そう広くもない私の部屋で、大きな身体をぴったりと収めて窓辺の椅子に腰掛けているファイノンが、おいでと手招きをする。そよぐ風に揺れる色素の薄い髪。彼を見下ろすことは、上背のときは決して叶わない。
 うやうやしく指先に触れられ、そっと握られたあとに、手をひっくり返される。私の手のひらは窓の外から投げ込まれた光を浴びて白白しい。
「今日は君に贈りたいものがあるんだ」
 懐から取り出された金色の髪飾りはオクヘイマに降り注ぐ光よりも眩しく、目を開いたり閉じたりしてみても視界に馴染まないままそこにあった。
「こんな高価そうなもの……どうして」
 お礼を言うよりも先に疑問をぶつけてしまうが、ファイノンは面に浮かぶ穏やかさを崩さずに照れ笑いをして、髪飾りを包み込むように私の手を閉じさせる。
「これを身につけている君を見たいと思ったから」
 ひねくれたところがなく、実直で明朗。花を模した髪飾りを贈ってくれた意図も、彼が言ったとおりなのだろう。
 りんごやザクロのお裾分けとはまるで違った意味で贈り物をするということ。私が彼に対して恋い慕っているのだと気づかれているのだろうということ……。絞り出した「ありがとう」はからからに乾いていた。そこでファイノンはようやく双眸から笑みをおとす。
「えっと……値段のことは本当に気にしないでくれ。返礼も気遣わなくていいんだ。君はそんなこと、全然、気にしなくたっていい」
 私の乾燥した声は、ファイノンの心のうちに憂いをもたらしてしまったのだ。

 いままではちっとも気にしていなかったのだけれど、幸せな時間を過ごすたびに「このままで幸せで良いのか」と思い悩む頻度が増していった気がする。それはファイノンと過ごしていると殊更増す。ファイノンがやさしく触れてくるたび……そして、慈愛を含ませた目で私を見つめてくるたびに。胸がうずくのは悪くなかったが、ふとひとりになると茫々とした不安が首を締めるようになったのはよろしくない。息が苦しくなるのは生きていくうえで不都合だ。

 数日経つがいまだ花の髪飾りは寝台のそばの小ぶりな抽斗に仕舞われたままだった。ファイノンはもの言いたげな視線を私の髪に注ぐのみで言及はなく、普段通りの態度で会話をして、ときには手や頬に触れたり触れなかったりする。
 ファイノンになんにも返せないのに、優しさに甘えて与えられるだけの日々を享受し続けている。断ち切る機会はいくつもあったはずなのに、他でもない私自身がファイノンから離れられずにいたせいで、知らぬ間に深いところまでやってきていたようだ。
 そんなことを考えながらあてどもなく雲石市場を歩いていると、青果店でザクロを買い求めているメデイモスさまに声をかけられて、心臓がびくりと弾んだ。
「……なぜそう硬くなる」
「いえ、すみません……」
「謝る必要はない。そうだな、生活に不便はしていないか」
 首を縦に振ったら、見上げた瞳が微かに弛められる。
「確かに、食事を摂っている顔をしている」
「えっ。太りましたか……?」
「以前よりはそうだろうな」
 クレムノス人である父と母を戦いのさなかに亡くしたあと、聖都オクヘイマで自身の食い扶持を確保するのは容易いことではなかった。それまでは戦いの手法ばかりを教え込まれていたため、「普通」の身の立て方をよく知らなかったせいだろう。剣を振ることばかりに時間を費やしていて、パイの焼き方のひとつも知らなかったのだ。
「髪も随分伸びた」
 剣をふるうのをやめてから短かった髪を背のなかほどまで伸ばし、それからはずっと同じ長さで留めている。それも数年も前のことであるのに、メデイモスさまは数日前の出来事のような口ぶりで過去を復唱する。
 父と母は尚武的な都市国家の血を正しく受け継いだ人物で、唯一の子である私にも武芸を身につけさせたかったのだろう。
 しかし、両親の期待とは裏腹に私の運動神経は良いとはいえず、剣技はちっとも上達しないし、失敗のたびに剣をもつことに魂を冷やす日々。うまくいかないときに受ける折檻の痛みと、罰として食事を抜かれることによる飢え。いち平民の家庭の事情ではあるが、それをメデイモスさまは把握しているのだろうか……両親を亡くしてから、彼はなにかと気にかけてくれているようであった。ひとりきりになった私の生活は、いろんな人の親切によって成り立っている。
「お前は髪を伸ばしたほうが似合っている」
 歩きながら話しているうちに笑いさざめく声が遠ざかり、人気がまばらになっていく。
「……そうなんですか?」
「ああ、そうだ。だから髪飾りのひとつくらいつけてやれ」
「え?」
「ピュエロスで顔を合わせるたびに大の男の泣き言を聞かされてはかなわない」
「……泣き言を言っているのはファイノンですか?」
「お前に髪飾りを贈った男が複数人いたとなれば、泣き言では済まないだろうな」
 祖国の王太子殿下は精悍な横顔に呆れを滲ませて言い切る。髪飾りをつけていなくとも平生どおりであったから、友人に泣き言を漏らすファイノンの姿というのは興味深い反面、気恥ずかしさと申し訳なさを抱く。
「なんだかご迷惑をおかけしたみたいで……」
「お前には迷惑などかけられてはいない。口出しはしたが、お前はお前のしたいようにすればいい。お前の人生だ」
 髪を一束掬い取られ、すぐに放される。ぱさりと散った髪が頬に当たってくすぐったい。かすかに口角を上げたメデイモスさまにうなずきを見せたら、私の手にザクロをひとつ置いて、ひらりと翻して立ち去っていった。

 ファイノンと私の間を繋ぐ関係性に名前をつけるのをためらっているのは、クレムノスの民でありながらもついぞ前線に立つことすらなく剣を放棄した私は、黄金裔として聖都を守るファイノンに到底釣り合わないという自虐的な考えも一因ではある。
「君はタルトを焼くのが相変わらず上手だ」
 ファイノンは大抵のものを喜んで食べてくれるので作りがいがあると思う。親の言うことに従うしかなかった子どもだったころに食べられなかったものを作り、満足するまで食べて、ときには好きなひとに振る舞う。私の思う「幸せ」はこの両手で足りる程度のものであり、思いがけず素敵な贈り物をもらうというのはとんでもないイレギュラーなのだ。
 だとしても、突き返すのはむずかしい。突き返してしまえばいまの幸せさえも崩れて跡形もなくなってしまう予感がした。
「……ファイノン」
 つまりは、私はこのひとのことを好きで仕方がないのだろう。
「なんだい?」
「このあいだね、メデイモスさまにお会いしたの」
「ああ……モーディスが僕のことでなにか言ってた? 悪口とか」
 カトラリーの先でタルトを切り分けるのをやめたファイノンは困り笑顔になった。
「私の人生は私の好きなようにしたらいいって言っていただいて……」
 手のひらにじんわりと汗がにじむ。泣き言を言っていたという部分を伏せていなければ、こうもぱっと明るい顔を見られなかっただろう。
「あいつもいいこと言うじゃないか。君は遠慮がちだからな……もう少し好きなように振る舞ってもいいと思う」
「私はけっこう、好きなように過ごしてるよ」
 父と母を亡くしたときも、オクヘイマで暮らしているときも、私は私のことばかりを考えている。その考えに従って、私を中心に行動している。私がほんとうに遠慮がちな性格なのであれば、ファイノンに心を寄せるのをとっくにやめていたはずだ。
「私の両親の話を憶えてる?」
「もちろん。厳しい人たちだったんだろう」
 彼らが私に笑みを向けたことも、褒めたり抱きしめたりしてくれたこともないと記憶している。命なきいま、厳しさの裏に愛情が秘められていたか確かめるすべはない。だからだろうか、これでもう痛みや飢えを味わわずに済むのだという安堵を抱いた心が、両親を亡くした喪失感に先立ったとしても、さして不自然だとは思わなかった。その考えはいまでも自然に発生したものであると認識しているし、いままでもこれからも、きっと矯正できない。
 あさましい私にとってファイノンは過分な幸福みたいなものなのだろうけれど、それでも。
「うん……。だからね、髪飾りなんてつけたことがなくって。似合うかもわからないから、ファイノンがつけてくれる……?」
 一言喋るたびに自己本位さを際立たせていくようで恐ろしいけれど、私の髪を撫でるファイノンの大きな手のひらは恐怖を拭い取り、かわりに柔らかい温度を注ぎ込んでくれる。
「大事な役目を担えて光栄だ」
 眺めるだけだった髪飾りをファイノンに預ける。横髪を指先でとかされ、耳の少し上のほうの横髪に花の飾りが留められる。甘くて重い。ファイノンの微笑みも触れてくる指先も、かけてくれる柔らかい声もぜんぶ甘くてたまらない。
「思ったとおりだ。君によく似合ってる」
「ほんとうにそう思う……?」
「ほんとうだよ。夢でみたよりも似合ってる」
「……うれしい。ありがとう」
 この両手に抱えられるものでさえ取りこぼしてきた人生だから、抱えきれないぶんを持ってしまったときになくしてしまうのが怖いと思う。それでも与えるのをやめようとしないファイノンに身体を引き寄せられ、しゃくりとあげて震える背中を何度も何度もさすってくれる。
「私も、ファイノンになにか贈りたい」
 鼻をすすると溺れているみたいな心地になった。撫でる手に促され呼吸が整っていく。
「えっと……ほんとうに深い意味はなくて。前にも言ったけど、僕が選んだものを身につける君を見たかっただけなんだ」
「それってなんだか……」
 改めて聞くと、私のことを好きだと言っているみたいだ。
「あはは、君の考えはきっと当たってると思うよ」
 頬を包む大きな手、私だけをうつす綺麗な瞳。おそろしい質量を伴ってこの身体ごと飲み込もうとする体温に耐えきれず、また涙が溢れ出す。恥ずかしくてたまらないのに、顔をそらすことは決して許されない。
「ごめんね。でも、泣き顔も見たいな」
「絶対にごめんって思ってない……」
 髪飾りに触れた指先はそのまま頬のうえを滑る。硬い指先に遊ばれて、上向きにさせられた視線とファイノンのそれが絡み合う。目をつむればまぶたに口づけをされた。もらうだけではなくあげたいと思えるのだから、きっと私はこのひとのことを大切にできる。