男の声が知らない駅名を告げる。浅い眠りからさめて顔を上げ、ふと路線図を見上げると目的地までまだ遠いということに気づいた。思わず濁ったため息が出た。携帯電話の電池はとうになくなり、真っ暗な画面はかたい沈黙を守っている。さしっぱなしのイヤフォンからはノイズ混じりの歌声が静かに流れ、鼓膜をひたひたと揺らす。心地のいい音楽だと思った。音が割れているのは、素人の録音だからだ。

 ずっずっと引きずるような音が鳴る。
 ノイズがだんだんと大きくなっていく。
 肉声が、他でもない俺の声がかき消されていく。
 気味が悪い。

 気がつけば車両に人間のひとりもおらず、駅をいくつか通過していった。照明が落とされ、窓の外の橙色は黒色に侵され始めている。人間が死んでしまいそうな、深淵にある夕焼けだった。

「おまえはだめだよ」

 男とも女ともつかない、低く鈍い擦れた声が脳を容赦なく削り取った。それっきりイヤフォンからはなんの音も聞こえなくなり、電車のなかは生暖かい悪意に満たされた。
 そうか、俺はだめなのか。
 他人事のようにつぶやき、どんよりとした臭気から逃げるように瞼をおろした。
 わかっている、解っている。……ほんとうに?





 というのはすべて悪い夢でしかなく、俺は電車になんか乗っておらず、そもそも外出すらしていない。
 不名誉なことではあるが昨晩から体調が芳しくなく、顔色が相当悪かったのだろうか、両親に欠席するように言いつけられ、自室のベッドでぼんやりと天井を眺めている。加湿器がこぽこぽと音を立てている。枕元に置いておいた携帯電話を手に取ると夢とは違って電源は落ちておらず、メッセージアプリにいくつかの通知が入っているのを確認して、柄にもなくほっとした。
 ただ、ユニットのメンバーやクラスメイトからの優しい言葉に応酬する気力は底を尽きていたので、簡潔に明日は登校できる旨を伝えてから、その薄っぺらな機械を再度枕元に放った。

 携帯電話が電話の着信を知らせたのはもう一眠りしようと目を瞑ったすぐあとのことであったので、なんなの、と毒づきながら画面を確かめるとよく見知った名前が表示されていたので指がするりと応答ボタンをタップしてしまう。

「泉、具合悪いんだっておばさんに聞いたよ。いまからお見舞いに行くからピンポン鳴らしたらすぐに出てね、絶対だよ」
「はあ?」

 反論する暇もなく、言いたいことを言ったら通話を断ち切ってしまった相手というのは、生まれたときからの幼馴染であるである。

「泉、来たよ!」

 電話を切ってから一分もしないうちにインターフォンを鳴らした彼女は溌剌としており、毒気を抜かれてしまう。

「……早すぎでしょ、なんなの」
「だってお向かいさんだもん。あがってもいい? いまひとりなんでしょ」
ちゃん。学校はどうしたの」
「もう放課後だよ。泉、ずっと寝てたの? 時間の感覚なくなっちゃってるよ」

 丸一日惰眠を貪ったのはいつぶりだろう。髪はあっちこっちに飛び跳ねているし、着ているものは生地がくったりと疲れてしまった寝巻きだ。こんな姿、だれにも見せられない。この子以外のだれにも、見せたくない。
 俺の格好を意に介さず、彼女は‍俺の横を通り抜けてキッチンに向かう。料理のできないこの子が俺のために食事を用意するはずなどなかったが、コンビニで買ってきたらしいカットフルーツの中身をわざわざ透明な器にうつして差し出してくる。具合が悪いときいつも食べてたよね、と笑う。だって、あんたは料理ができないし、果物を切るのも下手くそなんだから、それしかできないんじゃないか。
 たったこれだけのことだ。これだけのことがひどく大きくて嬉しい。

「ほんっと、ちゃんがばかでよかった」

 ソファに身体を埋めた俺のおでこに熱冷ましの冷却シートを貼っていた手がぴくりと痙攣する。見上げれば、彼女はひどいことを言われたときにするように眉をつりあげていた。

「いきなりなんなの、ひどい」
「褒めたんだけどぉ? ちゃんが俺のことなんとも思わないでくれるから、こうやって情けない姿見せられるんだからねぇ」

 ちいさい頃からふさぎ込むたびに果物と看病の道具を持ち込んで現れる女の子は、俺がどんないきさつで一日中眠っているのか知っているのだろうか。

「よくわかんないけど……」

 手をつけられる気配のない器から一切れのりんごをつまみ上げ、俺の口元に持ってくる。女の子にここまでさせているのだからと口を開き、酸味のあるそれを咀嚼する。なんの変哲もない、ただのりんごだ。

「なんとも思ってなくなんかないよ。泉のこといつも頑張っててえらいなあって思ってるよ」
「なんか上から目線だねえ」
「ひねくれたこと言わないの。りんごおいしい?」
「普通」
「なんかこうしてると私たち恋人っぽくない?」
「ぽくない」
「照れんなよ」
「うっざいねぇ」
「あ、そうだ、おかゆとか作ってあげようか」
ちゃん、料理なんてできないでしょ。いいよ、また寝るから」
「ほんとよく寝るねえ……。ソファでいいの?」
「うたた寝するだけだから」

 ごろんと横になった俺をしげしげと見つめてくる二つの目は、むかしと変わらず純粋な色をしている。鏡の前で並んでみたら、俺のそれとどれくらいの違いがあるのだろう。
 注がれる視線が強くて痛い。「帰んないの」とそれとなく帰宅をうながしてみるが「心配で来たんだってば」と跳ね返されてしまった。本腰を入れて看病に取り組むらしい。べつに風邪をひいたわけではないのだが。

「泉ってばいつもちゃんと体調管理しているのに、たまにものすごく疲れちゃったとき、一日中寝ちゃうでしょ。そういうときって変な夢とか見ちゃってるんでしょ。ひとりだったらさみしいよ」

 眠気に流されかけていた思考がふわりと引き戻され、目を薄く開いた。幼馴染の女の子は鼻歌なんてうたって、愉快そうに俺の前髪を撫でつけている。
 おかしな姿を見せ続けてきた。それこそ家族以外の人間には見せないような側面だ。弱みをさらけ出している俺は、彼女の前では虚勢を有効にできない。だけど心の内側にべったりとくっついている弱い部分をわざわざ口に出して説明したことはなかった。だからいつも悪夢のなかでうろうろしていることや、それでも体が睡眠を求めてしまうことは一度も打ち明けていない。
 鈍いようで鋭いきみは朗らかな笑顔の下に聡明さを備えている。

「今日はね、というかいつもだけど、私は泉のことをなぐさめに来たんだから遠慮なんていらないよ。とりあえずよしよししたげよっか」
「……いい、いらない」
「ええ、つまんなぁい……」

 無作法にもお見舞いの品であったはずのカットフルーツをもぐもぐと食べている幼馴染の女の子はきっとずっとまえから気の利く子だったのだろう。気遣いを気遣いだと悟られないように相手にいろんなものを与える術を持っている、賢い子だ。もしかしたらおかゆくらいの料理だって、簡単にできてしまうのかもしれない。
 きっとそうだろう。そうだ、だから、俺は彼女の前では弱い姿を見せられる。なぜなら、彼女を心の底から信頼しているからだ。

「いまはいいから、あとでしてよ。そのつもりで来たんでしょ」

 なんてことだ。羞恥にまみれた心情は肌を赤く染め上げてしまい、額に貼られた冷却シートの存在感が一気におおきくなる。
 ごろんと寝返りをうち、彼女の視線から逃れるように背を向けた。こんな恥ずかしいことはそうそうない。こんなおねだりみたいなこと、死んでもしたくなかったというのに。

「いいよ。いっぱいしてあげる! じゃあいまは添い寝でもしてあげようかなあ」
「俺のことなぐさめる準備してなよ……」





 窓の外の黒色が、黄色を帯びた光線に照らされはじめた。広い空がだんだんと開けていく。わずかに開かれた窓の隙間から柔らかい風が入り込んで髪をやさしく撫でつける。
 うららかな空気のなか、向かいの席であなたが微笑んでいる。