最近は仕事が立て込んでいた。学生が終わる日に、忙しくてもなるべく一緒に過ごそうと二人で決めた。その約束は、少しずつ守られなくなっていった。
「ごめん。しばらく、家に行けないと思う」
そう言えば、は泣きそうに顔をくしゃりと歪めて、押し黙ってしまった。
頭からベッドに飛び込み目を瞑ると、数日分の解消されなかった疲労がどっと押し寄せて、指一本動かせなくなる。体が重い。最後に丸一日休んだのはいつだったか、努力しなければ思い出せそうにない。悪いことに、明後日の休日までこの状態は続くのだ。
疲れてどうしようもないとき、がいてくれたらいいのにと思う。同時に、がいたら必要以上に甘えてしまいそうで、がいなくてよかったのかもしれないと思う。のことばかり考えてしまう自分は、いやに女々しくて居た堪れない。
「……」
「はぁい、ま〜くん。お疲れだねえ」
俺の言葉を拾ったのはではなく凛月で、やたらと上機嫌な様子で俺の顔を覗き込んでいる。その手にプリンを持ち、行儀の悪いことに、立ち食いをしながら移動している。
「歩きながら食うなよ」
咎めれば、悪びれない返事をしてから遠慮なくベッドに腰掛けてくる。一人用のベッドは二人の成人男性の体重のせいでぎしりと軋んだ。
寮を出てだいぶ経つが、今日のような夜遅くまで事務所に用があるような日はちょうどいい寝床になるので、つい自宅に帰らず、楽を求めて学院に通っていた頃から世話になっていたこのベッドを使ってしまう。
「ま〜くん。今日ものおうちに行かないの?」
「行きたくても行けないだろ……。こんな夜遅くに」
やがて日付が変わる。眠っていてもおかしくない時間帯だ。の家に上がり込み、寝ているところを起こしてしまうのは、どうにもかわいそうな気がする。に「気にしないでいいのに」と言ってもらっても、不規則な生活を送る俺に合わせてしまうのは申し訳ない。
「ふうん……。がだめって言ったの?」
「いや、あいつはそんなこと言わねえよ」
「じゃあ行けばいいのに」
「できないって……。なんかおまえ、今日はやけに拘るな」
「そう? がま〜くんに会いたそうだったから、の味方をしてあげてるだけだよ」
まるでの心情を把握しているかのような言い草にむっとして、布団に埋めていた顔を上げて凛月を見遣る。空になったプリンの容器をベッドサイドのテーブルに置いてから、「からの差し入れだよ」と、俺の分らしいプリンを差し出してくる。「真緒」とサインペンで書かれたプラスチックの容器だ。見慣れた文字。俺の名前を書いたのは、他でもないだ。
「……凛月、に会ったのか?」
「会ったよ。ついさっき、駅でうろうろしてたから。危ないよねえ、こんな夜中に」
駅でなにをしていたのかなど気にしている余裕はない。事情はともかく、と会ったばかりの凛月は上機嫌そうだ。俺の機嫌はじわじわと悪い方向に向かっていっているというのに。
そのプリンはが作ったのかと訊けば、そうだと言う。そうか、と体を起こしながら気の抜けた声を出したら、機嫌が悪いのかと尋ねられた。凛月はときどき困るくらいに鋭い。
「別に……。ただ、俺ですらに会えてないのにって思っただけ」
「……ま〜くんってさあ」
「なんだよ」
「めちゃくちゃ嫉妬深いよねえ。自覚ある?」
「はあ? 茶化すなよ」
「茶化してないんだけど」
呆れ顔の凛月は俺の頭を二、三度叩き、ため息をつく。ものすごく馬鹿にされていることはひしひしと伝わってきた。
「そんな顔するくらいなら、ちゃんとお話すればいいのに」
凛月は俺の頬を思う存分こねくり回す。やめろ、と凛月の腕を払うが楽しげな顔に反省の色はひとつも浮かんでいない。
「……どんな顔だよ」
「昔、俺がふざけてに噛み付いたときにしたみたいな顔」
だからどんな、と思わず言いかけて、口を閉ざした。にやけ顔の凛月にペースを持っていかれる気がしたからだ。俺の今の顔は、凛月が言うところの嫉妬深いというやつに関連しているのだろう。
「ねえま〜くん。俺はを帰りの電車に押し込んだけど、今日はすごく悩んでいたみたいだから、たぶん、まだ起きてると思うよ」
歳上らしい落ち着いた声に顔を上げた。凛月は声よりも優しい表情をしている。
着ているものは適当だ。髪だって乱れている。目の下には寝不足による隈があるかもしれない。
どれひとつとして、気にかけている暇はない。凛月の言葉に背中を押されるようにして、寮の部屋を飛び出した。
昔からと一緒にいる。それこそ、可愛いとか好きだとか愛してるだとか、いろんな事情を抜きにして、一緒にいるのが当たり前に感じる年月を共有していた。
正直なところ、親愛とそれ以上の感情との違いはわからない。ただ、一緒に死ぬのなら、がいいと思ったのだ。
俺が走ったからか、が道草を食っていたからか、の家に到着する寸前でを捕まえることができた。
名前を呼び、高校生のときに成長が止まった俺よりも小さい肩に手をかける。何度か夜の道をひとりで歩かないでほしいとお願いしたのに、ほとんど守ってもらえていない。人生において、一人の女の子相手に、こんなに冷や冷やすることはそうないだろう。
「ま、真緒?」
の口に手を当てて黙らせる。強く手を握り、雪崩れ込むように家の中に入る。落ち着きのない仕草でつけた明かりの下で驚きに目をぱちくりさせるが可愛くて、もうどうかしてやりたくなってたまらない。
「真緒……?」
「ごめん、いきなり」
の体を扉に押しつけ、顔を近づける。唇がくっつきかけた寸前、は怯えたように目を揺らめかせて身を縮こまらせた。人のことを言える立場ではないが顔色が悪い。そんなの姿に、会えた嬉しさよりも、心配する気持ちの方が強くなる。
「、なんか元気ない?」
「そ、そんなことないよ」
「そうか?」
慌てて首を横に振るが、やはり顔色が悪いし、どのタイミングで泣いてもおかしくないくらいに瞳が溶けている。気丈に振舞われるとその痛々しさは増長するばかりだ。
「それより、真緒はどうしたの? しばらく会えないって言ってたのに」
「ああ、それなんだけどさ。に話したいことがあって」
「えっ」
凛月が言うには、は俺に会いたがっていたらしい。にそう思ってもらえているのなら、これまで生きてきてよかったと思う。会えたときに喜んでくれるだろうなという期待を持ってしまうほど、自惚れていた部分もある。
だけど、の表情はやけに硬い。そういえば、しばらく会えないと伝えたときから、からの連絡はうんと減り、連絡があったとしてもかなり簡素なものだったとようやく気づく。
「? どうしたんだよ」
「真緒が私に話したいことって……」
「うん?」
とにかく怖がらせてはいけないと、屈んで視線の位置を合わせ繋げる。辛抱強く待ってやるつもりだった。しかし、は想像よりも早く口を開いた。
「……怖い話をするの?」
「怖い話ってなんだよ」
「さよなら、とか」
「なんでそう思ったんだ?」
「……なんででも」
しばらく家に行けないと言った。その前も、夜遅くになる日は約束を果たさなかった。
俺がを遠ざけているのだと勘違いされてもおかしくない条件はおそろしいほど綺麗に揃っている。眠っているを起こしたら悪いと思っていたからだと思っていたそれは、に迷惑がられたら嫌だと思っていた俺の保身だって、含まれていたはずなんだ。
「はそうしたいのか?」
「……やだ。したくない」
どこにも掴まろうとしないの手を俺の腰に回す。そうすると、ゆっくりとだが背中の方に手を滑らせてくるので、とうとう身体同士がぴったりとくっついた。
「うん。俺もだよ」
触れるだけの口付けを落とす。じ、と涙で濡れた瞳に見つめられ、腹が熱を持ち始めた。奥歯を噛み締め衝動を殺し、の肩を押す。身体を離すと、さっき見つけたときと同じく迷子のような顔をされたので、安心させるために頭を撫でた。
「ごめん。電車なくなるから、もう戻らないと」
「……うん」
「。明後日、時間あるか? なかったら、作ってほしい。話したいことは、その日に言う」
「なんで今じゃだめなの?」
「大事な話だから、ゆっくり話したいんだ。怖い話じゃないぞ? 大事な、真面目な話」
いつか、一緒に生きていくために必要な話をにしたいと思っていた。今が、そのときだ。
●
私の存在が真緒の重荷になっていなければ良い。
それが、私の一番の願いごと。
今日は真緒から大事な話をされる日で、その重々しい響きに今すぐ逃げ出してしまいたい思いをぐっとこらえていつもの倍以上の時間を使って食事を作った。
約束は正午すぎ。真緒にとって、久しぶりの休日だという。真緒は時間に遅れることなく家にやってきて、玄関に足を踏み入れるなり、真正面から抱きついてきた。
「だ、抱きつくの……ハマってるの?」
「いや、なんか……。そうじゃないけど」
真緒は私の肩のあたりでもごもごと喋る。体が密着して、どんどん鼓動が速くなっていく。
一昨日、真緒に会えるといいなと駅をうろうろしていたら、凛月に遭った。「ま〜くんを呼んでこようか?」という申し出は断った。凛月は頷いて「も早く帰りなよ」と私を電車に乗せた。
電車を降りてからは早く帰る気になれず、真緒に怒られそうだな、と思いながら、火照ってしまった頭を冷やすように道草を食いながら歩いた。追いかけてきてくれるとは思わなかったから嬉しかったけれど、話があると改まって言われて、怖くなってしまった。真緒になにもしてあげられていない私は、いつお別れをされるのかと、心の隅で恐ろしく思っていたから。
会えない日が続いていたから、一昨日同じように抱きしめられたとはいえ、胸のあたりがむず痒くて落ち着かなくなる。
真緒は私の肩にかかる髪をよけて、首に唇をくっつけてくる。日の高いうちにこんなにも触れてくるのは、ほんとうに珍しい。
「……真緒、ごはん」
「ん……」
軽く腕を叩いて言うと、すんなりと離れていく。身勝手なことに、簡単にやめられると少しだけ寂しい。
手を繋いだまま部屋に入り、時間をかけて作って昼食を二人で食べた。後片付けをして、並んでソファに腰掛ける。
「のごはん、美味しかった」
「ありがとう。夜ご飯はどうする?」
「食べたい。作ってくれるのか?」
「うん。真緒が好きなもの作るよ」
「朝ご飯は?」
「朝? 真緒、今日泊まっていってくれるの?」
なんの予告もされていなかったから、準備をしていない。真緒の荷物も泊まるためのものが入っているとは思えない程度には身軽なもので、私の混乱は増すばかりだ。
「真緒?」
綺麗な緑色の目が揺れている。頬がじんわりと赤く色づき、いつもは活発に上がり気味の眉は、今日は困ったように下がってしまっている。
「の朝ご飯が食べたい」
「うん……? 作るけど、でも」
「でも、今日は帰らないといけないんだ」
「えっ、そうなんだ……。じゃあおにぎりとか持ってく?」
「持ってく」
朝ご飯を食べたいと言いながら、今日は泊まれないなんて、不思議なことを言う。真緒にしては適当な物言いに首を傾げていると、肩に頭を預けてくるものだから、さらに珍しく思う。
恋人同士になってから、それなりに触れてくれるようになった。それでも、手を繋いだり、キスをしたり、最初はなにをするにも「してもいいか」と律儀に確認をとってきた。決して乱暴にはしない。時がたつにつれ許可制度はじわじわと消えていったが、無理やりにはしないし、いつも私を尊重してくれる。気遣ってくれているのだと痛いほどに実感していた。だからたぶん、真緒にわがままを言われたことは、そうそうない。
「真緒、どうしたの」
もっと言ってほしい。してほしいことを、増やしてほしい。お願いごとを全部教えてくれたら、なんでもするのに。
一昨日まではお別れしないといけないのかもしれないと一人で暴走して悲しくなっていたのに、いざ真緒に触られると、ずっと一緒にいたくなる。私ばかりが、わがままになっていく。
「、俺は」
大事な話を切り出される予感に、唇をぐっと噛み締める。顔が強張ってしまう。
姿勢を正した真緒に左手を握られた。頬の色はそのままに、わずかに唇を震わせて出てきた言葉に耳を傾ける。
「忙しくしてるとき、に会いたいって、毎日思ってた。一緒にいることを、あたりまえにしたい」
「……一緒にいることがあたりまえって、今も、そう思ってるよ」
「そうじゃない」
「どういうこと?」
「この先の一生、がいる家に帰ってこられる権利がほしい」
この先の一生、という意味がうまく飲み込めず、ただただ真緒の顔を見つめる。なんで、と問いかける声に涙が混じっていた。
「……それ、ずっと一緒にいてくれるっていう意味に聞こえる」
「そういう意味で言ってるよ。今は、夜遅くなると、どうしても遠慮しちゃうからさ……。ちゃんと、二人の家をひとつにしたい。帰る場所を作りたい」
この部屋を借りたとき、真緒に鍵を渡した。どんなに夜が遅くなっても遠慮なく来てもいいよと言ったのに、真緒が真夜中に突然訪れることはなかった。
私も、真緒の部屋に行くことは少なかった。真緒だけじゃなくて、私も許可なく訪れて迷惑がられたら嫌だと思っていたのだ。それをしなくてもいい約束を、真緒は結びたがっているように聞こえる。勘違いじゃなければ、真緒は、この先ずっと、一緒にいてくれるという意味の言葉を、伝えてくれている。
「真緒、私と一緒にいたいの?」
「うん」
「私でいいの」
「と一緒がいいんだよ」
「そっか……。それが、大事な話?」
「そうだよ。いつかちゃんと言いたいって思ってたからさ」
言えてよかった、と笑った真緒に頬を伝う涙を拭われる。泣き顔を見られたくなくて顔を逸らすと頬を掴まれ顔を強制的に上げられて、長いキスをされた。鼻を抜ける声が恥ずかしいし、顔は涙でぐちゃぐちゃでみっともないし、綺麗でもなんでもない。まだちゃんと返事だってできていない。
「……ぁ、真緒っ」
「ん?」
唇が離れたタイミングで真緒の胸を押し返し、無理やり言葉を挟む。息が上がっているせいで掠れた声が出た。
「真緒……、あの、私」
「なんだ?」
「わ、私……、真緒のことが、好き」
「うん。俺も、が好き」
「私も、真緒と一緒がいい。同じ家に、住みたい」
「……うん」
鼻先に触れるだけのキスを落とした真緒は優しく笑ってまだ涙のあとが残る頬を丁寧に拭ってくれる。ひとりで帰った夜の道よりも、頬が火照っている気がした。
視界がだんだんと鮮明になっていく。ぼうっとした目で真緒を見ていると、ゆっくりと左手を取られた。真緒の体温のあたたかさが他の指をかきわけて、薬指だけに集中する。
「」
真緒が私の名前を呼ぶ。そこにはめられるものから目をそらせず、せっかく綺麗になった視界はすぐにぼやけていってしまったのだった。