1.
天国に運ばれたかと思ったの。だって私はついこの間トラックに撥ねられ、不幸なことに若くて未来有望な命を落としたのだから、たくさんの黄色い花の中で目を覚ましたら、ああ私もとうとう成仏したのだなあと、しみじみとした気持ちにもなるというものだ。
「尾瀬… …」
なるほど、ここは尾瀬らしい。観光客の口から尾瀬という地名が何度も出ているし、彼らが持っている観光冊子にきちんとでかでかと尾瀬という地名が書かれてあるのを、仰向けに転がったまま確かめる。なんでこんなところに、家は、宮城はどこ、お父さんとお母さんは私がいなくなった悲しみを乗り越えているだろうか。私のお葬式はもう終わったのだろうか。徹は、泣いただろうか。
水色を白色で限界まで伸ばしたような薄い空を眺めている。観光客の足が私の胸あたりを踏みつけそうになるが、なにもないかのようにすうっとすり抜けた。痛くも痒くもない。体を貫通しているからそりゃあうげってなるけれど、見なければなんともないだろう。私ってば、ちゃんと幽霊になっちゃったんだ。
しばらくはのんびりと尾瀬をまわって見ていた。幽霊の体はそこそこ優秀で、食べなくてもお腹は空かないし、体力がなくなることもない。つまり疲れないようにできているのだけれど、だからやっぱり眠ることもしなくてよかった。途方もなく広い公園を見て回るだけの時間はたくさんあった。朝と昼と夜を何度も繰り返した。はじめは日数を数えていたんだけど、なんだかむなしくなってそれも途中でやめちゃった。知らない人しかいないんだもの。その上ここは知らない土地だ。ぼうっと過ごしていつか来たる成仏の時期を待つのもいいけれど、あまりにも張り合いがない。行かなければ、と強く思う。行かなくちゃ。そろそろ行かないとどこにも行かれなくなってしまう。そんな大変なことになる前にこの軽いのか重いのかわからない不確実な体を起こして、会いにいかないと。いま、すぐに。
+
部屋の扉をノックした。幽霊に、ものに触れる能力が備わっていてほんとうに良かったと思う。神さまありがとう。
「はいはい、なに」
扉を開いて現れた徹の目は信じられないもの(つまりこの世にいないはずの私)を前にかちんと固まる。目だけが動いている。視線で私の頭からつま先までまんべんなくなぞって、息を呑んだ。めちゃくちゃ驚いているみたい。軽い気持ちで扉を叩いたのは間違っていたかもしれない。私の姿を見られる人を前に、喉がぎゅっとなって、息ができなくなる。
「……?」
徹の口から私の名前が滑り出す。名前を呼ばれたことでようやく自分がほんとうにこの世に生きていたんだって実感が湧いてきて、目の辺りが熱くなった気がした。
2.
徹の部屋は散らかっても整理整頓が行き届いてもなかった。部屋の入り口で小さくお辞儀をし、「おじゃまします」と徹の横をすり抜けようとする。私の声もきちんと聞こえたらしい。やっと時間が進みだした徹はとっさに私の腕を握ろうと手を伸ばす。ここ数十日の経験からどうせ触れないんだろうなと高を括っていたが、なんと徹の手は私の二の腕をぎゅっと掴めたのだからまた驚かされる。無理もないけど、徹も驚いている。そうして私たちは筋肉の隅々までちっとも動けなくなった。
「……なに、お前、なんで……」
「まだ、成仏できなくて」
「は?」
「お父さんとお母さんの顔を拝んでからだったらいける気がしたから帰ってきたんだけど、その前に徹の顔も見ておかなきゃって思ったの。こんばんは」
呆気にとられた顔をさせたことなんて、生きているときは一度もできなかった。口をぽかんと開けちゃってちょっとおもしろい。この顔を十年後も見られたらよかったのに。手を伸ばしたら触れられる距離にいるのに、会えなくなるなんて変なの。きっと私は命をなくしたことを少しずつ受け入れはじめていて、そのうちここからさようならをする。
眉間に皺を寄せた徹は人差し指でこめかみを押さえながら長い間考え込んでいるようだった。顔を上げる。もう一度私を見る。腕が軽くなり、掴んでいた手が離れていったのだと気付かされた。
どこへやらに行った徹はしばらく帰ってこなかった。幽霊を見てしまったのでお寺にお祓いでもされにいったのだろうか。徹の心に絶大なトラウマでも植え付けてしまったのなら謝らないと。そのためには徹に会わなくちゃいけないから、なんにしても私はここから動けない。
壁に背中をこすりつけながらずるずると座り込む。なに、してるんだろ。生きているころに手を繋いだり口付けをしたりしたとはいえ、いまの私は紛うことなき幽霊なんだ。どうせお別れのときは必ず来る。それが早いか遅いかってだけで、だれにだって、いつかは会えなくなる。
もっとたくさん美味しいものを食べたかった。テストで百点をとったり、体育祭の競走で一番を穫ったり。行きたい場所もたくさんある。尾瀬だって生きているうちに行きたかった。
縁とゆかりのある土地で好きな人に会っただけで、忘れていた未練を呼び起こしてしまうなんて、ばかみたい。会わなければよかった。あのきれいな花の中で眠っていたままでいたほうがよっぽど幸せだったのに。
「俺の部屋の地縛霊になるのだけはやめてよ」
膝を抱える腕に手が添えられた。いっぱいいっぱいで二の腕を掴まれたときはわからなかったけど、そこにあるはずの熱を感じられないとわかって泣きたくなる。きっと温かいはずの手がそっと顎に添えられて、そっと上に向かされる。走っていたのだろうか。息を弾ませた徹は私の髪を撫でて泣きそうな顔で意地悪く笑う。
「で、なに? 幽霊になっちゃったとか言うの?」
「え……あ、うん。見てわかると思うけど、幽霊になっちゃったみたいで」
「ふうん」
「なんかね、今のところ徹にしか私のこと見えないみたいで、だから、その、え……っと」
どうしよう。なんて言えばいいのだろう。私は、なにをすればいいのだろう。ちゃんとお別れをしたいと思ったから尾瀬から長い道のりを経てここまで来られたのだ。それは言葉を交わすとかじゃなくて、一目顔を見て満足したら行くべきところへ行くつもりだったの。顔を見られるなんて思いもしなかったんだよ。いきなり宙に放り出されて、どうすればいいのかわからなくなる。
「……そう。じゃあ特別にここにいさせてあげようか」
頬を伝う涙を拭ってくれた徹は「変な感じ」とつぶやいて自分の指を眺めている。私が徹の手を触ってもなにも感じられないのと同じく、きっとそこには温度がないのだろう。思い知るともっと泣きたくなって、声あげてしまいそうになるのを必死に抑え、ただただ徹の肩に額を押し付けている。
「でも三日後にだいじな予定があるからさ、二泊までね」
なんでもいいの。そばにいてくれるなら、それだけで。
3.
「いいよ寒いとか感じないし、布団なんかなくても」
「それだと俺がめちゃくちゃ意地悪な自己中男みたいじゃん」
「どうせ私の姿は徹以外の人に見えないじゃん」
「俺の気分がよくないの。いいからこっち来な」
薄い掛け布団をめくり上げてスタンバイをしている徹の押しに負けて、そろそろと隣に潜り込む。こんなのは恥ずかしい事態だ。いままでに一度だってしたことがない。徹の腕に頭を乗せて、体をぴったりとくっつけあう。そうしていると、感じないけれど温かいような気がしてくるから感触というのは不思議なものだと思う。
「とっ……徹は泣いた?」
隣で私の髪を弄っているこの男はどうやらすんなりと眠る気はないらしいし、そもそも私には睡眠なんて必要ないので眠りたくても眠れない。特性的に寝られないから隅っこでじっとしていると何度も言ったのに聞き入れてくれなかった。結局こうしておんなじ布団に入っている私も私なんだけど、こんな夜をひとりでなににも触らずに過ごすのはとても難しいことだったので、ちょうどよかった。照れくさくて言わないけどね、助かったの。自分の恥ずかしさを誤摩化すために意地悪なことを訊いてごめんね。
「それはあれが起きたときのこと?」
あれとは、事故のことだろう。私は頷いて答える。
「……泣いてないよ」
「っえ!? な、泣いてくれなかったの……?」
「うん。泣くと思ったし、泣きそうになるんだけど泣けなかった。三ヶ月経った今でも泣けない。なんでだろうね」
よもやこんな素直に打ち明けられるとは思わなかったから、扉の向こうにいたほうけ顔の徹と同じ表情をしてみる。間抜け顔、とからかう声が叩いたら折れてしまいそうに聞こえたのは、私の耳が都合良く聞き取ったからなんだろうか。徹がいつまでも私を忘れずに引きずられっぱなしになって、外に出られないくらいさみしがってくれているといいななんて、そんな酷いことを心の底から祈っている。早く忘れて幸せになってくれるといいだなんて願えるはずがない。でもいつかは願わなきゃならないんだ。尾瀬から旅をしている間に幾度となく決心したでしょう。いまさら意思を曲げるなんて幽霊が廃ってしまう。
「……三ヶ月も、経ってたんだね」
「そうだよ。知らなかったんだ」
「時間経つの、速いのか遅いのかよくわからなくて。徹はまだバレーボールやっているの?」
「やめるわけないじゃん」
「そう、だよね」
日常に戻りつつある徹はどこか別人のように見えて、そばにいるのに哀しくなる。そしたら私はどうすれば満足するのだろう。成仏の仕方なんて全然思いつかなかった。できるとも思えなかった。このままじゃどこにも行けないんじゃないかと、背筋を蝕む真っ黒い恐怖に体が痺れて苦しくなる。目をぎゅっと瞑って出来る限り大きい体に熱のない自分を押し付けた。するとなにを思ったのか、徹は「いいこいいこ」と小さな子どもにするように背中をぽんぽんと叩き、へたくそな子守唄まで歌い始めたのだった。
「夜中にひとりで子守唄なんか歌って、お母さんに気が狂ったと思われるよ」
「いいよ。のためなら」
余計に別れづらいことを言うものだからそろそろ困り果ててしまって、どうにもならない。嬉しいけど、手放しでは嬉しがれない。せめて一緒にいる短い間はなるべく泣かないようにしたい。
できることなら最後に楽しい思い出を。徹に明るいさようならを。
4.
目を閉じても、腹式呼吸をしても眠れなかった。いままでは眠れなくて困ったりしなかったし、むしろ夜の時間を安全にそこらじゅうを徘徊するために使えるから幸運程度に思っていたのだけど、この状況はまずい。だって、腕枕なんて!
もしも心臓が正常に存在していたら爆発寸前で眠っている徹にも心音が聞こえていただろう。私は何度も寝返りを打って、まばたきを繰り返して、きれいに伏せられたまつげの本数を数えてみたり、などなど、死力を尽くして果てしない夜を潰していた。幽霊の特権をいかして夜の町を通り魔などに襲われる心配なく探検しようとも思ったけど、徹と一緒にいる時間が短くなるのはもったいない気がしてやめておいた。どうせ二泊三日しかできないんだから、いまは思う存分一緒にいよう。
「血の気ないけど」
目覚めのすっきり顔をした徹に背中を向ける。今日は朝から部活だから、ジャージに着替えるらしい。布が擦れ合う音を聞いているだけでもう疲れてしまう。疲れるはず、ないんだけどな。幽霊の体というのはどこまでも未知だ。
「もともとないもん。幽霊に血の気があったら怖いでしょ」
「べつにあっても怖くないよ。それより着替え終わったんだけど」
「あ、そう?」
男の子の着替えってはやいなあ、と感心しながら振り返ると、上半身になにも身につけていない徹がにこやかに手をひらひらさせていたので、今度こそ昏倒しそうになった。
「ちゃんと真っ赤じゃん」
「なっ……なに……」
「どう? ドキドキした?」
こいつ、私で遊んでいるんじゃないだろうか。熱いはずのない頬に触れてくる手の感触はまだわからないけれど、心臓のあるあたりはどくどくと動いているような気さえした。それくらい驚いたしドキドキもする。
「いいから、服着て……」
再度うしろを向いてやっとのことでそれを言うと、つまんないの、と楽しそうに声をはずませてシャツを着込んでくれたのでほうっと息を吐く。目の前がちかちかして意識がどっかに持っていかれそう。がんばって踏みとどまって、目をつむって堪える。二回も命をなくすのはごめんだった。
「はい、ちゃんと着ました。こっち見ていいよ」
「ほんとうに?」
「ほんとほんと」
「嘘ついたら徹のエロ本でポルターガイストやるけど、いい?」
「えげつないこと思いつくね……。でも残念。エロ本なんかありません」
「ええ……。一冊くらいあるでしょ」
「ない。だいたいいるからそんなもの必要ないよ」
なんかすごいこと言われたぞ。けど、平常心平常心。
「じゃあ私がいなくなったら買う?」
「要らないよ」
そんなことより、と正面にしゃがみ込まれて逃げ場がなくなる。きちんとジャージ姿になった徹は私の両頬を包み、あったかくないけど柔らかいね、と朗らかに笑う。徹の手はあったかくないけどごつごつしていた。
「部屋にいても暇でしょ。部活みにくる?」
「えっ、いいの?」
「試合でもなんでもないけど、それでいいなら連れてってあげるよ」
「行きたい行きたいっ! ぜったい行く!」
飛び上がって喜んでいたら「転ぶよ」と注意されたけれど転んでも痛くもかゆくもないので聞き流すがすぐに肩を掴まれ、はやく行くよ、と引っ張られる。バレーをやっている徹をみるのはいつぶりだろう。少なくとも三ヶ月は見ていない計算になるので、週に一度はこっそりと見に行っていた華の女子高生時代にくらべるとえらい違いだ。浮かれないはずがない。やがて私をたしなめるのをあきらめたのか、徹は手をしっかり握ることで妥協をし、今日はきっと午後からチームに分かれて模擬試合をするということを教えてくれた。
だからさ、見ててほしいんだけど。
「俺、いっぱいサービスエース決めるよ」
5.
徹の家から学校までの道のりにある古いアパートが取り壊され、更地になっていた。建物がひとつなくなるだけでそこは知らない町のように思えて、ちょっとだけ寂しくなってみたり。私がこの世とお別れをしてからその後はアパート一軒どころではなく、いろいろな建物がめまぐるしく変わっていくのだろう。寂しくなっているんだって徹に気付かれないようペースをゆるめず足を動かし、たどり着いた青葉城西高校は三ヶ月前となにも変わらない姿で建っていたから、ほんとうによかった。よっぽど緊張していたらしく、気が抜けて校門でへなへなと崩れ落ちそうになる。昨日から散々揺さぶられているのでどっと疲労感が押し寄せてくる。肉体的ではなく、精神的に。でももちろん生前に通っていた高校に来たのだからイベントはこれだけで終わるはずもなく、徹のジャージの裾を握ってやってきた体育館で見知った顔と出会ったときは思わず大声をあげてしまう。
「岩ちゃん! わあ、変わってない」
「なに言ってんの。変わるわけないじゃん」
おお、しかも私の姿が見えていない。正面切って話しかけたのに反応がないとは、そういうことだ。私の知らない間に岩ちゃんの性格がおかしな方向へと進んでいったせいで無視されたのではないのなら、残念ながら岩ちゃんには私の姿が見えない。現に、徹の私に向けた突っ込みを拾って聞いた岩ちゃんは怪訝な顔で「だれと話してるんだ?」と徹の頭を心配している様子だった。
「でもすこし痩せたかな?」
引き締まったといえばいいのだろうか。これからはぐんぐんと暑くなっていくわけだし、大事な試合も控えているのだろう。ぎゅっと締まった岩ちゃんの腕にそっと手を伸ばすが、まあ、案の定するりと抜けるだけで触れられない。わかってはいたんだけど。見えているのに見てもらえなくて、声も届かず、触れることさえできそうにない。悔しくて何度も手を伸ばす。次はきっとって、何度やっても結果はおんなじなんだけど、すんなりと成仏できないくらい相当にあきらめの悪い私は頭だろうがお腹だろうが足だろうが、とにかく触ってない場所がないくらいに触り尽くそう、と決意をしてがんばっていたんだけど、見るに見かねた徹がついに「嫁入り前の娘が婚約もしてない男の腹に触ろうとするんじゃありません!」と大声を上げ、体育館の空気を凍り付かせたのでこの辺であきらめることにした。
嫁入りって、来世の話をしているのだろうか。気が早いよ徹。それに私も徹と婚約していなかったのにさんざん触ったでしょう。それはいいのか。徹の考えはよくわからない。私が幽霊として徹の住む町にやってきたのにもすぐに納得をしてそばにいてくれるのを許してくれたし、こうなれば素直なのか頑固なのかいまいちわからなくなる。
「及川、お前ほんっとうに頭いかれたのか…?」
「だいじょーぶだいじょーぶ。そこそこいかれてるだけだから。心配ありがと岩ちゃん」
片目を瞑った徹にぐっと引いてみせた岩ちゃんはしばらく言葉を選ぶように視線を泳がせて黙っていたのだけれど、やがて監督のかけ声のする方へ駆けていってしまう。徹も、そう。走り去っていく寸前に「男子更衣室の覗き見とかしちゃだめだよ」なんて言うものだから思わずむっとする。
絶対にそんなことはしない。なぜなら、私にだって徹がいるんだもの。
6.
ここは地学室。ここは職員室。ここは保健室。ここは自習室。そして男子トイレと女子トイレ。トイレに住み込んでトイレットペーパーをからから動かしたらトイレの花子さんになってしまう。
この三ヶ月で発見したのは、私はあまりにも珍しい例外を除いて、生きている人間の目にはうつらない。あまりにも珍しい例外というのは徹がそうなんだけど、三ヶ月の間でさまざまな人の目の前で手を振ったり大声を出したりしたのに反応はまったくなかった。ぜんぶ無視。というより、聞こえないし見えていない。触れない。透き通って、貫通して、体の向こう側にさようならをしてしまう。
椅子をがらがらと引いてそこに座り込む。背中を丸め、頬を机にくっつけると木の湿ったにおいが立ち上ってきた。机とか椅子とか、尾瀬にあったような黄色い花、木道、扉などのもの……そういうものには触れるのだけれど、人間はどうしてもだめだった。だから触ってもいないのにものが落ちるのは幽霊がいたずらをしているからかもしれない。怖い思いをするだろうけど、成仏ができず、成仏の仕方がわからないストレスでやけくそになっている場合もあるだろうから大目にみてあげてほしい。
「こんなとこにいたんだ」
伏せたまま教室の入り口に目を向けると、徹が額の汗を首にひっかけたタオルで拭きながら歩いてくるところだった。
「私が置き勉してった教科書、まだ机の中にあったの。徹が持ち帰ってね」
「俺じゃなくても、自分で持てるじゃん」
「ポルターガイストになって町内が恐怖のどん底になるよ。除霊なんかされたらどうするの」
「……わかったよ」
教科書を取り出してくれる徹は優しい。優しいから、私が頼んだら二泊よりも長くいさせてくれるのだろう。でも……でも、そうしたら苦しくなるのは私も変わりないので、口が裂けても言えっこない。最後まで口が滑りませんように。もっと一緒にいられたらいいなんて、言っちゃだめなんだから。
正面の席に腰を下ろした徹はお弁当を広げて食べ始めるので、どうやら私がここでぼうっとしている間にお昼の休憩時間に入ったらしい。うわあ、いったいどれくらいここにいたのだろう。筋トレの見学に早々と飽きてしまった私は、学校内の徘徊を楽しんでいた。土曜日とはいえいろんな部活が練習に打ち込んでいて、まあまあ、がんばっていて微笑ましく思えたり。
「ていうか、なんですぐに見学やめちゃうの。せっかく連れてきてあげたのに」
「徹の見せ場は午後からでしょ」
「筋トレすら格好いいのが及川さんなのに」
「なにそればかみたい……」
「どうしたの。落ち込んでる?」
「……わかるの?」
「のことならなんでもわかるよ」
ばかみたいな言葉を迷いなく吐き出した、徹は空になった弁当箱を片付け終えると髪を指に絡めて遊んでいる。言い出すのを待ってくれているらしい。知らないよ。こんなに優しくして、ほんとうに徹の部屋の地縛霊になっちゃっても、私のせいじゃないんだから。落ち込んでいるのはここからいなくなりたくないって、それが一番強いんだけど、これを言ったらおしまいになる。それはいけない。絶対にしてはいけないこと。迷って、唇を湿らせて、朝の風景を巻き戻した。
「……岩ちゃんが私のこと見てくれない」
「え、岩ちゃん?」
「あんなに仲良しだったのに!」
「仲良し? え? それってどういう仲良し?」
「徹には言わない」
「言えないようなあれこれをしたの?」
「妄想しないでよ、ばか」
なんにもしなくたって、仲良しだったのだ。尾瀬からここまでの道なりにいた人たちは知らない人だったから見てもらえなくても哀しくなかったけど、親しい人だと途端に哀しくなってしまうのは、しょうがないんだろうなあ。ほんとうに、なんで徹だけなんだろう。そんな考えが伝わったのか、これで察しのいい徹は不満げに口を歪ませ「浮気者」なんて毒づく。う、うわきもの?
「違うよ、なんでそうなるの!」
「はいはいもう休憩時間が終わるから体育館に行くよ、浮気者のちゃん」
「一生、生まれ変わっても、浮気なんてしないもん!」
叫び声は教室いっぱいに広がってはじけたのに、徹以外には聞こえない。唯一聞こえているはずの徹は聞いていないふりをするものだから泣きたくなってしまう。泣かないって決めたのに成仏が近く神経質になっているからなんでもない言い合いでも感情がぐらぐらと揺れて、だめになっちゃう。掴まれている手はどれくらいの強さで握られているのだろうか。ちっとも痛みを感じないからなにもわからない。徹が思っていることの半分より多くのことを、私は知らない。
「おーい、岩ちゃん!」
はっと顔を持ち上げたらボールが飛び交う体育館に到着しており、ウォーミングアップで額に汗を光らせた岩ちゃんは「遅いぞ」と徹を軽く睨む。ごめんごめん、と軽い調子であやまった徹は「今日は一緒に帰れなくなっちゃった」と言う。このふたり、一緒に帰っていたのか。
「にケーキ買ってってやろうと思ってさ」
「えっ! と、徹……なに言ってんの」
ただでさえ疑われている徹の脳がついにMRI検査にかけられてしまうのではないか。こんな発言をかましてただで帰れるとは思えない。ほら見て、岩ちゃんのこの顔! 纏う空気! 目を見開いて、口をぱくぱくさせている。岩ちゃんかわいそう。この時期の供え物にケーキだなんて、すぐに腐っちゃうだろうし。
「……買ってってやるって、は食えねえだろ」
「いいのいいの。こういうのは気持ちが肝心」
徹と同じくらいに察しのいい岩ちゃんは徹をばかにする発言をなにもせず、じゃあ持ってってやれよ、と言ってウォーミングアップに戻る。ね、岩ちゃんはのこと覚えてるでしょ、とさすがに声を落としてこそこそ話をしてくるので頬にぽつぽつと熱が生まれた、と、思う。
「……あとさ、によろしくな」
バレーボールをくるりと回しながら岩ちゃんは言う。どうしよう、今すごく岩ちゃんにハグしたい。
7.
「さ、どうやってここまで来たの?」
徹がそんなことを訊いてきたのは、布団に入ってから。あいかわらず違う布団は敷いてくれないけれど、どうせこれが最後だからいいとしよう。うん、と消えることない羞恥心になんとかして都合をつけて黙っていたのだった。
「今日は俺に合わせて歩いてたけど空飛ぶくらいのことはできるんでしょ?」
「え、できないよ」
「できない?」
「うん。私もできると思ってたんだけどね、できないの」
まず飛ぶという感覚がわからなくて、ジェットコースターのふわりと浮かぶ感覚や、ジャンプをしたときの体が宙に放り出される感覚をもってして飛ぼうとがんばってみたのだけれど、なかなかどうして、うまくいかなかった。なにをしても飛べなかった。幽霊の体は都合のいい部分と都合の悪い部分のどちらも持っていて、感覚的には生きているときとそう変わりない。
「じゃあ電車に乗ってきたんだ?」
「ううん。この体、電車と相性が悪いみたいで乗っていられなかったの。圧力とかかなあ。体が軽すぎるのか、乗っても飛ばされるし。バスも車もだめで、びっくりした」
「だめって……」
だからここまで来るのに三ヶ月もかかったのだ。普段は看板なんか見ない癖に今度ばかりはあの青い看板を何度も確認した。おおよその方向しかわからなかったから自力で歩いてこられるとは夢にも思わなかった。夢が、叶っちゃった。やればなんでもできるらしい。どうにかしようとすれば、どうにかなるものだ。
「ここまでずっと歩いてくるって、なに考えて……」
「でも線路に突き当たってからはけっこう簡単だったよ。辿って歩いてくるだけだから、仙台駅もすぐだったし」
「危ないなあ。轢かれたらどうすんの」
「だいじょうぶだよ。ぶつかったらびっくりするし吹っ飛ぶけど全然痛くないの」
我ながら言ってて切なくなり、物好きものまた腕枕をしてくる徹の腕に意識を集中させる。かちかちと鳴る時計の音が空々しくて居心地が悪く、なにか話さなくては、と思うのになにも思いつかなくて参ってきた。最後の夜、か。明日、お父さんとお母さんにご挨拶をしてから成仏するつもりだから、私はもう徹に会わない。会えない。だからこんな夜はきっと最後なのだ。そう思うと猶予はずいぶん短い時間しかなかったように思える。だって、二泊三日で未練が断ち切れるはずがない。やりたいことがたくさんある。でもいまとなったらそれを羅列するのもいまさらだなあ。
尾瀬、すごくきれいだったよ。旅行で行ってみたかったな。徹とふたりで。
小さなつぶやきはすぐに夜に吸い込まれて、最初からなかったみたいになる。もうお別れが近いのだ。
「……言ってくれたら、迎えに行ったのに。尾瀬でもアメリカでも、どこにでも行ったのに。なんで言ってくれなかったの」
徹の声は湿っぽくて、よく見ればかたちの良い目がむずかしく歪んでいる。
「どうやって言うの? 大きな声で呼んだら聞こえるっていうの?」
「聞こえる」
「嘘。だいたい迎えにきてくれても乗り物に乗れないんだから意味ないよ」
「自転車は?」
「自転車?」
「自転車はまだ試してないんじゃないの」
そりゃあ自分で自転車を漕ぐわけにはいかないし、だれかのものを勝手に使ったら泥棒になってしまうし、荷台に乗るのもはばかられた。
徹は私の腕を持ち、ひどくゆっくりと起こしてくれる。事故のときのままの制服で布団に潜り込むのはうっすらとした背徳感を引き連れていた。寝間着姿の徹は子どもっぽくにっと笑い、私の髪を撫で付ける。
「乗ろっか自転車」
どこにだって行けるよ。
それは魔法の呪文のようですんなりと胸の内側に入り込んできたものだから、こんな夜中に、と母親みたいな小言は喉奥ですうっと消えて、こくこく頷いて了承したのだった。
8.
「とっ徹っとおるっ、はやい、スピード、はやいっ!」
「これ以上遅くしたら夜明けになるよ。それに、ぜんっぜん、速くない、んだけどっ」
ぐん、とベダルにひときわ強い力を込められるとスピードも上がり、比喩でもなんでもなく体が飛んでいきそうになる。景色が背後に流れていくスピードはそれほどでもないのに、徹の体にしがみつくのがこんなにも難しいのはやっぱり私の体がものすごく軽いからなのだろう。だって肉体がないんだから、重いはずがない。のろのろ運転の自転車は夜の町を歩くスピードで抜けていく。ふつうに漕ぐよりも大仕事な自転車ふたり乗りは遠いどこかへ飛んでいくのを防ぐだけで精一杯で、ロマンチックを感じるどころじゃない。
こんな速さじゃどこにも行けやしない。もしかしたら最後に遠出できるのだろうか、と微かな希望を持ったりもしたけど、飛ばされるものは飛ばされるのだ。
長い時間をかけてたどり着いたのはもうとっくに終電の通り過ぎた線路の近くにある小さな公園で、今日の練習と同じくらい息が上がっている徹の背中をさっきされたみたいに撫で付ける。
「もういいよ、徹。こんなにしてくれなくてもいいよ。ふたり乗りしたことなかったし、楽しかったよ。ありがとう」
「……よくない」
引き絞った声に息ができなくなる。サドルに腰をかける徹の背中が小刻みに揺れているのを手のひら越しに感じる。
「よくない、絶対によくない。だいたいなんで俺がここまで……それもこれも、お前がもう二度と会えないみたいなこと言うから」
がばりを顔を上げた徹とまともに視線がぶつかり合い、後ずさりをしようと体を引くが手首を掴まれる。鼻の先が胸あたりに触れてしまいそう。もう二度と会えない。それは前から決まっていたこと。いつかお別れをすることも、これが最後の思い出になることも。
あれが起きたときは呆然とした。突然の事故だったのだ。未練がないわけじゃないし、やりたいことだっていっぱい、そりゃあね、まだ十代なんだもの。でも……でもね、徹が私のために寄り添って眠ってくれて、ばかみたいに軽い私の体を後ろに乗せて自転車を漕いでくれただけで、私はだいぶ嬉しかったんだよ。だからさようならをしなきゃ。明るいさようならを。楽しい思い出をもらったのが私だけじゃないのなら嬉しいな。
「……はやく彼女つくってね。それでいろんなことして、いろんなところに行って、楽しく過ごしてね」
「……どうかな」
「つくらないの?」
つくられたら嫉妬だとかでうまく喜べる気がしないけど、天国のシステムがどうなっているか知らないので要らぬ心配だろう。もしも徹の生活を覗き見できたら困っちゃうな。安らかに元気で生まれ変わりたいのに。どろどろとした感情を持っていたら神さまにいい顔をしてもらえない。
「まあでも俺って格好いいし勉強もできるから相手には困らないよ」
「……そうだね、そうだよね。徹は格好いいもんね」
ねえそんなに驚くことじゃないよ。気恥ずかしくて言えなかっただけで、いままでずうっと思っていたんだから。
「徹は格好いいよ。徹が打ったボールが体育館の床に叩き付けられるとね、すっごい音がして、もうみんなそこを見ちゃうの。すごいなあって、それしか考えられなくなって、ほかのものが見えなくなるの」
「……そんなところ見てたんだ」
「見るよ。今日も見てたよ。だって、大好きなの」
生まれ変わったらもう少し素直に生きてみよう。時間がないのに言いたいことばかり膨らんでいってなにも言えなくなるくらいだったら、一日にひとつでも思ったことを素直に伝えていきたい。私を好きだと言ってくれてありがとう。一緒に帰ってくれてありがとう。勉強を教えたり、教えられたり、手を繋いでくれたり、ぜんぶぜんぶ、すっごくありがとう。
徹の頬を包んで顔を近づける。最後くらい泣いてくれたらいいのに、湿っているだけのそこは橙色の外灯をちらつかせるだけで泣いてはいなかった。
「……待って」
制止の声と、唇と唇の間に滑り込む手のひら。
「ええ、ここで止めるの? お別れのキスなのに……」
「ひとりで言いたいだけ言って帰るなんて許さないよ」
「徹は私に言いたいことがあるの?」
「山ほどある。でもぜんぶ言ってる時間もなさそうだし、ひとつだけ。次からはもっと周りに気をつけて生きた方がいいよ」
それに関してはぐうの音も出ない。はい、と縮こまって返事をすれば、至近距離にある徹の顔がふわりと笑った。なんて優しい顔をするのだろう。だんだん行きにくくなるじゃないの。
「泣かなくてもいいよ、。それに幽霊がいるくらいなんだから、案外キスしたら生き返るかもしれないし」
「そんなの、ありえないよ」
「そうかな」
「うん」
「それは残念だ」
それじゃあどうぞ、と唇を閉じた徹は目も瞑る。とうとう最後まで泣かなかった徹の頬をさっきよりも強く触る。痛いだろうか。なにも言わない徹はされるがまま。生きている徹をまぶたの裏に焼き付けようと何度も目をまばたかせるのに、涙でにじんでよく見えない。手でこするのももどかしく、必死に姿を追いかける。生まれ変わっても迷子にならないように。看板がなくても会えますように、と。
「またね」
唇をくっつける寸前、徹がぽつりとつぶやいたのが、幽霊になった私が聞いた最後の声だった。視界に入り込むきらきらした粒はいつの間にか体を包み込んでいる。渦を巻いて空へと続いているきれいなそれの真ん中でそっと徹の頬を離す。お父さんお母さん、最後のあいさつに行けそうもなくてごめんなさい。そして、さようなら。
エピローグ
生まれ変わったかと思ったの。だって私はつい三ヶ月前にトラックに撥ねられ、不幸なことにみずみずしくて将来多望な命を落とし、好きなひととお別れのキスなんかをしたあとすぐにきらきら光る粒に運ばれて意識を失ったのだから、そうだ私もようやく成仏できたのだなあと、嬉しくも哀しい感傷に浸ってしまうというものだ。
「あ、起きた」
徹が私を覗き込んでいる。意識を取り戻したばかりだからか知らないけど頭がうまく働かない。それに体がやたらと重たい気がする。体が重たい?
「え……なに、徹、まさか私のあとを追って」
「ばーか、そんなことするわけないじゃん」
「だって、そしたら……私」
どこもかしこも白くて清潔なものに囲まれている。手を持ち上げてみると、腕に細い針がささっていて、そこから伸びるチューブの先は点滴の袋へと行き着く。どこか痺れているような手を降ろし、横たわったまま徹以外にはだれもいない部屋を見回す。どう見ても病室のそこは消毒液のにおいに満ちている。開け放たれた窓からは黄色めいた陽光が降り注ぎ、床に光る台形をつくっていた。外から運ばれてくる空気には梅雨のにおいが混じっている。
「徹、びっくりすると思うんだけど、私……生きてるみたい」
「知ってたよ」
「知ってたのっ? な、なんで嘘ついたの」
「嘘なんかついてない、お前が気付かなかっただけだよ。自分が生きているのにも気付かないなんて間抜けも大概にしなよ」
三ヶ月ものあいだ眠っていた体は自分のものじゃないように馴染まない。それにものすごく疲れている。肉体と離れていた期間が長過ぎたのだろうか。それとも、尾瀬から宮城まで歩いたときの疲労が一気に押し寄せたのだろうか、まさかそんな。
「まあ、幽霊になったって信じ込んでいるみたいだったから、俺もさすがに焦ったよ。ほんとうにそうなったのかもしれないって。でも病院に行ったらはまだ寝ているままだったし、医者にあともう少しで目が覚めるかもしれないとも言われたし」
「え……あ、あのとき、病院に行ってたの」
数えてみれば一昨日の出来事になる。扉を開けて私の姿を確認するやいなや、どこかへ走っていった徹は私の安否を確認しにいってくれていたのだ。なんだ、私だけが知らなかったんだ。あともう少しで目が覚めるから徹は泣かなかったのだろうか。ぜんぶぜんぶ、知っていたから。昨日買ってくれたケーキが簡易テーブルに乗っているだとか、散々恥ずかしいことを打ち明けてしまったことだとか、もうぜんぶ、なにもかもで体中の血がわき上がる心地がした。白いシーツで頭のてっぺんまで隠して「教えてくれてもいいじゃん」と掠れた声で不満をぶつける。喉はまだ本調子じゃないらしく、大きな声が出ない。でも、じゅうぶんだった。
「やだよ。さんざん待たせといて、なんで俺が下手に出なきゃなんないの」
「あ、あんなにいろいろ言わせといて……」
「なんだっけ、俺のこと格好いいって思ってたんだっけ」
「うるさい忘れて口が滑ったの!」
「忘れない。俺のこと泣かせといて忘れろなんて、いいご身分だよね」
びっくりして言葉を失う。目だけを覗かせようと、布団をずり下げれば豪快に取り払われ一気に涼しくなる。そしてあのとき、今日の真夜中に私がしたことをされたのでますます声が無くなっていく。くっついた唇はたしかにきちんと温かくて、生き返った温度に目の端から涙が一粒おっこちていった。
「……とおる、泣いたの。泣けないって言ってたのに」
「成仏したみたいに消えていなくなったくせになに言ってんの。あーあ、びっくりした」
「ご、ごめんね、大号泣したんでしょ」
「そうだよ。だからさ、一生かけて責任とってよ」
手を伸ばす。かたい手。ぬるい手。それに手のひらを合わせて指を絡める。そうっと引っ張ると素直に引き寄せられてくれる。今日のなかで一番長く重ねたそれはやわらかくて、どこか恥ずかしくて、きっと眠る前に思い出してしまうのだろう。「どうやって責任とればいいの?」とたずねながら繋いでいない方の手で唇を触っていると、目をうっすらと赤くさせた徹が、そっと笑った。
「そうだなあ。まずは自転車に乗って、花でも見に行こうか」
「うん。約束しようね」