やだよ。だってお前、俺よりでかいじゃん。
中学一年生のころ、好きだったひとに言われた言葉が頭の真ん中をうろつくのは、たぶん、夜久先輩のせい。きのうの部活が終わり、駅のホームでうとうとしながら電車を待っていたときに、夜久先輩が私に好きだと言ったせい。夜久先輩の身長が私とほとんど同じせい。……私が好きになったのは、私とそう変わらない背丈のひとであった。
好きだって、言われたんだ。夜久先輩が私のことを好きらしい。声の大きさは普段しゃべるのと同じくらいか、それよりも控えめ。声色は恥ずかしいくらいに切実そうで、おなじ目線の瞳は水っぽかった。心がじんわりと痺れたのを、今朝もしっかりと思い出したの。
「、おはよう」
「お、はよう……ございます」
いつもは居眠りをする朝の電車も、今日は緊張して眠れそうになかった。来ませんように。どうか、同じ車両に乗ることがありませんようにと胸の内側で静かにお祈りをしていたというのに、だれもそれは叶えてくれず、重たそうなバッグを背負った先輩が私の前に立つ。昨日の今日だ、目をあわせられない。
座りますか、と立ち上がって席を譲ろうとするが、いいよ座ってな、と肩を押されてお尻は固い座席に逆戻りする。なにを喋ったらいいのだろうか。いつも、なにを喋っていたんだっけ。一言でも二言でも会話できるのが嬉しかったのに、口は糸で縫われたかのようでちっとも思った通りに動かない。
好きと言ったら、やだよ、と言われた。何百日も前に置いてきたはずの苦い感覚を鮮明に思い出す。自分の指先が冷えていたことも、きちんと思い出せる。先輩が話しかけてくれる言葉の切れ端さえもよく聞こえない。そうして、私の指先はまた冷たくなっていく。
ちゃんと上手に喋らなければ、もう先輩は話しかけてくれなくなってしまうのではないかと、恐ろしくなる。
「、降りんぞ」
鞄を抱きしめて俯いている私の顔が上を向いたのは、先輩が手を引っ張ってきたからだった。その勢いで立ち上がり、人ごみをかきわける体になんとかついていく。人の多さでむっとしている車内からはじき出されてようやく、すとんと息を吐くことができた。
「え、夜久先輩。ここ、降りる駅じゃないです」
「知ってる。だから降りたんだよ」
「……どうして」
「話したいことがあったから」
「話したいこと、って」
「言わなきゃわかんない?」
好きだって言われて、返事は明日まで待ってくださいと言った。私が、そう言った。だから先輩はその答えを待っているのだ。
「答えは、今日の帰りに……」
「いやだ。そんなに待てない」
「そんなこと言わずに、待ってください」
「待たない」
学校に運んでいってくれるはずの電車が線路の上を滑り去っていく。電車が行ったばかりの小さな駅には他にだれもいない。私の目には先輩しか映っていない。譲るつもりなんてひとつもない先輩は、私を逃がさないようにと手首をきゅっと掴んで放さない。
向かい合って立っているのはいやだな。こんなのはいやだ。好きだって言って、いやだって言われて、それを近くにいた人に聞かれて、笑われたことを思い出すのは、いやだ。先輩はやさしいから、そんなこと言わないってわかっているのに。
泣いたら困らせることになるだろうと頭でわかっているのに、考えと体の動きは矛盾するばかりで、目の端っこがどうしようもなく熱くなって爆ぜていく。
「夜久せんぱ、い……。好きです、だいすきです」
「お、おい、。そんな、泣くほどいやなら」
「嘘じゃない、いやじゃないです。本当です」
「本当に?」
「……本当、に。でも私、先輩より大きいから……」
「は……、はあっ!?」
しゃがみ込むと膝が涙で濡れていく。ぐずぐずと鼻を啜る。腕だけで自分を守る。先輩は私の背中をさすってくれるから、優しい。静かになったホームに吹き込む軽やかな風が人ごとのように髪を撫でていく。
「……なんだお前、身長自慢か」
「じっ自慢じゃない。私……先輩より大きいから、先輩に好きだって、い、言えなかったのに、先輩が簡単に言うから….、こまっ困ります!」
「舌噛むぞ」
「うっ、う……」
「吸ってー、吐いてー」
「……先輩」
「はい立って」
見た目よりも強い力に引っ張り上げられる。さっきの流れで身長を気にしているって知っているはずなのに立たせるなんて、夜久先輩は鬼だ。でも涙を拭ってくれるシャツの裾はとても優しかったから、夜久先輩は夜久先輩なんだとあたりまえのことが嬉しくて、また泣けてしまう。
「大きいから好きって言えないって、なんだよそれ。だいたい、よりでかいやつなんかいっぱいいるだろ。言うほどでかくねえよお前」
「……夜久先輩よりは大きいもん」
「んなのミリ単位だろ」
「先輩の成長がここで止まって、私がまた伸びちゃったら……」
「馬鹿にしてんのか」
「馬鹿になんて、してない」
「俺はが好きだって言ってんだよ。これ言うのだってな、簡単じゃないんだよ。いい加減わかれよ」
こりゃ赤くなるな、と言いながらも目の端をこすってくる優しい手。うまく立てない身体を支えてくれる大きな手は時折ぽんぽんと背骨を叩いてくれる。好きだと思う先輩が、私の、私が嫌いなところを好きになってくれたなら、私だって素直になりたいと思うの。私だって、夜久先輩のことが好きなのだから。
先輩のネクタイをぎゅっと握る。そしてぼやけた中にいる先輩をじっと見つめる。体が震えて、なにをするのも怖くて、また泣いてしまいそう。
「……すき、です。夜久先輩が好きです」
両手で耳の後ろをそっと包んでくれる。照れ笑いが目の前にある。
くっつけられた額は少しだけ汗ばんでいるから、くっきりとした思い出のとなりにはっきりと刻み付けられていった。