「賢者様。隣に座ってもいい?」

 誰もいない談話室でゆっくりと本を読んでいたら声をかけられて、顔を上げる。同じ姿勢を保ち続けていたせいで、動かした首が少しだけ痛い。苦い顔をした私に首を傾げるフィガロに、いいですよ、とすぐに返事をして、大人が一人分座れるスペースを空ける。ゆったりと上品な仕草で座ったフィガロは、にこにこと笑ったままこちらに目を向けてくる。ふわりと、甘い香りが漂って、次は私が首を傾げる。この人からはこんな匂いがしただろうか。

「俺があげた絵本、読めるようになった?」
「……うーん、まだ、あんまり読めないです」
「賢者様は勉強熱心だから、すぐ読めるようになると思うよ。あんまり焦らないで学ぶといい。さあ、一休みしようか」

 甘い匂いの正体は、薄ピンク色の紙袋だった。促されるまま中を覗き込むと小さくて可愛いカップケーキがいくつか入っている。色とりどりのデコレーションが施されており、海外のお菓子みたいにカラフルだ。小さくて可愛らしいお菓子と、フィガロの顔を見比べる。

「え? フィガロが買ってきてくれたんですか?」

 あまりにも可愛すぎるものだから、驚いて思わずあたりまえのことを尋ねてしまう。
 私の問いかけにそっと目を細めたフィガロは、ふうん、と声を漏らしながら顎に手を当てた。

「俺がお土産買ってくるのが意外なんだ」

 せっかくお土産を持ってきてくれた人は私の反応が気に入らなかった様子で声を低め、どことなく雲行きが怪しくなったように感じる。布が擦れる音と共に、フィガロが間合いを詰めて、私をソファの隅に追いやった。

「賢者様にはいつも優しくしてあげているのに、俺ってお土産の一つも買ってきてくれないような男に見えるんだ」
「そんなこと言ってないですよ……。フィガロ、怒ってますか?」
「ううん、怒ってないよ。これっぽっちも」
「……怒ってますよね。あの、お礼を言うのが遅くなってごめんなさい」

 私はとんでもない間違いを犯したらしい。いつも穏やかなフィガロを、こんなふうに機嫌を損ねさせてしまったのは初めてで、どう対応すればいいのかわからず、徐々に焦りが生まれてくる。
 ついに顔を逸らされた。あちらを向いてしまったフィガロに、いやな冷や汗が出てくる。肩がくっつきそうな距離が解除されないことだけが幸いで、迷いつつも腕に触れる。

「フィ……フィガロ? ねえ……、ごめんね、ごめんなさい」
「……い」
「え? なんて言ったんですか?」
「本当にかわいいね、賢者様」
「は?」

 笑顔にうっすらと浮かんでいた機嫌の悪さは鳴りを潜め、くつくつと小さく笑い声を上げており、心の底から楽しそうにしている。もしかして、落ち込んだ姿を見せたのは、わざと?

「ああ、ごめんね。あたふたしている賢者様が可愛くて」

 仕返しのつもりかわからないが、真剣に反省しているところをからかわれるとさすがにむっとする。

「……そんなことを言うフィガロは、意地悪です」
「意地悪だったら、きみはどうするの?」
「フィガロのことを嫌いになっちゃうかもしれません」
「ふうん……」

 フィガロを真似て、顔をフィガロとは反対側に向ける。そろそろ他の誰かが談話室に入ってきて二人だけの空気をぶち壊してほしいのに、天気のいい昼下がりなので、よく談話室に集まる魔法使いたちはだいたい外に出かけているらしい。
 結局、ひとりでこの人をどうにかしないといけないのだが、魔法も使えない私にできるのは、ソファの隅に体を押し付けてフィガロから距離をとるように努めることくらいしかない。

「俺のことを嫌いになるなんて、だめだよ」

 私が一生懸命離れたできた距離は一瞬でなかったことにされる。低い声が耳に吹き込まれてぞくりとする。

「……嫌いになったら、フィガロはどうするんですか?」
「うーん。泣いちゃうかも」
「嘘ですよね」
「ほんとう」

 後ろ髪を撫でられながら、嘘なのか本当なのかわからない言葉を何度も噛み締める。フィガロが買ってきてくれたお土産の中身を一つ取り出した。一口で食べてしまえそうなサイズのそれからは甘い甘い香りがする。可愛い、美味しそう。何個もあるそれを、フィガロはどんな顔をして選んでくれたのだろう。

「フィガロ」
「なに?」
「お土産ありがとうございます」

 首を回して、おずおずとフィガロを見据える。お菓子の甘い匂いがよく似合う優しい笑みは、今日初めての安心をくれた。

「どういたしまして」
「これ、食べてもいいですか?」
「いいよ。でもその前に、俺に食べさせてよ」
「……え?」
「お返しに、賢者様が俺に食べさせて」

 形のいい唇をうっすら開き、嫌味なくらいに長く綺麗な指先をそこに当てる。あーんして食べさせてほしいとねだる大人の魔法使いは、すっかりとにこにこしっ放しで読めないと思う。

「……こどもみたい」
「大人だよ」

 そういうことを言っているんじゃないのだけれど。はやく、と急かしてくる大人の魔法使いは一歩も引く気がないようだ。ここで根比べしているうちにこの恥ずかしい状況を誰かに見られるのを避けるために、可愛くて小さいお菓子を指先で摘んで、楽しそうに笑うフィガロの無防備な口元に持っていった。