目を覚ましたら、部屋の中はまだ真っ暗だった。裸足のまま冷たい床の上を歩き、窓のそばに寄る。大きな月が、青白く街を照らしている。日本では見られない色をしている風景のことを、画だけ見ると、その恐ろしさに蓋をして、綺麗だと思う。

 そっと部屋の扉を開いた。そこには誰にもおらず、しんと静まり返っている。日本で住んでいた家とは比べようもないくらいに広い廊下と、高い天井。ずらりと並んだ扉たち。そして、どこからか漂ってくる爽やかな花の匂い。どれもが、慣れ親しんでいた日常とかけ離れているものだった。


「そこに誰かいるのか?」
「え!? え、えっと、あの、悪いことはしてないですよ」

 まだ慣れない屋内をあてもなく恐る恐る歩いていたところで、突然背後から声をかけられてびくりと飛び上がった。薄い寝巻きの裾をぎゅっと握りしめて振り返る。

「その声、賢者様か? こんな夜更けにどうしたんです」

 昼間のかっちりとした装いとは打って変わって、部屋でリラックスするためのラフな格好をしているカインは、やはり私のことが見えていないようだったので足早に駆け寄って腕にそっと触れる。すると、「ああ、やっぱりだ」と頬を綻ばせた。

「なんだか目が覚めちゃって……。カインこそどうしたんですか?」
「俺はこれから眠るところだよ。そしたら、迷子みたいな足音が聞こえてきたから、気になったんだ。いきなり声かけて、驚かせちまったか?」

 部屋の中にまで聞こえるほど大きな足音だったろうか。カインが元騎士団長で、アーサーや他の要人の警護をしなければならなかったから、五感が研ぎ澄まされているのだろうと思いたい。
 ふるふると首を横に振ると、そうか?、と首を傾げる。花の香りに混ざって、カインからはコーヒーの香りがした。

「ちょっとだけ散歩してから、部屋に戻ります。カイン、おやすみなさい」
「散歩? いや、それはよしておいたほうがいいんじゃないか」

 踵を返して歩き出そうとしたところで、手首を握られ、引き止められる。カインは基本的に距離が近いし、接触に躊躇いがない。最初はいちいちびっくりしたり照れたりしたけれど、毎日のように触れられるし、そもそも、傷のせいで触れないことにはカインは私を目にうつすことができないから、いつの間にか慣れてしまったのだ。
 散歩とはいっても、ひとりで外をうろつくほどの度胸なんてないので、廊下を行ったり来たりして、気が済んだらベッドに潜るつもりだった。散歩か、いいな、行ってこいとおおらかに送り出してくれてもよさそうなカインに焦った様子で止められるとは、予想外で驚いてしまう。

「いくら魔法舎の中とはいえ、そんな無防備な格好でうろつくのはよくない。最悪、取って食われるぞ」
「取って食われる? ……まさか。カイン、意外と心配性ですね」
「いいや、は警戒心がなさすぎるから、心配しておいて損はないだろう。さあ、賢者様。部屋まで送りますよ」

 気さくな笑顔を浮かべながらも、賢者様、と呼ぶ声には有無を言わせない響きが含まれており、おとなしく差し出された手を握った。
 カインの大きな手に包まれて、ゆっくりと歩き出す。廊下でやりとりをしている間も、誰も通りかからない。きちんと時間を確かめてはいないが、人気のなさに、立派に真夜中なのだろうと予想する。
 手を握られ、隣を歩く。歩幅の大きなカインは私に合わせてくれているのか、それとも、「心配」してくれているせいなのか、目を離さないように気をつけているような歩き方で、ゆっくりと進んでいく。


「もしかして、悩み事でもあるのか?」

 それなりに徘徊していたようで、それなりに歩いて、ようやく自室にたどり着く。扉の前で、おやすみの挨拶をする前に問いかけられた。
 神妙な問いかけに、すぐさま答えられるだけの言葉を持ち合わせていなかったので、まだ繋がれたままの手に力を入れて押し黙る。

「言いたくないことなら聞かないが、言ってすっきりするなら、話してくれないか?」

 じっと顔を覗き込まれる。黙り込んでしまった私に対して、カインは急かしたりなどせずにどこまでも優しい声をかけてくれた。
 やっぱり、カインからは、どこか苦いコーヒーの匂いがした。

「悩み事というわけじゃ、ないんです。大袈裟なことでもないんですけど」
「ああ」

 腰をかがめ、じっと見つめてくるので、最後まで聞いてくれるという姿勢をとってくれているのだろう。
 この世界にやってきてから毎日のように感じていた薄い不安が幾重にもなり、分厚く、お腹にどっしりと構えているものだから息苦しくて仕方がなかったのだ。それを、この、私の魔法使いは、担ってくれると言うのだ。

「……これまでずっと、目が覚めたら同じ天井だったから、その……まだ、こっちの天井が、見慣れないんです。だから、そわそわしちゃうっていうか……。ごめんなさい。うまく説明できない」

 口に出してみると、やたらと幼稚な悩みに思えた。みんな親切にしてくれるし、衣食住が保障されている。それでもまだ、この部屋に慣れない。つまり、ホームシックのような気分に陥っているというわけだ。
 海外旅行よりもずっと遠い場所だ。食文化や生活環境が違うだけではなく、剣と魔法といった、もとの世界には身近になかったものが、今はある。ここでの生活に置いていかれないよう精一杯で、どうしても心が落ち着かない。

「……そうか、そうだよな。だったら、明日も明後日も、俺がを起こしに行こう」
「え? いや、……なんで?」

 打ち明け話を真剣に聞いてくれたカインは、納得したようにうなずき、一つの提案をしてくれる。私を起こしにきてくれるという、予想だにしなかった提案である。
 ぽかんとしてしまった私をよそに、カインはいかにも名案だというふうに明るく笑っている。

「朝起きて不安になったら、俺が話を聞こう。平気だったら、それはそれでいい。それに、毎朝俺の顔を見れば、嫌でも慣れるだろ?」
「毎朝、来てくれるんですか?」
「そりゃあ、どうしても行けない日もあるだろうから、毎日とはいかないだろうなあ。でも、できるだけ毎朝ご挨拶させていただきますよ」

 カインは、二人の繋いだ手を持ち上げて、目を伏せて微笑む。こんな顔を見せられたら、さっきまでの憂鬱がどこかにいってしまいそうだ。そのかわりにやってきた気恥ずかしさは、カインが頭を撫でてくるからさらに強くなる。騎士としての振る舞いというより、子ども扱いをする兄のようで複雑な気分にさせられはするけれど。おそらく、カインは私よりもずっと年上だろう。

「……ありがとうございます。じゃあ、明日からよろしくお願いします」
「いいえ、お安い御用だ。あんたの望むことならなんでもして差し上げますので、他にもなにかあったら遠慮なく言ってください」

 薄暗い廊下でもわかるほどくっきりと笑うカインを直視できず、寝ましょうか、と誘ってくる優しい声に、視線をそらしたまま「……はい」と、小さな声で返事をした。