺らす。凛月の名前を呼んでも、白い手袋で覆われた手がその顔を覆っているだけで、返事はない。

「ねえ、凛月」

 焦れて、右手で凛月の肩に触れる。硬い生地の服越しだと、凛月の体温を確かめられないから、指先を滑らせて凛月の頬まで持ち上げる。すると、顎がゆるゆると持ち上がり、頬に触れた手をそっと握られた。

「ごめんね。いくらの命令でも、それはできないなあ……」

 凛月はひとつも悪くないというのに、私のわがままに、眉を下げて謝る。その表情を見ているとなんだか胸が刺されたようにきゅっと痛くなり、「凛月は悪くないよ」と目をそらして口早に言う。

「それにね」

 子どもに言い聞かせるような優しい声を聞きながら、左手で凛月の右手を覆う手袋をはずしていく。凛月の体温を吸い込んだ白い手袋を寝台の上に放ったが、叱られはしない。
 幼い頃と変わらない体温を持った手のひらに、自分の手をぎゅっと押し付ける。父や母よりも長い時間を一緒に過ごしてくれた凛月に寄っかかってばかりで、こんな私はひどく情けないと思う。

「結婚相手だったら、別れましょうって言ったらそれで終わりでしょ。でも、俺はに忠誠を誓った騎士だから、死ぬまで一緒にいられるの」

 親指以外の四本の指をまとめて握り込む。不格好な「はじめまして」の挨拶をしたときと同じように、今日も私は寝転んだせいで髪が乱れ、ドレスには皺ができている。どうにも、凛月の前ではなんにもうまくできない。
 手袋をはめていない左手と、手袋をはめた右手に、くるっと手をひっくり返された。差し出していた手の甲は床に向けられる。代わりに曝された手のひらに、凛月の柔らかい唇が押しつけられた。

「俺の命は、が死ぬまでのものだよ」

 目を伏せながら、そんな怖いことを言う。手のひらの柔らかい皮膚がじわりと熱を持ち始め、それが首を通り、顔がやたらと火照ってきたのを自覚した。
 それと同時に、恐ろしくもなる。私は結婚することばかりで頭がいっぱいで、死んでしまうことなんて、考えもしなかった。凛月がそばにいてくれるのは、私に寄り添ってくれるためではなく、その身を差し出しすためだ。

「……えと、なんて言ったらいいか」

 うまい返事の仕方が見つからない。だから、寝台に座ったまま、両手をそっと広げて凛月を見下ろした。
 察しの良い凛月は、腰を上げて寝台に膝を乗り上げてきた。そして、不安定な体制を保ったまま、背中に回した手でぎゅっと抱き寄せてくれる。ふう、と首にかかる息が熱い。

「……甘えん坊だねえ」
「凛月が死んじゃうことを考えたら、怖くなって」
「俺のご主人様はほんとうに可愛いね。大丈夫だよ。俺がよりも先に死ぬことなんて絶対にありえないから」

 いくら剣の腕が達者とはいえ、うんと危ない環境に身を置いているはずの凛月が、いつでも安全で、安心できて、私よりも先に死なないでいる確証は、どこにもない。それを想像するとたまらなく不安になり、心臓が嫌な音を立てて波打ったので、たまらずに目の前にある身体に額を押し付ける。目を閉じた途端に熱い滴がひとつだけこぼれ落ちて、それは凛月の白い服に染みをつくって消えていった。



 抱きしめたまま、ぐすぐすと鼻をすするの背中を撫でる。この泣き虫が、いざ外交をするとなるとそれなりに気品のある表情をするのだから、弱音や泣き顔を見られるのが俺だけだと思うとたまらない思いが腹の底から湧いてくる。
 いつか、がもっと大人になり、変わっていってしまう未来とうまく折り合えたとき、「さま付けしないで」と言わなくなるのかもしれない。
 だとしても、俺の一生は未来永劫のもので、離れるつもりなど毛頭ない。春の終わりにしがみついた甘い夜、まだ幼い関係に縋ってくれるたったひとりの女の子に、俺も救われているのだ。