三年前も、今日みたいな蒼天だった。
 
 生き生きとした青い空に、ほとんど枯れたような桜の桃色が寒々しく咲いている。制服のスカートを皺になるほど強く握って、泣きたいのをひたすら我慢しているが泉に向かっていた。スカートの裾から伸びる足に青痣が見えてしまい、泉は苦い唾を飲み下す。

 どこへも行かなくてもいいよ、俺が助けてあげるから。

 言えなかった言葉は呪いのようで、喉を焼き尽くしてしまう。肺が痛かった。呼吸が一定せず、居心地の悪い沈黙が重たくのし掛かっていた。

 あの日、遠くへ行ってしまうになにかを伝えられたなら、に手紙を返すことができたのだろうか。あれから三年経ったいまでもそのことについて考えている。
 




 電車がレールを踏みつぶす音がする。踏切の音が鳴り終わり、黄色と黒の縞模様を纏った棒が天に向かっていった。
 葉桜になりきれなかった桃色の花びらが地面の隅に貼り付いている。縁が茶色くなった花びらがこんもりと積み上げられたその道の端に、は踞っていた。

「……ねえ、あんた」

 泉は鞄を地面に放り出してのとなりに膝をついた。昨晩降った雨がコンクリートに染み込み、泉のズボンを濡らしてしまう。しまった、と顰め面を隠せなかったが、舌打ちは音となることがなかった。いまにも気を失いそうな彼女の心労を増大させたくなかったのだ。
 は膝に押し付けていた顔をゆっくりと持ち上げる。五月晴れの瑞々しい空に似つかわしくない、ねずみ色。なんともひどい顔色だ。

「こんなところでしゃがみ込んでる時間なんてないと思うんだけど。編入初日から遅刻する気?」

 彼女が二本の足で立って歩けるとは夢にも思わなかったが、こちらから助力を申し出る気もなかった。『お願い』をされたのなら助けてやってもいい。に肩を貸してやるだけの体力はあったし、ここで彼女を捨て置いてひとり学院に向かうほど泉は非情ではなかった。

 の弱々しい目が泉を見上げて、すみません、と呟いたかと思えば、ふらつく足腰を自力で持ち上げて歩き出そうとするので、泉は面食らってしまう。そこは『助けて』と乞うところではないのか?

「ちょっと! なに考えてんの」

 慌てて掴んだ腕は己のそれよりもずっと細く、念入りに手入れをされている顔は、大衆の視線を浴びせられることで出来た磨かれた色をしている。
 の噂は編入日の前から行き渡っていた。雑誌やテレビでいやというほど目にした女。それは、という、タレント歌手の名だ。は先月末に活動休止を発表した。
 しかし、泉にとってはそれだけの存在ではない。

「じっとしていればよくなるので、先に行っていてください」
「よくなるようには見えないんだけどねえ……」

 一度は立ち上がったものの、やはり身体の調子はすこぶる悪いらしく、二歩進むのがやっとのようで、すぐに身体を折り畳んで踞ってしまう。もともと肌の色が白いせいで血色の悪さが顕著であった。
 きらびやかなステージで大勢に向けて歌をうたっていたあの眩しい姿のイメージから遠いところにいるこの女の子は、放っておけば学院に行かないつもりなのだろう。頼りない手足を動かして帰路につき、毛布に潜り込んでひとり息を殺すのだろうか。

「……じゃあ選んで。俺に負ぶわれながら学院に行くか、俺に負ぶわれながら駅に行くか」

 後者の場合は、俺の遅刻が確定するけど。
 この言い方はかなり意地悪だっただろうな、と他人事のような感想を抱く。しかし、そうでもしないと臆病に押しつぶされている最中であるはこの場から動こうとしないだろうし、致し方なかったのだ。
 人の通りが少ない場所とはいえ、そして大々的に活動を休止しているとはいえ、顔の売れた女がひとりで踞っているのは危険すぎると判断した泉の考えだった。この世にはびこっているのは善良な人間ばかりではない。拐かされたり、悪戯をされたり、盗撮をされたり、どんな嫌がらせを受けるかわかったものではない。その点でいうとこの女はあまりにも無防備すぎる。

「それ、一択じゃないですか」

 苦々しい声がはっきりとした音を持って泉の鼓膜に到達する。見ると、はしっかりと顔を上げており、やはり苦々しい表情で泉を見上げていた。迷子になって困り果てているようなあどけなさが見え隠れしている。歳はひとつしか変わらないのに、小さな子どもみたいだ。

「わかってるなら俺を困らせないでよね」

 背中に乗っかった薄い身体は目を離すとふっと消えてしまいそうなほどに儚く、同じ生命体だと思えないほどに希薄だった。





 遅刻寸前で学院に駆け込み、しかし泉は教室には向かわずに保健室へと足を向けた。背中で眠るを運ぶためである。
 彼女を背負ったまま引き戸を開くと養護教諭は目を丸くしたが、すぐに安堵の表情を浮かべてお礼まで言われてしまい少々居心地が悪い。べつに、ボランティアでしたわけではないのだ。ただ目の前で踞っていたから、仕方なしに連れてきただけであって、馬鹿丁寧にお礼を言われる筋合いもない。

「いや、良かった。実はは欠席すると思ってたんだ」

 養護教諭の言葉に泉の眉がぴくりと動いた。彼はを『』と呼び捨てたのだ。どのような繋がりか知らないが、随分と親しげである。

「俺はこいつのマネージャーに頼まれて、こいつの編入のことでちょっと口をきいてやっただけだよ」

 と養護教諭の関係性について思索を巡らせたことを見透かされたのか、泉がなにも言わずとも先手を打たれて思わず呻く。苦笑する養護教諭を介さず、興味なんてないけど、と顔をそらしてをベッドまで運んでいった。
 彼女がきちんと息をしているかどうかもわからない。
 睫毛が濡れている。血管の透けたまぶたの下で、彼女はどんな夢を見ているのだろうか。それが悪夢でなければいいのだが。


○ 


 が編入してきてから一週間経った。彼女がどんなふうにこの学院で笑ったり泣いたり、怒ったりしているのか、気にならないといえば嘘になる。それとも、表情を変えずに息を潜めて影を薄めているのだろうか。
 具合を悪くすることで学院を全身で拒絶していたを無理矢理に引き込んだのは自分だ。責任の苦みは充分に味わっていた。だけどが編入した教室を覗きに行くのも憚られ、本当か嘘か判別のつきにくい身勝手な噂で情報を得るのみである。
 二年生のクラスに編入してきたというタレントはある映画監督に枕を働いたとか、実の父親が残した莫大な借金を背負わされているとか、えげつない噂の数々がひとり歩きをしている。どれも吐き気がするような、泉の嫌う、身勝手な噂だ。

「瀬名、泉、先輩……?」

 現在の話題を引き寄せている張本人が泉の教室を覗いている。教室内がざわめき、名を呼ばれた泉は持っていたペンを床に落としてしまった。

ちゃんじゃん」

 注視されてその身をさらに縮こまらせているに一番に向かったのは薫だったが、誰かが腕を強く引っ張るので椅子から数センチ腰を浮かせた不安定な体勢で停止させられる。見れば、泉が怖い顔をして自分の腕を掴んでいるのでぎょっとした。なにをそんなに機嫌を損ねているのだろう。

「あの子、俺を呼んでるでしょ」

 そりゃそうだが、まるで我が物顔で彼女のもとへ行く泉に違和感を覚える。あたかも彼女と言葉を交わすのすら許さないといったような、あけすけな独占欲。

「なに、ちゃんとどんな関係?」
「余計な詮索はしないでよね」

 ぴしゃりと言い切った泉に、薫は肩を竦める。床に落としたペンを机の上に置き、几帳面な彼らしくもなく片付けもそこそこに泉はのもとへ歩んでいった。その歩調がいつもよりも速いということをきっと泉は知らないし、指摘をすればきっと目をつり上げて否定するのだろうが。

「俺になんか用?」

 泉に話しかけられたは安心したように笑った。好奇心の的にされたのだから内心は混乱の渦にあっただろう。さすが芸能人というべきか、心の内のいざこざを押し込めてすっきりとした笑顔を見せる。あのときはあんなにも顔色を悪くしていたというのに。表情の切り替え方は寒気すら覚えるほどに完ぺきだった。

「編入した日のこと、お礼を言わないといけなかったのにずっと言っていなくてごめんなさい。ありがとうございます」
「いいよ別に。それよりもちゃんと学校来てたんだ」
「はい。……ええと、いいえ」
「はあ? どっち?」
「まだちゃんと来れてはいないんですけど……」

 彼女が廊下を歩くだけで、視線が彼女に集まっていく。ひそひそ話の内容は彼女に関する情報が多い。来づらくないわけがなかった。そして、彼女をそのさなかに運んだのは泉なのだった。

「嫌なら来なくてもいいんじゃない? また俺の目の前で倒れられても困るし」
「そうですね。気を付けます」

 きつい言葉をかけられても綺麗な笑顔のまま綺麗なお辞儀をするはやっぱりあの日の印象とは違っており、確かにつくりものであるのだと思わせる。会話を切り上げて踵を返すの腕を咄嗟に掴んでしまった。泉は自分でコントロールできなかった自分の動きに驚き、そして顔をしかめる。の顔から笑顔が消え、戸惑いに塗り替えられるのは悪い気分じゃなかったのだが。

「あんたを負ぶって学院まで来るの、結構大変だったんだけど? 途中で寝るしさあ、俺が言い出したこととはいえ、ありがとうの一言で片付けられるような労苦じゃなかったんだよねぇ。あんたにしてもらいたいことがあるから放課後空けといてくれる?」

 の喉がひくりと鳴る。もはや作り物の笑顔すら形をなくして、おろおろと視線を彷徨わせている。好奇心にかられて聞き耳を立てているクラスメイトたちに聞こえないように、泉はの耳元に口を寄せた。

「放課後、あの踏切まで来て。忘れたら容赦しないから」

 まるで脅し文句のようである。の顔から音を立てて引いていく血の気。かわいそうな、庇護欲をそそられるような気分にさせられる。

「……はい」

 は声の震えを必死に抑えるようにして小さく頷いた。


---


 ろくでもない父親を亡くし、母親とふたりで遠くに引っ越し、その母親が亡くなるまで。から届いていた手紙をいつまでも大切にしまっている。
 
 手紙は時間が経つにつれて減っていった。月に一度だったのが数ヶ月に一度となり、ついに半年来なかった。

 出せなかった手紙が積み重なる。の手紙は歴史の年表くらいに素っ気ないもので、その出来事について彼女がなにを思ってどんな気持ちを育てているのか見当もつかない。
 しかし泉はその淡白な文章に安心をしていた。もし、が一言『つらい』と書いて寄越してきたら、平常心を保てる自信がなかった。ふん縛ってでも芸能界から引きずり出しただろう。必死に努力をしているを平気で踏みにじる自分が容易に想像できて、背筋が寒くなる。
 引っ越してしまうの手を奪えなかった後悔が、手紙を通して蘇ってくる。応援も懺悔もできなかった。迷っているうちに月日は取り返しのつかないくらいに膨れ上がり、とうとう最後の手紙が届く。


「泉のために子守唄をうたってあげようか」

 仕事がうまくいかなかったとき、家族と喧嘩をしたとき。そんなときには必ず泉を見つけ出して、なにも訊かずに隣に腰を下ろし、決まってそう言ったのだった。
 夜の街をただひとりの幼馴染を捜すために走り抜ける。人一倍恐がりのくせに半べそをかいて自分を捜すを見ると、すべてのことがばかばかしく感じてしまう。





 根も葉もない噂の、どこらへんが真実なのか。直接本人から聞いたわけではないのだが。が編入したクラスには遊木真がおり、その遊木真は泉を大いに警戒していたのだが、ひとつだけ有力な情報を聞き出せた。
 はそれなりに腫れ物のように扱われており、それなりに大事にされ、特にあのプロデューサーの転校生とはよく言葉を交わしているらしい。アイドル科はもともと芸能活動として賃金を貰っている学生も在籍しているし、が活動休止中のタレントというだけで総スカンを食らわせるような低俗な環境というわけでも、決して、ない。おそらくのマネージャーはその点を考慮してこの学院にを編入させようと思ったのだろう。

「ふうん、逃げないでちゃんと来たんだ? てっきりすっぽかすのかと思ったけど」
「え、だって瀬名先輩が容赦しないって、え……?」

 さっきも思ったが、の戸惑うような仕草は子どものようで随分と可愛らしい。

「そういうこと。俺に着いてきな」

 海までの道のりで言葉が交わされることはなかった。すれ違った学生に興味に満ちた視線を送られたが、泉ももとくに気に留めなかった。泉はがちゃんと着いてくるか気にしていたし、は泉がどこへ行くのか気にしていたので、他のことに気を回す余裕などなかったのだ。

「せ、瀬名せんぱい……!」

 砂浜に足を取られながら必死に着いてこようとする。そのひたむきさがおもしろくて、つい振り返らずにすたすたと歩いていってしまう自分は、おそろしく意地悪なのだろう。

「待って、待ってください、どこ行くんですか」

 すっきりとした春の海が空の青を吸い込んで生命力に満ちた色を湛えている。
 泉はもうだいぶ機嫌が良かった。それは真と会話ができたからというのもあるのだが、その内容がの学校生活が思ったよりも滞りなく進んでいるからだというところにもある。ひよこのように足を一生懸命動かしているの存在も愛しくて、泉はが編入してきた日からブレザーのポケットに忍ばせている飴玉を手の中で弄んでいる。

「ねえ、なんか歌ってみせてよ」

 足音がひとつ消えた。泉も立ち止まる。は色のない目で泉を眺めている。どうして、と唇が薄く動いた。

「どうしてって、あんたが……が、小さいころに何度も何度も嫌になるくらい俺に歌を歌って聞かせたこと、忘れたとは言わせないよ。はそうやって敬語を使ったり“瀬名先輩”なんて呼んだりして、他人になったふりをしたいんだろうけど、そんなの絶対に許さないから。さっき言ったよねえ? 忘れたら容赦しないって」

 温かい海風が頬に吹き付けられる。どこか、外国の香りがした。

「それ、は……。だって、瀬名先輩が、瀬名先輩は私の……、私が……私が、私が引っ越してから、手紙を出しても、一通だって返事をくれなかったくせに……!」





「お父さんがいなくなって、ほっとしたの」

 はそう言って泣いた。それはが父親を亡くした日のことだった。
 父親の自由気ままな行動に散々苦労させられていた親娘は実に淡々とお骨を納め、お経を聴き、花をたむけ、住みかを新しくした。
ほんのたまに、の足にできた小さな痣が、転んだせいではないことを泉は知っていた。知っていても、なにもできなかった。

 芸能界にスカウトされたこと。身体の弱い母親を養うために、話を受けてみようと考えていること。
 を取り巻く環境の変化を目の当たりにしても、泉はなにも言えなかった。
 
 はそれまでの苦労を相殺するかのように、スカウト以来、仕事に困ることなく生活をし、お金をつくり、そうして脇目も振らずに仕事に打ち込んでいた。
 
 その母親も、つい先日のまだ肌寒い折に亡くなった。これは、泉に宛てられた最後の手紙に書かれていたので、泉もよく知っていた。手紙には夢ノ咲に編入することになる旨も書かれていた。
 だけど、それでも、にかけてあげられる言葉がみつからなかった。





「あの日、編入した日、瀬名先輩なんかに見つけられなきゃよかった。放っておいてくれたらよかったのに、どうして余計なことをしたの。どうして歌ってって言えるの。どうして、他人になってくれないの」

 通学鞄を泉に投げつけて、強く睨みつけてくる。血色の悪さは相変わらずで、もうあの作り物みたいな笑顔はどこにもない。形も輪郭もぼやけて透明になってしまった。

「他人になりたいんだったら、は俺のクラスに来るべきじゃなかったよねえ? どうしてわざわざ俺のところに来たわけ?」
「お礼を言うのは、当たり前のことです! 非常識な瀬名先輩と一緒にしないで」
「非常識なやつに常識的な対応をすることなんてないでしょ」

 は目を白黒させて泉を仰ぎ見る。頬が赤い。彼女がはっきりと怒っている証拠だ。

「瀬名先輩は、私のことがきらいなの」

 これにはさすがの泉もため息を隠しきれない。

「……どんな思考回路してんの。俺はを一度だって嫌いになったことはないし、これからも嫌いになることなんてないから」
「嘘言わないで」
「手紙を返さなかったのは、にかけてあげる言葉が見つからなかったから」
「……ごまかさないで」
「ごまかしてない。俺だって、情けないと思ってる。でも俺だってガキなんだから。こっちはこっちでいろいろあったし……。簡単な言葉でどうにかなる問題でもなかったでしょ」
「泉は、そんな殊勝なこと言わない」
「でも事実、俺が言ってんだから認めなよ。……というか、やっと名前呼んだねえ?」

 口を抑えて顔を真っ赤にするを、やはり可愛らしいと思う。泉はその丸い頭に手を伸ばしたが、すかさず払いのけられた。

「触らないで」

 立ち去ろうとするをどうにか繋ぎ止めるように、わざわざ残酷な言葉を選んでの背中に突き刺した。

「ねえ、もう歌わないの」
「歌わない。だって、歌う理由なんてない」

 は母親のために歌っていた。母親を亡くした今は、もう歌う理由が見つからなかった。
 警備や個人情報の保護がしっかりとした学院に編入し、アイドル科の中で世間の好奇心から隠れようとしていたのだが、そこには幸か不幸かむかしの幼馴染が在籍していた。泉と離れた当時、個人の携帯電話を持つほどの余裕がなかったは手紙を送ることでしか泉との繋がりを保てなかったのだけれど、その手紙を泉は三年間無視し続けて、今日に至る。
 よこしまな理由ではじめた芸能活動は、休止ではなく引退をするつもりだった。だけど、夢ノ咲学院への編入の話を持ちかけられてしまった。

「……いままで出した手紙のことが急に思い浮かんで、ひとこと文句を言ってやらないと気が済まなかった。でも瀬名先輩は私を忘れたみたいに振る舞うし、そしたらもう……どうでもよくなっちゃって。助けてくれたことは嬉しかったから、お礼を言ったら学院をやめようかと思ったんです」

 泉はポケットの中で握っていた飴玉を強く握りつぶした。皮膚が痛い。いま、はなんて言った?

「学院をやめる?」
「やめます」

 きっぱり言い放ったの声は音質のいい円盤で聴くよりも透き通っていて、あの日、背中で泣きながら眠っていたの儚さを思い出す。

「やめてどうするの」
「私のことなんて、瀬名先輩には関係のないことでしょう」

 そこでようやく、泉は自分の臆病にとらわれて言葉を当て嵌められずに、結局、手紙の返事を怠ったことや、が自分から離れていくわけがないと根拠もなく確信していた自意識の過剰さを後悔した。
 唯一、に残されていたの家族である母親はいなくなり、はもう歌わないと言う。

!」

 腕を引っ張ると簡単によろけてしまう薄い身体は柔らかい砂に尻餅をつく。痛い、と顔をしかめるに、泉はここが屋外であるということにも関わらず覆い被さる。砂が靴に入り込む。真新しいの制服が潮の香りを纏う。波の音の合間に、泉は自分の荒い息の音を聞いた。鼓動が速く、柄にもなく取り乱していてみっともない。みっともない自分を冷静に客観視する余裕など、どこにもない。

 決してどこにも行ってほしくない。砂にの肩を押さえつけて、鼻と鼻がくっつきそうなほどに距離を詰める。は一瞬も目を逸らさなかったが、それは驚きのあまり頭が現実についてこないからだろう。

「……どうして泉が泣くの?」

 の顔にはもう怒りも羞恥も浮かんでいなかった。そこにあるのはただただ純真な、曇りのない疑問だけ。
 どうして泣くのだろう。だって、手を離したらが死んでしまうんじゃないかと本気で思ったからだ。

 泉の目の縁から溢れ出た涙はの頬にこぼれ落ちる。海よりも綺麗だ。今日の空よりも、五月の海よりも、そして八月の海よりも、泉の目の方がうんと綺麗なのだろうと、ぼろぼろと泣き続ける泉を見上げながら考えていた。すると、目を乱暴に拭った泉がの鼻を摘むものだから痛みに声を荒げる。押し倒されたり、鼻を摘まれたり。この幼馴染はしばらく見ないうちにやたらと乱暴になったものだ。

「なぁに、暢気な顔してんの!」
「あ、いや……泣いても綺麗だなって……」
「そんな当たり前なこと言わなくてもいいから。ほんとそういうところ、変わってない。そんなんでよくあの業界でやっていけてるよねえ。ま、トークは結構すべってたりしてたけど」

 頬に髪があたるくすぐったい感触がした。あの日、踏切で感じたときよりも熱い体温がの頭をぎゅっと抱きしめる。幼いころをどうしようもなく想起させられて、懐かしさに胸が塞がった。

「でもの歌は、そう悪くなかったと思う」
「良かったって、素直に言えないの?」
「うわ、ちょ〜生意気」
「私のことをずっと見てたの?」
「……そうだよ! 歌も、テレビも、雑誌も! うっざいくらいに載ってるんだから嫌でも見ちゃうに決まってんでしょ! 俺がを忘れるわけないじゃん、馬鹿じゃないの!」

 海風が目に沁みる。黄昏の星が透明に瞬いている。橙色と青色を綯い交ぜにした淡い空がじんわりと溶けて、あ、という間にの目から真新しい涙が流れ出ていた。

「ほんとうは、ずっと泉に会いたかったの……」

 泉の腕がより強くを抱きしめる。冬のつめたさを隠し持っている浜辺の砂が太ももに冷たいけれど、身じろぎすら許されず、は深呼吸を繰り返しながら泉の下でじっとしていた。





 結論から言うと、は学院をやめなかった。今はクラスにもだいぶ馴染んで、プロデューサーの転校生となにやら新しい曲をつくっているらしい、というのが、真からの情報であった。
 窓から見下ろすグラウンドでは、すっかり血色の良くなったが弾む足取りでカラーコーンを運んでいた。
 桜の花びらはひとつも残っていない。木々は青く、夏用の葉っぱを堂々と太陽に向けており、光合成の準備に余念がない。あの海での出来事からひと月が経とうとしている。

「またちゃんのことを見てるんだ」

 窓枠に肘をついてぼんやりとしている泉に薫が話しかける。眉をひそめる泉に構わずに、こちらに気付いたに向けて笑顔で手を振っている。

「だからそんな怖い顔しないでよ。ちゃんに嫌われちゃうよ?」

 反論をしようと開きかけた口が力なく閉じてしまう。言いよどんだのは、泉に心当たりがある証拠だった。薫はどこか楽しんでいる様子で、それを隠そうとせずに遠慮なく醸してくるものだから、泉は余計に機嫌を悪くしてしまう。

 三年間をそう簡単に清算できなかったは泉に対する敬語を継続させているし、丁寧に“瀬名先輩”と呼んでいる。だから泉も目が合っても手を振ってやることさえできない。お互いの意地っ張りのせいで敷かれた平行線が果てしなく、ときどきうんざりさせられる。

 だけど、をひとり暮らしのマンションまで送っていってあげたあと、小さな声を絞り出して、泉、と呼び、制服の裾をくいっと引っ張る幼い仕草を目にすると、いつでも三年前に戻れる。
 ひとりの夜が苦手で、少しだけ臆病な幼馴染。いまはまだ、それだけで充分だった。





 目をつむるといつでも春の海が蘇ってくる。すっかり赤くなった目尻に唇を寄せたこと。そうすると、すっかりと機嫌を損ねたようになってしまったこと。だけど砂のかかった髪の隙間にある耳が赤く染まっていたこと。