※病院について捏造があります。
幼いころに地域ののど自慢大会で優勝をしたときの思い出は、白黒でもセピアでもなく、鮮やかな色をもっていまでも思い出せるのに。
喉に病気を抱え、手術をし、奇跡的に声帯を摘出することなく生きてこの世の景色を拝めたのはもうすっかりと冬の気配が街に降り立って落ち着ききってしまった時節で、入院をしてからろくに外出をさせてもらえなかった身としては、いまが冬である実感が湧かなかったりする。冬……冬かあ。こうして不具合のない体を手に入れるまでに、随分と時間がかかったものだ。
手術後の経過観察と、リハビリの計画はすぐに立ち、紙面が示すには二月になる前には退院できるであろうとのことであった。
両親が手を叩いて喜んでいる様子を薄い膜越しに眺める。実感がないとはこういうことなのだろう。私がぼんやりしていても、じっと佇んでいても、誰かが代わる代わるやってきて生命の維持に関係のあることや、それがなくてもさして困らない身の回りの細々としたことをこなしてくれて、きっと私はいつの間にか外に出られる。白を基調とした清潔ないのちを象徴する場所じゃなくて、もっと雑然とした世間へ。
私を守ってくれている病院から、私を守ってはくれない外の世界に出るのが、怖い、なんて。
「さん」
入院病棟へ続く渡り廊下の窓に額をくっつけてどれだけの時間が経ったのか、私の名を呼ぶ声には夢から醒めさせようとする強制力があり、はっとした気持ちで呼ばれた方向へと視線を投げる。
キャラメル色のコートは雨にすら濡れたことがないような出で立ちで彼の身を守っている。
「夢ノ咲の子だよね。たしか、声楽科のさん。まさかきみが僕のかかりつけ病院に入院しているとはね……。すこし時間ができたから見舞おうかと思ったら病室がもぬけの殻だったから捜したよ。だめじゃないか、こんなところにいては体が冷えてしまうよ」
まるで身内であるかのような気軽さで私の肩にブランケットを引っかけ、さあさあ病室に戻ろうかとその柔らかくて儚い布で覆われた背中を押すものだから、この十数年をかけて私を形成していた常識という名前のついた土台が崩れようとしている。
夢ノ咲学院、アイドル科に在籍する天祥院英智は知り合いですらなかったと思うのだけど、そこらへんの記憶を手術の間に落っことしてきてしまったのだろうか?
しかし天祥院さんの手つきには迷いはない。人を間違えているのではないのだろう。なぜなら彼ははっきりと私の名前、それもフルネームを間違えずに言い切ったのだし、色素の薄い髪の間から覗くやわらかな瞳は私しか映していない。極めつけに、彼はまっすぐと私の病室へと戻ってこられてそれもまた私を驚かせる。動機付けは不明だが、私を捜していたという言葉には偽りはないのだろう。
「……天祥院さん、ここまで送ってくださりありがとうございます」
術後の影響で声が掠れてしまっているのは、もう隠しようがない。渡り廊下からここまで世間話をふっかけられても黙りを決め込んでいた私がようやく出した声に、天祥院さんが驚きに染まった表情を見せたのも、この目ではっきりと確認をした。それならば、どうしようもない。聞かれてしまったのだ。雪の降らない寒い冬の気配が空調で整えられた空間まで脅かしているかのようで足の先を寒気が襲う。
「私、この通りの声で、きっともう声楽科はやめなきゃいけなくなると思います。天祥院さんは、アイドル科で関係ないことかもしれないけど。……だからどうってわけでもないけど、そういうことです。最後に会えてよかったです」
さようならに続くはずの声は悲しいくらいに掠れていたから、これ以上の発声はやめてしまいたかった。喉を撫でる。皮膚で覆われているそこはつるりとした感触だけで、病気になる前となんら変わりはないのに、私の知らぬ間に中身がまるっと変わってしまったらしい。
添えたところでどうにかなるわけでもあるまいに、天祥院さんのどこか不思議さすら感じられる雰囲気が私のせいで人間味のある驚きに支配されている様子を見たくなくて、そこにあてた手はそのままに、うつむいて埃ひとつすら見当たらない清潔なリノリウムを凝視する。
「……やめたいのなら、やめればいい。だけど、僕はきみの歌が好きだし、きみが僕の愛するあの学院に戻ってくることを望んでいる」
「は……あ、あいする?」
とんでもなく熱烈な愛の言葉を聞いてしまい、このときばかりは喉を思いやっていた手をはずして顔を持ち上げてしまう。ばっちりと目があうと、天祥院さんは私の喉を撫でる。微笑んでいるくせに蠱惑的ですらあるその手つき。うぶ毛の一本一本が緊張で逆立った。
「私の歌、聞いたことあるんですか?」
「うん、ある。はどこででも口ずさんでいたからね」
うわあ……。耳たぶが熱くなった。
「……恥ずかしいです」
「なんでだい? とてもいい歌だったのに。できたら、これからも僕のために歌ってくれればと思う」
「あっ……あなたのために? な、なんで?」
「さっきも言っただろう? ただ、僕が、気に入ったから。それだけだよ」
私の喉を撫でていた冷たいとも温かいとも言いがたい温度をもった指を握り込んで拳をつくり、それをふるふると振る。くるくる、弧を描く。楽しそうに動かされる手は私の目の前で開かれて、その中にあるのは一粒の飴玉だった。
「のど飴をあげる。望むのなら、きっと、明日も明後日も持ってきてあげる。そうしたらきみは僕の前で歌えるようになる。ねえ、そうなるのだとしたら、僕はとても嬉しいのだけれど」
完璧に人間らしい照れたような顔つきで私に飴玉を握らせたその人は、皇帝だとかなんとかいう仰々しい二つ名に似つかわしくないささやかな手品を、明日も明後日も、その先も見せてくれるのだろう。
過ぎ去った景色に色を付けられる瞬間はこんな近くにあったらしい。