夕陽が差し込むなか今ここにいない人の服を羽織って二十分ほど待った。

「……

 待たせたな、といつもと変わらない口調で教室に踏み込んできた氷鷹くんの影が、彼と同じ動きで向かってくる。くっきりとした黒色が私の影と交わる。じっと押し黙ったまま見上げてもなにも言わないから、根負けしたような心境にさせられ、私にはすこし大きめのサイズのブレザーをのろのろと脱いで差し出すと、ただ一言「すまない」と受け取られる。表情は微動だにせず、目の奥から感情を読もうとしても無理な話だった。すまないって、なにに対しての謝罪なの。

 整った涼しげな顔に綺麗に整列されている鼻や目が夕方の陰影で彫りを深くする。勝手に氷鷹くんのブレザーを着てしまい、あろうことかそれを目撃されて内心は心臓が潰れそうになったのに、氷鷹くんは驚きもせずあたりまえのように私がさっきまで着ていたそれを着る。おそらく、氷鷹くんはきっと、私についてちっともなんとも思っていないんだろうなあ……。

「どうした、ぼうっとして。貧血でも起こしたのか」

 それと、氷鷹くんは鈍くて天然なんだった。

「ううん。大丈夫だよ、お昼にレバーも食べたから。ちょっとお腹空いたかもしんないけど」

 正午くらいになると気温は二十度を越えて暖かかったから、天気予報を過信している私はブレザーを着てこなかった。夏まで何十日もかけないと辿り着かないこの時期の陽が落ちた時間帯は、想像しているよりもぐっと冷え込む。去年も思い知らされたのに。
 春に、買ったばかりの白いカーディガンを褒めてくれた日がこうしているうちにもぐんぐん遠ざかっていく。色あせない思い出をいつも昨日のことのように思い出せてしまうから、突き付けられた日数に驚いて目眩を起こしそうになる。地面に落ちる影がもったりとして濃い。夜が短くなり、公園にはまだ子どもが多く、小学生くらいの男の子と女の子が赤色のぶらんこを二人乗りしていた。

「いいなあ……」

 くりっと丸められた目に見下ろされて首筋がむずがゆい。

「食べたいのか?」
「え? なに……えっと」

 公園の入り口には移動販売のクレープ屋があり、何人かの子どもや大人がそのワゴン車に群がっていた。ちょっとした黒山の人だかりができている。

「待たせたお詫びにひとつ買ってくるが、なにがいい」

 小さな男の子と女の子の純粋な近距離に対する羨望の言葉は、氷鷹くんの脳で独自に処理され、私は放課後にクレープを買い食いする食いしん坊になる。
 人の群れに乗り込んでいく氷鷹くんを見送ってから公園の中のベンチに腰掛ける。午後六時近く、気温は二十度よりも低く、子どもが友だちと明日の約束を交わす。ぶらんこの音がやみ、紫色のジャングルジムには人がいなくなる。肌寒い。氷鷹くんのブレザーにすっぽり包まれる暖かさを思い出す。

「あの、すみません」

 ギンガムチェックのシャツを着た男の人が近付いてきたので無意識に氷鷹くんに向けていた視線を戻すと、その人はほっとしたように笑う。雰囲気の人なつっこさや、着ているものの清潔さが知らない人に話しかけられた警戒心を薄くさせ、どうしたんですか、と質問さえできた。

「ベンチの下に娘が転がしたボールが落ちているみたいで、拾ってもいいですか」
「あ、そうなんですね、いま立ちます」

 男の人の背の向こうにちまちまと歩く小さな女の子を見つけた。おそらく娘だろう。ふたつに結んだ髪をぴょんぴょん揺らして駆けてくる女の子を手招きするお父さん。微笑ましい光景を幸せになったような気持ちで眺めていると、今度は女の子の背丈よりも随分大きな、見慣れた男の子が片手にクレープを持って駆けてくる。彼は風を切るように素早く、簡単に女の子を追い越してしまった。

「あのっ!」

 毎日のレッスンで鍛えられた腹筋が大きな声を吐き出す。

は俺の恋人です、なので」
「え! 氷鷹くん!」
「なんだ」

 ここに至るまでの無表情が嘘みたいに切羽詰まった様相でこちらを一瞥する。気色ばんだ氷鷹くんに腕を掴まれ、なんだなんだ、と混乱しているうちに、追いついた女の子が「おとうさん」と舌足らずに父親を呼ぶ。氷鷹くんの背中に隠された私は、青いブレザー越しにベンチの下からボールを救出した親娘がにこやかに立ち去っていくのを見守っていた。
 喉が渇いていた。艶のあるさらりとした黒髪が冷たい風にさらい上げられる。首までまっ赤だ。





 クレープを売っていたワゴン車が走り去り、とうとう人っ子一人いなくなった公園には夜の気配がたちこめている。東の空は暗く、薄らとした星のひかりがいくつか生まれている。

「アイスおいしいねえ」

 リクエストした苺のクレープにはバニラアイスのおまけまでついており、溶けてはいけないからとそれを受け取って食べているのだけど、肩をがっくりと落として勘違いを猛省している氷鷹くんの横でばくばくと食べる気にもなれない。
 怒られるかな、怒られたらどうしようかな、と自問自答しつつ、氷鷹くんの腕を触る。するすると撫でる。やめろ、くらいは言うと思ったのにそれもなく、ゆっくりと持ち上がった未だに赤い顔を見る。

「おまえがナンパされたのかと思ったんだ」

 ファミリー向けの公園でナンパされるというのも珍しい話だとは思うが、氷鷹くんの羞恥はまだ冷めていなかったので茶化すこともできず、首を横に振ってお礼を言った。喉に滑り込ませたアイスクリームが冷たくて甘い。

「咄嗟にあんな嘘をついてしまって、すまなかった」

 昼間は光に透かすと紺色に見える髪は、今は影のように黒く艶めく。

「嬉しかったから、いいよ」

 半分以下に減ってしまったアイスクリームを小さなプラスチックスプーンで掬い取り、氷鷹くんの口元に持っていく。

「それはどういう意味だ」
「あーん、して」
「そうじゃない」

 溶けたバニラアイスの一粒が落ちて地面に染みる。溶けるよ、と急かす。真摯な視線をずらした氷鷹くんは私の手を掴んでがぶりとかぶり付いた。しっとりとした佇まいの彼に似つかわしくない、やや乱暴な仕草だった。

「嬉しかったと言われたり、俺のブレザーを着られたりすると、またおかしな勘違いをしてしまう」

 あの一件が氷鷹くんのトラウマになってしまうのは大変にまずいので私が一肌脱がなくてはならないのだろう。ひとまずアイスの部分を口に放り込み、知覚過敏にも負けず強気に飲み干してから立ち上がった。

「氷鷹くん。氷鷹くんが勘違いしないように、今から告白するね」

 頷きかけた首がぴたっと止まり、同じように立ち上がって私を見据える瞳にあたたかな橙色が映り込んでいる。

「それは、俺から言うものだろう」

 照れっぱなしの氷鷹くんはきりっとした顔をつくろうとしたのだろうがいまいちきまらず、すこしだけ笑って、白いカーディガンで半分隠れた私の手をそっと握った。