ノートに消しゴムを擦り付けて白い塊を崩していく。数列を消して、書いて、答えが合わないことに気付いてまた消して。ずうっとその流れをなぞっていると、気持ちが鬱々としてノートごと破り捨てたくなる。

「煮詰まっていますね。中間テストですか? 懐かしいなあ」

 ふわりと甘い香りが漂う。夕食の時間帯をちょっと抜けただけでカフェタイムでもないのに、パンケーキみたいな匂いを纏っている。やさしい笑顔と甘いかおりにどうしようもなくどきどきさせられて、困る。
 声の質が明るいから実年齢よりも若く見えてしまうが、安室さんはきちんと大人のひとで、高校の制服を身に纏って定期試験の準備に頭をひねっている私とは十以上離れているのだろう。

「もう明日なんです」
「それは大変だ。手応えは?」
「だめかもしれない」
「そうかもしれないと思ってました。さんがこの席を占領して三時間、ずっとそのページから進んでいませんし」
「ず、ずっと見てたんですか」
「ずっとっていうわけじゃないですよ、半分は想像です。だけどノートのこの部分、筆圧でくぼんでいるので、同じところを何度も直したんじゃありませんか?」
「せいかいです……」

 先生が『ここは出るぞ』と御墨付きをくれた問題がどうしても解けず、ポアロに駆け込んでから三時間かけてじっくりと向き合ってみたのだけれど問題が振り向いてくれる予兆はなく、そろそろこの喫茶店の上にある探偵事務所の娘である蘭に泣きつこうかと考えていたのだ。丁寧に計算をしても解答と数字が合わないのだから、きっとやり方が悪いのだろうし、このやり方しか知らない私がひとりでもがくよりも、誰かに知恵を借りたほうが捗るだろう。

「う……、あの、私もう帰ります」

 テスト勉強をするという大義名分でここにやってきたのだが、混雑をしていないにしても一杯の紅茶だけで何時間も居座るのは、常連客認定されているとはいえ心苦しい。そもそも、勉強だけが目的なのではなく、安室さんを一目見られて、一言でも交わせられたらいいなと邪心をゆらゆらさせており、その目的は達成されたのだからここが退出の合図だ。

「三行め、引き算を間違えている」

 閉じかけたノートの上に指が乗っかり、後片付けを阻止される。ぎゅっと押さえつけられた指が、ここ、と示している。

「え……あれ、ほんとだ」何度もやり直したのに。
「根を詰めすぎると簡単なミスにも気付けないのは、よくあることですね。でも、本番では気を付けないと」

 それから安室さんは私が苦戦していた問題だけではなく、範囲内のすべてを解くコツを教えてくれたりなんかして、私の試験勉強はこれまでにないくらいに捗ってしまったのだった。もしかして、もしかしたら、至上最高得点をとってしまうんじゃ? と、すこし有頂天だった。有頂天なのは勉強ができたからだけじゃないって、もう知っている。

「すごい……安室さんって頭いいんですね」
「いえいえ、お役に立てたのならよかったです」
「これならテストも大丈夫そう……、本当にありがとうございます。んで、私はもう帰ろうと思うんですけど、その……、この手はなんですか」

 ノートや教科書の上を這って解法を教えてくれた指は私の手首に絡み付き、きゅっとしまって離さない。帰り支度のみならず、起立すらできないのでは、帰りようがない。もうすぐ午後八時を半分過ぎてしまう。空腹を訴え続けるお腹は胃壁を溶かしてしまいそうなくらいにきりきりと痛んだ。

「僕としては未成年の女の子にはもう帰ってもらいたいのですが、少し待っていてもらってもいいですか?」

 きゅっと触れる指先がひたすらに体温を注ぎ込んでくる感触。かさついた皮膚が皮膚の薄い部分をさらりと撫でて離れていく。どくりと血が流れ、触られていたところがぼっと熱を帯びた。

「ずっとなにも食べていなかったでしょう」

 解放された手をのろのろと動かして勉強道具一式を片付けてしまったところで甘い香りが濃いものになり、目の前には苺やラズベリーがたくさん乗っかったパンケーキが置かれる。え、と声が出て、安室さんを見上げる。にっこりと笑う、人差し指を唇にあてている。内緒で、とでも言うように。

「注文してないですよ」
「まあ、サービスなんで」
「……マスターに怒られちゃいますよ」
「そのときは僕の給料が減るだけでしょうね」
「ええ、だめじゃないですか」
「おや、さんは甘いものが苦手でしたっけ? いつも甘めの紅茶を注文しているので、平気だと思っていました」
「苦手じゃないですけど」

 安室さんにごちそうしてもらうのは嬉しいんだけど、お小遣いがあまり多くない私がこんな立派な品を出されると気後れしてしまうのも本当で、易々と胃袋に収めてしまってもいいのかと悩んでしまう。
 銀色のフォークを握ろうかどうしようか迷っていると、すっと伸びてきた指が強制的に握らせてくるので「ひゃっ……」なんて、女の子みたいな声が出て顔が熱くなる。だって、クラスメイトの男の子はこんなにも触ってこないんだもの!

「かわいいですねえ」
「は、あの、もうやめてください……心臓破裂しそう」
「だめですよ。さんには僕の作ったパンケーキをちゃんと食べてもらわないと」
「うう……」
さんに食べてもらうために一生懸命作ったんですよ。それなのに食べてもらえずに捨ててしまうのはあまりにも不幸だと思いません?」
「わっ、かりました! いただきます、食べ物を粗末にはできませんし!」

 いただきます、と手を合わせてフォークに手を伸ばして最初のひとくちを口にするまでじっと眺められており、味の判別がつくような精神状態ではなかったので。おかわりを注ぎ足されたストレートティは砂糖を入れずに、クリームと苺を黙って味わう。

「それを食べ終えたら家まで車で送ります。ゆっくり食べていてくださいね」

 食べられることに決まったパンケーキの行き先を見定めた安室さんはそう言い残してキッチンの方へと歩いていく。
 どうにも、弄ばれているような、からかわれているような、子ども扱いをされているような関係が抜けないけれど、手作りのパンケーキは甘酸っぱくて可愛らしい味がした。