。学校から送り込まれてきた人間は数日、数週間が経った今でも、以前渡されたいやがらせのように分厚い課題をこなしたかどうかを確認するだけだった。てっきり教室へと連行されるのかとどこかひやひやしていたのだけれど、彼女がやってくるのはきまって夕方だったし、それも学校の話題はそれほど多くない。僕と彼女が会話をする頻度よりも、僕と僕のおばあちゃんが会話をする頻度の方が多かった。
二週間前に初めて来た。それから一週間経って、また来た。一昨日も来た。昨日も、今日も。
「黒子くん見て。鶴が折れるようになりました」
自慢げに胸を張ったさんの手には、赤色の鶴がちょこんと乗っていた。僕の提案通り、おばあちゃんに折り紙を習ったらしい。しかし、ノートに書き付けられた数式の上に置かれると邪魔なことこの上ない。
「あの、いま何しているように見えますか」
「黒子くんが今日までの課題を今更になってやっているように見える。あ、そこ違うよ」
「どこですか」
「二行目、足し算のとこ。これ、ほんとうは今日先生に出さなくちゃいけなかったのに」
「忘れてたんじゃ仕方ないです」
「なにげに開き直るの早いよね!」
「そんなことよりもきみは受験勉強しなくていいんですか」
「うん。私、成績いいから」
「うわ」
「黒子くんもうわとか言うんだ」
「引いたんです」
「えへへ」
「照れる必要なんかないので大いに恥じてください」
実際、さんは勉強がよくできた。折り紙をしながら、ノートに連ねられた数式の間違いを指摘する。それほど時間をかけずに、だ。数式だけではなく国語の読みとりもすらすらと出来るし、英単語をたくさん記憶している。成績が良いというのは嘘ではないのだろう。教室で会話を交わしたことはあまりなかったけれど、彼女がここまで勉強のできる人間だとは知らなかった。授業で当てられたときに「わかりません」と言った回数だってそれなりにあったように記憶している。定期テストでの彼女の順位は、そこまで上位だったろうか。さんの能力を目の当たりにした今は、自分の薄ぼんやりとした曖昧な記憶に首を捻って疑問を投げかけるしかない。
記憶が正しくても正しくなくても、僕は無償の家庭教師に勉強を教えられてもらえているので、結果的に幸運なのだろう。
「鶴、折りすぎじゃないですか」
「いいの。がんばって千羽鶴折るの」
とりつかれたように夢中になって鶴を折る真剣な姿から目を逸らし、今日までの課題を今日の夕方に終わらせた。いまから学校へ運びにいっても教師は大方帰っているだろう。終わりましたよ、と声をかけるとぱっと顔をあげて、自分のことでもないのに嬉しそうに笑うものだから胸のあたりがくすぐったくなった。さんは小さい子どものようにテーブルの上を折り紙で散らかし、悪気のない笑顔を振りまいている。しゅん、と脱力だ。
「よしよし、よく出来ました」
「……なんですかそれ」
「こんなにたくさんなのに、終わってびっくり」
「さんがやれって言うから」
「だって先生が持ってこいって」
「じゃあ必ず先生に渡してくださいね。きちんとやりましたので」
「うん。頼まれました」
言うなり、立ち上がるものだから驚かざるを得ない。夕方がはじまってからどれだけも経っていない。たしかに彼女は僕の課題が完了するのを待っていたのではあるが、それにしてもとっとと帰るものがあるだろうか。
自分でも不可解なことに、さんが帰るのを引きとめたい思いがどこからか湧いてきたのだから胃がぐるぐるして気持ち悪い。彼女の存在をあてにしているつもりは一つもなかったのだが、どうして、なんで。
「……っ、あの!」
座った状態で腰を浮かすといった中途半端な姿勢のまま、僕はさんの制服の裾を握っていた。なんだこれは。こんな行動は、いつも通りじゃない。
「ど、どうしたの、大きな声出すなんて珍しいね」
笑っているのに戸惑っているような、そんな繊細な表情をするそっちこそ珍しい。こんな顔をさせているのは、紛れもなく僕なのだろう。決して取り消せない。
「……鶴……」
自分でも驚くくらい掠れた声が出た。
「鶴?」
「……折り方、汚いです」
「えっ、き、汚い!?」
どこが、どうして、そうかな、と慌ただしく声をあげて折り進めていた鶴を点検する姿に罪悪感が湧いた。
「もっと習った方がいいんじゃないですか」
さすがに、拗ねたような声は彼女にも伝わってしまったみたいだ。さんは勘が鋭い。
「……うん、そうさせてもらおうかな」
引き留めるためだけに放った言葉についてはなにも言わず、すぐに笑ってすとんと腰を下ろすから首から上が熱くなった。わざとこちらを見ないのだろう。鶴を折り直しているさんはぶつぶつとひとりごとを言っている。そして、ひとりごとがひとりごとじゃなくなった瞬間はいつだったか覚えていない。いつの間にか、彼女ははっきりと僕へ向けて言葉を連ねていた。
「私、成績がいいって言ったでしょ」
「……自慢ですか」
さんは僕の言葉に苦笑するので、どきりとした。
「最初はあんまり成績よくなかったの。というか、ほとんどビリみたいなもので、何回も補習を受けてて。でもどうしてもしたいことができて、それをするには勉強ができなくちゃいけなくて、いっぱい勉強したの。寝る間も惜しむってああいうことを言うんだね。勉強なんて好きじゃなかったから辛くて蕁麻疹できそうで嫌になって泣いたりもしたんだけど、必死にやってたらいつの間にか問題が解けるようになってたんだよね」
小さな折り紙で折った鶴は、不器用にがたがたとしていたけれど、きちんと鶴だった。
「いまって受験のときだし、まあ、私みたいなのが授業で正解したり、定期試験で良い点を取ると……ほら、むずかしいの。正解するのが正解じゃないこともあるんだって、知らなかったなあ」
とびきり不器用な人間なのだろう。きっと手を抜くことを知らない。ぜんぶそのままで生きているから、簡単に転んで怪我をする。馬鹿だなあと思う。もっと上手に生きればいいのにと思う。なんでそんな簡単なこともわからないんだとさえ思う。だけどどうやったってさんはさんで、さんのしたいことは他のだれかがなにかを言ったところで、はいそうですか、とやめられることじゃないのだろう。
「さんは馬鹿だなあ」あ、声に出た。
「うん。そうかも」
「でも、僕はそれなりに楽しませてもらってるんですけど」
「……え?」
「勉強なんて、高校に入学できる程度にできればいいから羨ましくもなんともないし、学校に行かないからさんがどんなふうに言われているのかわからないから、おとなしく勉強を教えられてあげようと思っているんです」
顔をあげたさんの頬は淡く色づいていた。なんだか目が泣いているように見えたけれど、零れていなかったから悲しいのかどうかはわからない。折り紙を折る手を止めて、僕をじいっと見ている。穴が開きそうだ。
「私、まだ勉強教えないといけないの?」
どこか飄々としていて、むずかしい問題など抱えていないように見えた女の子は、きちんと同じ歳の女の子で、やや不満げに拗ねた声をあげるから可笑しくなる。鶴を折るのが苦手で、飛行機を折るのが得意な折り紙部の部長はきっとどこか遠いところに行くのだろう。それなら、それまで付き合ってくれてもいいだろう。
「きみはここに来るたび、おばあちゃんに食べ物を貰っているし、折り紙を教わってます。代金だと思えば安いもんだと思うのですが」
「そう……だけど」
美味しいから、断れなくてともごもご言っているので、可愛いなあと思う。これは絶対、口に出さない。
「耳を揃えて支払ってもらいます」
暖房であたためられた部屋に小さな声が響かずにぷかぷかと浮かんでいった。