夕餉の席を一番最初に立ったのは主で、そのいつもと違った行動は刀剣男士たちに少なからず影響を与えた。それというのはつまり、こういうことだ。主はゆっくりと食事を摂るたちで、どんなものも残さずに綺麗に食べる。俺たちは人の身を得て一年も経っておらず、味覚も発展途上中なので、いまだに新しい食べ物には困惑させられるし、癖のある味をどうしても避けてしまう。だからなんでも食べられる主はすごいなあと素直に感心しているのだ。その主が食事を半分以上残して「ごちそうさま」と告げるのだからびっくりしないはずがない。今日の献立は必勝祈願に燭台切さんが腕をふるった豚肉を揚げたもので、とても美味しくておかわりも欲しくなってしまうくらいだというのに、主はお腹の調子が芳しくないのだろうか。
「鯰尾」
主が残した食事をじっと眺めていたから物欲しそうになっていただろうか、いち兄に話しかけられて慌てて「違いますよ!」と否定するが、見当違いだったようで、小首をかしげたいち兄は「主のことだけれど」と話を続ける。ふっとほどけるようなやさしい笑顔。俺たちの兄は厳しいけれど優しくて、俺がもっと短い刀であったら主に対するこのわけのわからない気持ちを包み隠さずに打ち明けていたのかもしれないが、そこで兄に頼るほど幼くはなかった。
「主は、間違えることがとても怖いらしい」
「間違える? なにをですか?」
「……おまえは近侍なのだから、主を支えてさしあげなさい」
俺の質問を沈黙で殺した長兄は、柔らかい声と真面目くさった表情で、命令をくだした。
○
この身を賜ったときからずっとそのつもりであったので、兄に言われた言葉がいまさら響くことはなかったけれど、お腹のあたりがずっしりと重たくなった。戦のない穏やかな日々に薄められて使命を忘れていたのかもしれない。
「主さん?」
襖越しに主の部屋に声を投げると、中からなにかが崩れ落ちるような音がした。崩落の音のあとに小さく「……はい」と返事が聞こえたので遠慮なく襖を開くと、部屋のすみっこで正座している主に出迎えられた。笑顔がどうもぎこちない。言ってしまえば、かなりわざとらしい表情だ。なにかを誤魔化すために誂えられたそれを指摘するべきかどうか迷いながら部屋の中に足を踏み入れる。一歩進むごとにびくりと肩を揺らす主をかわいそうに思わなかったわけではないが、兄に念を押された通り、俺は彼女の近侍で、彼女を一番近いところで支えるといった使命がある。
「あまり食べていませんでしたね。どこか痛いんですか?」
「う、ううん……」
両手が背中に回っている。なにか、隠しているものがあるのは、明白だった。
「あんまり平気って感じでもないけど、なにかあったら手伝いますよ。世話を焼くのは好きなので遠慮しないでください!」
「大丈夫、なんでもないの」
どん、と大きく胸を叩いたのにすげなく返されてちょっとだけ虚しい。だらりと降りた腕を太ももにくっつけて、もう一度と、自分に言い聞かせる。
「お腹が痛いんですか?」
「……痛くない」
「でもどこか悪いんじゃないんですか? いまは……ほら、医療技術だっけ。それが発達しているから、お医者さまにみてもらったほうがいいと思いますよ」
「ううん、あのね、ほんとにね、病気じゃないの」
うつむいた主が、小さな声で「なんでもない、なんでもないんだけど……」 と、近くにいない誰かに言い聞かせているような言葉を吐き出すたびに、胸のあたりがぎゅうっと握り締められているかのような、落ち着かない感覚に襲われる。この皮膚の下にある臓器は、なんていう名前だっただろうか。
主の見た目は俺や骨喰と同じくらいの年齢が予想されるものではあるが、実際は、俺たちの方が長い時を過ごしている。人間の子として生まれ落ちてどれだけの時間も経っていない、神力が強すぎたせいでこんな役割を任された、ただのかわいそうな子どもだ。
「……明日、はじめて出陣するでしょ。なんだか緊張しちゃって……」
「え、主が? 緊張って、なんでですか?」
そろそろと持ち上がった視線と、己のそれが合わさり、先ほどよりもより一層、胸が痛む。幼い目の両方がきらきらと瞬き、今にもこぼれ落ちそうだったからだ。
その表情に自覚があるのかないのか、主は後ろに回していた手をそっと動かし、文机にあった木箱に、細長いものを手早く仕舞う。
「政府のひとは、手入れをすれば刀はちゃんと直るって言っていたけど、みんな、ふつうにごはんを食べるし、優しいし、だから……。あんまり、簡単には考えられなくなっちゃって……。だめだよね。ちゃんとしなきゃいけないって、思うんだけど。こんなこと、鯰尾に話すことじゃないよね。ごめんね」
主の手が、俺の手の甲を撫でる。
主は、と口を切った兄の、布団よりも柔らかい声を思い出す。
主は、間違えることがとても怖いらしい。
間違えるというのは、いったいどういうことなのだろう。見当違いな時代に俺たちを送り込んでしまうだとか、そういう失敗をさしているのだろうか。
結局のところ、胸にあてた拳をぎゅっとかたく握りしめている主の本意は結局解らなかったけれど、主が怖がっているということはきちんと読み取れたので、いまはなによりも彼女を元気付けるべきだろう。
「……ええ!? 鯰尾、なにしてるの?」
おもむろに髪をほどき、主の手首にその紐を巻きつけると驚愕の声があがった。
「不安なんでしょ。お守りです」
「おまもり……」
元気のない人には元気になってほしい。出陣して俺たちが失敗するかもしれないと心配しているのなら、そんな心配はいらないと胸を叩いて出陣してしまいたいが、なんとなくそういう問題ではない気がしたので、お守りをあげることにした。
顕現したときからずっと髪を束ねていたそれに、少しでもいいからご利益があるといいのだが、ちょっと自信がない。だって、ただの髪紐だ。もっと気の利いたお守りを作ればいいのだろうが、そんなものは持っていないし、第一、この審神者は神力がばかみたいに強いのでお守りなんて効きそうにない。きっと、主がそっと隠した組紐こそ、ご利益があるだろう。
すなわち、これは気休めにしかならない代物だ。
「ちゃんと元気に帰ってくるので、これをお守りだと思って、だいじに持っていてください」
気休めにしかならないだろうが、この身に触れていたものの一部でもいいから、持っていてほしかった。俺や兄弟、その他の刀たちのそれとはつくりが違って見える手首に赤い紐が映えている。その手首に、主の目の端から押し出されて粒になった涙がぽとりと落ちる。
女の子なのだ、俺たちの主は。
○
「で、どうして主が寝込んでいるんですか?」
「すごく、すごく緊張してたの……」
額に濡れた手ぬぐいを乗せられた主は、ぼうっとした声音をしていた。熱を孕んだ声が鼓膜を揺さぶる。赤い頬や汗ばんだ首筋がたまらない。どうしようもなくなって、目を逸らした。やっぱり、胸のあたりが痛い、気がする。
「無事に帰ってきてくれるか、ずっと心配だったの……」
「余裕でしたよ。そりゃあこれからだんだん大変なことも起こるとは思うけど……。いっぱい修行するんで、絶対になんとかなります。だからそんなに気に病まないでください」
主が床に臥せてしまわないように、帰還したときにすぐ元気な姿を見られるようになるために。
「大丈夫です。これからもがんばりますよ。だから、うまくできたら、ご褒美をください」
ご褒美? と熱を孕んだ声があがる。それにともなって、体温が上がっていく。人の体はたまにうまく操作できなくて、不便だと思う。
「なにがほしいの?」
熱を孕んだ顔は、いつもよりあどけない。頰に触れると冗談みたいに熱い。こうして指先で触れてしまえば、肉体を得たのだという実感が強くなって、もっともっと触れたくなってしまう。言ってはいけない願いごとを口走りそうになる。
たとえば、あなたの名前がほしい、とか。
「……主が、俺のために紐を作ってください。それを俺のお守りにします」
名前のかわりに、あのとき、背中に回った手のなかにあったものを思い浮かべながらそう言うと、主の顔は感心するほど真っ赤になったのである。