静かな午後に、ベッドに横たわってぎゅっと強く目を瞑る。そうすると、どんよりと昏い空が見えなくなる。
読まないといけないものと、書かないといけないものがいくつかあった。期限というものはないが、なるべく早めに済ませないといけないものだ。塞いだ視界はそれらを否応無しに認識させてくる。
体力が足りないのだろうか。今日は手足をうまく動かせないが、このままだらだらしているわけにもいかない。やらなければならない事柄を頭の中に描き、勢いをつけて体を起こしたとき、ちょうど扉をノックされて驚いてしまい、ベッドから落っこちた。
「なんだ、今の音。賢者さん、入るぞ?」
「は、はい」
入ると言いながらもきっちりと私の返事を待ってから扉を開いたネロは、床で膝をつく私を見て目を丸くした。
「あんた、なにしてんだ」
言いながら早足で駆け寄ってきたネロに引き起こされ、膝が鈍く痛んだ。痛みになぜか泣きそうになり、ぐっと唇を噛んで堪える。
服の下の皮膚を確かめたが傷はなく、だけどあざくらいにはなるかもしれないとぼんやり考える。どこか他人事のように自分の身体を見ていると、ネロのため息がつむじに降りかかった。「……なにしてんだ」と繰り返し言われるが、声が喉にへばりついていてなにも言えない。
「ちゃんと食べないからふらつくんじゃねえの」
「そんなことはない……、です」
「はは。声が小さいぞ、賢者さん」
ネロは木で編まれたバスケットを届けるためにわざわざ部屋に来てくれたらしい。バスケットの中身はサンドイッチと小さな魔法瓶だった。ひとまずテーブルにバスケットを置いたネロは、魔法瓶を私に握らせる。硬くつるんとした表面のそれはじんわりと温かった。
朝食と昼食を完食せず、食べ盛りの他の魔法使いにこっそりと食べてもらったことを見抜かれていたのだろう。指摘されて気まずい思いを抱くのは罪悪感を抱いているからだ。ついでにネロの機嫌はあまり良くないようで、おそらくそれは私のせいだ。
「嫌じゃなかったらそれを食べてくれよ。今じゃなくてもいい」
「ありがとうございます。あとでいただきますね」
まるで食欲はなかったが、せっかく作ってきてくれたものを「いらない」と伝える勇気はない。じっと見つめてくるネロがどんな思いを抱いているのか推測するのはとても怖いことだと思い、思考を散らすように魔法瓶の蓋を開けて口をつける。甘くて優しいミルクの味がした。
「おいしいです」
「そりゃよかった」
素直な感想はネロの溜飲を下げたのか、琥珀色の目が緩んだ。そして相手との距離感に慎重な彼らしくなく、ベッドに座る私の正面まで椅子を引き寄せてゆっくりと腰掛けた。しばらく部屋を出ていく気はないらしい。
「もし、腹が痛いとかあんなら早めに診てもらったほうがいい。あんたは……ほら、変なところで我慢するだろ」
「……そうなんですか?」
「しかも無自覚だ。たちが悪ィ」
「ご、ごめんなさい」
「……いや、あんたが謝ることじゃない。言い方を間違えた。俺は、あんたが我慢しすぎてぶっ倒れちまったらって思うと心配なんだよ」
ほとんど空っぽのお腹に温かいミルクが収まる。ネロが心配するほどだ。ちゃんと食べられていない自覚はあったが、顔色もあまりよくないのかもしれない。気をつけないとという考えこそがネロの眉間に皺を刻むに違いない。
「賢者さん。……」
名を呼ばれて、いつの間にか俯けていた顔を上げる。
「ネロ、私の名前……」
「あー……」
ネロは視線を泳がせて頬を搔き、唇を薄く開いたり閉じたりしている。手の中にある中身を失った魔法瓶をぎゅっと握りしめる。
心配してくれていたのだろう。キッチンの中で、コンロの前で、そして私の部屋の外で。
今もそうだ。わざわざ部屋に来てくれて、珍しく自ら椅子に座ったネロは、項垂れて視線を逸らしても腰を浮かそうとはせずに、じっと私の声に耳を傾けてくれている。
「私が、心配させちゃってるんですね」
「……ああ」
「ごめんなさい」
「だから、謝んなくていいって」
「……はい。ありがとうございます」
お腹が温まったおかげでほっとしたのか、自然と頬がゆるむ。まばたきをしたら目尻から魔法瓶よりも熱いものが落っこちていった。溢れたものが涙だと気づいたのは、ネロが転んだ私を見たときよりも更に目を丸くして距離を詰めてきたからだ。
名前を呼ばれたかもしれないが、うまく聞き取れなかった。抱きしめられるときの布擦れの音がそれを邪魔した。頭を抱きこまれて、額がネロの胸にくっつく。何度か謝られて、ネロこそ謝らなくていいのにと言いたいがやっぱり肝心なときに私の声は出ない。かわりに、ネロの背中に手を回す。するとさらに強く抱きしめられてとうとう胸が詰まった。
「っ、ネロ、おねがいがあります」
「いいよ。泣かせちまったお詫びだ」
丁寧に背中を撫でてくれる手が心地いい。目を瞑るとネロの声と手しか感じなくなって、ひどく安心した。
「ネロにシュガーを作ってほしいです」
「シュガー?」
「ネロのシュガーなら食べられると思うんです。だめですか?」
そっと肩を押されて身体同士が離れる。泣いたせいで目が熱く、頭がぼんやりする。もしかしたら本当に体調が悪いのかもしれない。熱を持った視界にいるネロは困ったように笑い、指の腹で目尻の涙を拭い取ってくれた。
「《アドノディス・オムニス》」
人差し指と親指で摘まれた小さくて繊細なシュガーは直接口元に運ばれた。顎に指をかけられ、口を開く。唇をかすめて舌の上に乗ったシュガーはミルクのように甘く、すぐに溶けていった。
「……美味しいです、ネロのシュガー」
「それなら、いくつか作っておくよ」
「いいんですか?」
「いいよ。シュガーだけでも食べてくれるならひとまず安心だ」
知恵熱でも出ているのか、頭がきちんと動かない。机の上にある仕事も今はこなせない。でも今はしょうがない。どうしようもなくぐずぐずになった私を心配してくれる人がいることを、ネロが教えてくれた。
追加で作ったシュガーを綺麗な布の上に置いたネロはもう一度私を抱き込み、背中をぽんぽんと叩く。
「あんまり我慢しないでくれよ、」
はい、と返事をしたらまた目頭が熱を帯びた。これ以上話すと声が震えてしまいそうだったので、固く口を閉じる。こうして抱きしめられてもらっているときが一番嬉しいと伝えたら笑われてしまうだろうか。笑わないでいてくれたらいいなと自己本位に願いながら、ネロの胸に耳をくっつけたままやんわりと目を閉じた。