ごう、と大きな鉄のかたまりが飛び立つ音はひっきりなしだ。真夏らしい外気温の割には空気が乾燥していて息がしやすい。室内はちょっとだけ肌寒い。半袖の外国人がたくさんいる中で、こそこそとパーカーを羽織る。きっとちゃんと帰国できるから大丈夫よ、とにっこり笑って送り出してくれた奔放な母親の言葉を疑ったのは保安検査の最中に英語でなにやら捲し立てられたときで、どうにか検査を通過して白いつやつやとした床を踏んでからはより強く感じていた。
搭乗ゲートがどこにあるのかわからない。
「ここ、どこ……?」
入るターミナルを間違えてしまったのだろうか。私を日本に連れていってくれるはずの航空チケットに記された搭乗ゲートの番号は、ターミナルを二周しても見つからない。日本行きの直行便だから飛行機に乗れさえすればスムーズに帰国できるとインターネットにも書いてあったし、海外生活の長い母親も言っていた。母親の奔放さを少しくらいは受け継いている私は「そうかもしれない」と信じ込んで日系の航空会社を選ばなかったのだが、それは大きな間違いだったと思わざるをえない。免税店の店員は外国人ばかりで、言葉は通じないであろう。訊ねる相手がいなかった。搭乗ゲートがなければ日本に帰れない。
「え、ええ、ええっと……? 地図は……?」
ふらつく足取りで大きな看板を見つめる。航空券に書かれている搭乗ゲートの番号を探しても、どこにもない。空港を間違えてしまったのだろうか。そうしたら、私はどうすれば帰国できるのだろう。
「日本行きの飛行機は、あっちのターミナル。ここからだと、シャトルバスに乗るんだ」
大きなボストンバッグを抱えて途方に暮れ、丸めた背中にかけられたのは、間延びした日本語だ。こんな異国の地で、心の中だけでこぼした問いを拾ってもらえるとは思わず、驚きにぎゅっとボストンバッグを抱きしめる。
「え。……あ、ありがとうございます」
振り返ってお礼を言うと、身長の高い男の人がこちらを見下ろしている。健康的な肌色の日本人である彼は、人のいい笑顔でこちらを見ている。大きなリュックと、ラフな格好。旅慣れている雰囲気だ。
「きみは一人なのかあ? お父さんとか、お母さんは?」
「父は日本で、母がこっちに住んでいて……。日本に里帰りしていた母と来たけど帰るのはひとりなんです」
「そうかそうか。それなら、一緒に移動しよう」
ほとんど半べそをかいていた私と視線を合わせるように腰をかがめ、顔を覗き込んでくる。大人びた顔立ちに似合う緑色の目は、ぞっとするほど深い。
大学生くらいの年齢だろうか。余計な荷物がひとつもないところからすれば、バックパッカーかもしれない。どちらにせよ、歳上なのは確かだろう。
三毛縞と名乗った彼に連れられ、二人で分かりづらい場所にあったシャトルバス乗り場からバスに乗り、ターミナルを移動する。日本行きの飛行機はすべてそのターミナルから発つことになっているらしく、そこかしこから聞き慣れた日本語が聞こえてきてほっとした。
ひとりだったらすぐに搭乗ゲートのそばで出発時刻を待っていただろうけれど、三毛縞さんはなぜかずっとそばにいてくれたものだから、観光客らしくお土産屋でチョコレートを買った。
飛行機が発つのを待つまでのあいだ、ぽつぽつと話をした。そこで知ったのは信じられないくらいの偶然だった。同じ飛行機に乗るのだということと、座席がどうやら隣同士であること。なによりも優った偶然だと思う。
「私、実は、英語ってちっともわかんないんです。だから搭乗ゲートがどこにあるのかわからないのに誰にも聞けなくて困ってたので、助かりました」
「そうだろうなあ。まあでも、さんがかなり困っている顔をしていたから、助けたほうがいいのかなあと思ったんだ」
「そ、そんな顔してた?」
「していた。ほら、そろそろ離陸だからシートベルトを締めなさい」
「あ、はい」
空調が効きすぎている客室内で、アメニティのブランケットをお腹まで引き上げる。離陸してしばらくしてからあったかいお茶を飲んでまどろむ。次に目を覚ました頃には食事の時間だったようで、早口で話しかけてくるキャビンアテンダントの言葉がわからず、もたもたと答えに窮していると、かわりにすばやく機内食を注文してくれた。ターミナルで「日本食が恋しい」と言ったのを覚えてくれていたのか、三毛縞さんが頼んでくれたのは日本食の、釜飯だった。
「肉が良かったのなら、俺のと交換しよう」
「ううん、これがいい。これがよかったの。ありがとう」
食事を終えたあと、ブランケットに包まってすぐに眠った。あんなに緊張していたのに簡単に眠れてしまった。
気流の影響でがたんと機体が揺れる。浅い眠りから引き上げられ、薄く目を開けば、モニターのひかりに照らされた三毛縞さんの顔がそこにあった。空調は相変わらず効きすぎているというのに、頬は人肌に触れているように温かい。完全に寄りかかったまま眠っていたようだ。それなのに三毛縞さんはなんにも言わずに、私の好きなようにさせてくれていたらしい。
そっと画面を見ると英語の字幕が表示された洋画が流れている。小さな男の子たちがグラウンドで野球をやっている。なんという題名の映画だろう。
「……私、ずっと寄りかかってた? ごめんなさい」
周囲の人たちを起こさないようにこっそりと耳打ちをする。すると真剣そのものであった表情はすぐに様変わりし、にっこりと笑顔になった。
「いや、軽かったから気にならなかった」
寄りかかられて居心地がいいはずもない。しかし、初対面の人間に寄りかかって優しい眠りについてしまうほど、私が安心しているのは確かだ。
ふと見下ろした自分の体には二枚ブランケットがかけられており、それが三毛縞さんがしてくれたことだとわかると、フライト時間がもっと長くなればいいのにと思ってしまう。
安らかな時間をできるだけ長く知覚していたいという願望は、重たげな眠気の前では弱々しい。三毛縞さんの隣だからか、やたらとすんなりやってくる眠気に身を任せ、着陸まで眠っていた。もちろん、体を三毛縞さんに預けて。
「そうだ。ここで逢ったのも何かの縁だろうし」
日本に到着して眠気が抜けないまま色々な手続きを終わらせる。同じ飛行機に居合わせた外国人たちはたくさんの日本人に紛れていなくなっていた。帰国した感動が薄いのは、ずっととなりにいてくれた人のおかげなのだ。帰国に関わるすべてをお世話になったから、なにかお礼をしたくてそれとなく連絡先を訊いてみたものの、そうだなあ、と考え込んでから、リュックを開いた。
「さんにこれをあげよう」
手渡されたチケットには一ヶ月後の日付が書かれている。特別招待券、と太字で書かれたそれは光沢のある用紙だ。ガラス窓から差し込むひかりにかざすと虹色にきらめく。長方形のそれが案内する場所のことを、私は薄っすらと知っている。
「……夢ノ咲学院?」
それって確か、高校だったような気がする。
「えっ、み、三毛縞さん、高校生なの?」
「んん? 言ってなかったかなあ?」
まったく聞いていない。夏休み中に世界中を旅しているバックパッカーの大学生だろうと思い込んでいた。あんなに流暢に英語を話せるのだから、同じ高校生だとは思いたくなかった。私はちっとも話せないというのに、この人は外国人とのコミュニケーションが完璧だなんて、自分のちっぽけさが際立つ。
それに加え、次に三毛縞さんの口から出たのはさらにびっくりさせるような、三毛縞さんが何者であるかの証明だった。
「俺はその学院でアイドルなんてものをやっているから、会いにきてくれると嬉しいなあ。まあ、気が向けばの話だが。俺の連絡先は、さんの気が変わっていなければ、そのときにまた聞いてほしい」
ひらひらと手を振り、ターミナルの外へと出ていく。自動ドアとともに吹き込んできたむわっとした暑気をたっぷり顔に浴びる。はくはくと不器用な息をする私の手の中、夏の半ばに渡されたチケットの行方は、いったいどこなのだろう。