扉を開くと、茨の革靴がお行儀よく並んでいた。数週間前に「しばらく忙しくなる」と言われたが、私の想像よりもずっと忙しかったようで、一緒に住むこの家に帰ってくることも少なかった。だから、茨の靴を目にするのはとても懐かしく、まじまじと見つめてしまう。

 廊下とリビングを隔てる扉の隙間から、光が漏れ出ている。茨が私よりも先に帰ることは珍しいが近頃は何日も帰ってきていなかったので、相当疲れてやっと帰ってこられたというところだと思う。
 その証拠に茨は着替えもせず、めがねも外さずにソファで腕を組んでうたた寝をしていた。不在のあいだ、リビングも寝室もできるだけ綺麗に保っていたのは、いつ帰ってきてもいいようにと思ってのことなのだから、きちんとベッドで眠ればいいのに。

「おかえりなさい」

 小さく呟いて、ネクタイをほどき、ローテーブルの上に置いた。次に、めがねに手をかける。

「いたずらですか?」

 私の手首を握る手はほんのりとあたたかい。咎める声はぼんやりとしていて、瞳にはまだ眠気が滲んでいる。

「めがねが痛むかもしれないって思って。親切心だよ」

 やわく握ってくる手をそのままにして、めがねを外した。さほど本気で抵抗しようと思ったわけではないらしく、ネクタイの隣にめがねを置いても、叱られはしなかった。
 目の下にうっすらと疲労の隈を作った茨の隣に腰掛ける。こちらを見つめる目にはいつもの鋭さも快活さもなく、頼りなくて、幼さだけが棲んでいた。

「もう寝ちゃう? お腹が空いていたら、簡単に作るけど。お茶漬けとか、なんでも」
「……あなたは」
「私は、ふつうにご飯食べようと思うけど」
は、自分に会えなくて寂しかったですか?」

 私の話が耳に入っていないのか、わざとなのか、茨は投げかけられた質問をすべて無視して、質問を返してくる。ぎっと鈍い音がして、開いた口が完全に停止した。驚きのせいで、表情もそのまま凝固してしまう。
 ひとつの家で生活を始めて、それなり経つ。茨が帰ってこない日は、帰ってくる日よりも多いだろう。そのなかのどの日だって、寂しいとか寂しくないとか、そういう話をしたことはなかった。
 もちろん寂しくないと言ったら嘘になる。ふたり用のベッドは広すぎるから、寝つきが悪い夜はたくさんあった。受け入れたんじゃなくて、考えないようにすることに慣れただけなんだろう。茨の方から寂しかったかと訊かれたらどうしようもなくなるくらいには、寂しいと思っていたのだから。

「……言わない」

 口にしたところで茨と会える日が増えるものでもないので、そう言って誤魔化して押し黙ると、茨は私と目を合わせたまま口元をゆるめて小さく笑った。

「……俺は、寂しかったですよ」
「え……」

 もっと驚いて、茨に「本当にそうなの?」と聞き返す。悪いですか、と不満げに言いつつもこちらを見据える目は真剣だった。
 ぐっと身を乗り出して茨の綺麗な頬に手を添える。かすれた声で「寂しかった」と言った男の人はどこからどう見ても茨だ。

「私に会いたかったって言われてるみたい」
「そういう意味ですよ。説明しないとわかりませんか」

 口が裂けても私に弱音を吐かなそうな茨の本音は心臓に悪い。いくつもの夜を凝縮した私の重たい「寂しい」よりも透き通っているだろうそれになんて返したらいいのかわからず、艶のある紫がかかった赤髪を撫でて動揺を隠した。

「しかも、子どもみたい」

 目を細める茨はとても眠たそうで、早く着替えてベッドでゆっくりと眠ってほしいのに、文句も言わずに頭を撫でられている可愛らしい姿をなるべく長く見ていたいと思う。

「甘やかしてくれるなら子どもでもなんでもいいです」
「……いつもそれくらい素直だったらいいのに」
「あなたこそ。ベッドに行く前に、さっさと言ったらどうですか」

 眠気をたくさん含んだ目に、本音を言うように促される。澄ました声で熱に蓋をした茨は、あたたかい指先で私の髪を掬う。ぐっと詰まった喉に触れると、体がどくどくと音を立てていることに気がついた。