昨晩の雨を吸い込み濡れた地面は太陽の光に温められて強く香り立つ。風通しの良いティナリの住処にも、その匂いが届いていた。そんなよく晴れた気持ちの良い日和に反して、私は丸椅子に居心地悪く体を収めてザイトゥン桃の皮を剥いていた。

「怪我をしないように、気をつけて」

 よほど深刻な顔をしていたのか、刃物の扱いが危なっかしく見えたのか、どこか緊張を帯びた面持ちで皮剥きに取り組んでいた私に、見守りに徹していたティナリはとうとう忠告をした。もちろん、いまだに頬に薄い痣を貼り付け腕に包帯を巻いている怪我人のティナリのその言葉は、桃から出た水音で黙殺することとなる。つまり、静かで暖かい部屋に似合わない重苦しい沈黙の大半は、私によるものだった。

「……はい、どうぞ」

 重苦しい空気を作った責任を取るように、瑞々しい桃を丁寧に並べたお皿をベッドにいるティナリに手渡して、すぐに距離を取った。

「なんで逃げるのさ」

 苦笑いをされても、泣かないためにしていることだから、仕方ない。
 心臓が、とまるかと思った。とまってしまったかと思った。ティナリが大怪我をしたと聞いたときに感じた、全身から血の気が引き、すべての音が遠ざかり体温が急激に下がるような感覚を、いつでも鮮明に思い出せる。
 若緑色の敷布で覆われたベッドの上で横になりティナリが貸してくれた植物図鑑を眺めているときに、その報せが届いた。慎重で身軽なティナリが危険を伴う仕事の最中に大怪我をしたのは初めてのことではないが、滅多にないことで、回数を重ねても慣れそうにはない。
 初めてのときはティナリの前で大泣きしてしまい、ひどく困らせたので、それ以降は泣かないように……、したかったのだが、感情のコントロールが下手くそなあまり、「ティナリに顔を見せないようにする」という方法が現時点での最善策となった。
 私の心配をよそに、療養と称してティナリは1、2日臥せていたが、すぐに回復した。もとよりガンダルヴァー村は療養に適した場所であるので、環境も医療技術も申し分なく、みるみる元気になっていったのだ。

「いつまでも拗ねていないで、こっちにおいで」

 お互いの手が届かない距離の端でじっと押し黙っていると、ティナリに手招きされる。拗ねていない、なんでそんなふうに言うの……と、反論するもやけに弱々しい声となった。それを聞いたティナリは眉を下げて笑う。よく見慣れた、しょうがないな、と思っている顔だ。

「顔が見たいんだよ。ちゃんと、僕に近付いて」

 軽い椅子を引きずりながら近付けば、そうではなく、ベッドに腰掛けるようにと命じられる。意地を張り通す気概を持っていたはずが、どうにも、ティナリのお願いに弱いのだ。
 指定通り傍に腰掛けると、頰に手をかけられて、視線を合わせるよう促された。いやだな、と思った。目の奥がぎゅっと痛んで泣きそうになって、たまらない。

「利き腕に傷があるんだ。桃を食べたいんだけど、どうにもやりにくくってさ。が食べさせてくれると、助かるんだけど」
「……ティナリ、甘えてる?」
「そうだね。が五日間も顔を見せてくれなかったから」
「さみしかったということ?」
「そういうことだろうね」

 他人事のように告げられる言葉は歌うようになだらかに響く。利き手が機能せずとも、器用なティナリは片方の手を上手に使って桃を食べることくらいできるというのに。
 ティナリの指先は私の輪郭をなぞり終え、私は要望通りにフォークを持ち、ザイトゥン桃に突き刺した。瑞々しいばかりの果物の表面に太陽の光の粒がころころと転がっている。

「……ティナリのこと、すごく、心配したの」
「うん、わかってる」
「ティナリが思っているよりも何倍も心配したんだよ」

 子どもみたいな反論の仕方に、ティナリは笑うでもなく驚くでもなく、ただ眉をさげてどこか寂しそうな顔をするものだから、たまらなく胸が苦しくなる。

「僕は、が思うよりも何倍も、が顔を見せてくれなくて、さみしかったよ」

 知らなかったかな、と呟き、敷布の上をのろのろと指を這わせて、フォークを持っていない方の手を握り込んでくる。温かくも強張った指が絡められる。息が、しにくい。

「こんなに姿を見なかったら、がいなくなっちゃったのかなって思うだろ」
「いなくなるなんて、ないよ」
「だから、それほど不安だったってこと」
「それは……、うん。ごめんなさい」
「気持ちの整理なんて二人で一緒にすればいいんだよ」
「うん」

 ティナリの指は撫でているうちに少しずつ力が抜けていく。まぶたが重そうだ、きっと疲れているのだろう。見た目よりもずっと弱っている可能性が浮上して、また息が詰まって苦しくなる。私がティナリに二度と大怪我をしないでほしいと言えないのと同様に、ティナリも私に二度と大怪我をしないと言えないから、「上手に看病できるようになるね」とひっそりと伝えてみたら、ティナリは目を柔らかく細めて「助かるよ」と言う。いまはそれが私たちの精一杯で、十分だった。