ティナリの部屋で一度だけキスをしたんだ。夜がとっぷりと更けていて、部屋着に身を包んだティナリはいくつもの薬剤を整理整頓している。私はティナリが細長い指を使って綺麗な瓶を摘んだり仕舞ったりする様子を見つめるのを気に入ってしまっていたので、退屈を感じることもなく、むしろ楽しく、上機嫌でティナリのベッドに横たわっていた。
「ティナリ」
ゆらゆらと動く耳が可愛らしいなと思っていたら、思わず名前を呼んでいた。私の頬のせいでティナリの枕がぬるくなっている。そういえば、はじめて目をさましたときも、この枕に頭を預けていたんだっけ。
第一発見者のティナリに教えてもらったところによると、ガンダルヴァー村の七天神像のすぐそばで、ひとり気を失って倒れていたという。それが、虎が棲息する清流であったら、私は目を覚ます前に命を落としていたかもしれない。
ふと、名前を呼ばれておそろしい妄想から意識を引き上げられる。
「えっ」
ベッドがぎしりと鈍く軋んだ。私の身体に覆いかぶさるようにしてベッドに足を乗り上げたティナリの切羽詰まったような顔が、ぐんぐんと近づいてくる。薬草の匂いがどこか甘ったるい。とくに抵抗する理由も見当たらず、そっと目を閉じれば予想どおり柔らかいものが唇に当たった。
あまりに自然なやり方だったから、驚きも戸惑いもなく、お腹がじわりと熱くなってうんと満たされた心地になって、ティナリの腕をそっと撫でる。ずしりとのしかかられたら流石に重みを感じるけれど、頭を抱きこまれてしまえば、抵抗のすべなどどこにもなくなってしまうもので。
近頃はレンジャーの仕事が忙しく不在にしがちではあるが健康には問題がないので気に留める必要はないと早口で言われたのは、その翌日のことであった。それにしてもおそろしいくらいに村のどこを歩いていても姿を見かけないので、意図的にふたりきりにならないようにされているのではないかと薄ら疑いはじめた頃に、ティナリが「海を見に行こう」と私を誘った。
「うみ……?」
「君もガンダルヴァー村に篭りがちだろ。そろそろ村の外に出かけてみるのもいいんじゃないかって思って。もちろん、君が行きたいと思ったらだけど」
ティナリと話す時間がすっかり減ってしまい、どことなく気が重く憂鬱になってしまう日々がこれからもずっと続いてしまうんじゃないかと心配していたものだから、お誘いが飛び上がるくらい嬉しくて二つ返事で「行く」と答える。ティナリはにっこりと笑って私の知らない港の名前を教えてくれた。
「オルモス港……」
ティナリの家で目を覚ます以前の記憶はうすい霞に覆われており鮮明には思い出せない。由比ヶ浜……横浜港……。太平洋。記憶の隅っこからかき集めた固有名詞はこの世界とはちっとも噛み合わないので、オルモス港という港も、私が暮らしていた世界とは地続きではないのかもしれない。
「バイダ港でもいいけど、あっちは道が険しくて、僕ひとりじゃ君を守りきれないかもしれない……。それに交易もしていないから、見所はあまり多くないんだ」
「ううん。連れていってくれるならどこでも嬉しいよ」
オルモス港までは駄獣が曳く荷車に乗ったり、均された綺麗な道を歩いたりと、おおむね順調な旅路だった。手を繋いだり離したりもした。道中に現れた魔物を手際良く倒していくティナリを木の陰に隠れて見ながら、私ひとりでオルモス港に到着するなんてとんでもない話だ、と背筋を凍らせていた。
「大丈夫?」
木にしがみついて固まっている私よりもよっぽど怪我をする可能性が高いことをしていたティナリが、つとめて優しく問う。薄い緑色の弓の、陽の光を透き通らせているさまがとても綺麗で、武器とは思えないたたずまいでティナリの背に納まる。「だ、だいじょうぶ」みっともなくも声が掠れていた。乾いた樹皮から私を引き剥がしたティナリは苦笑しながら「怖かったね」と手を握り込んでくれる。
「いや……怖かったのも少しはあるけど、ティナリ、強いんだね。びっくりした」
せっかく連れ出してくれているというのに私の小心のせいでティナリを困らせるのは嫌だと思い、慌てて首を振って言う。ティナリいわく、この程度であれば誰でも修練を積めば戦えるようになるらしい。
「はどうかな……。体力をもっとつけるのが先だろうね」
おっしゃる通りでぐうの音も出ず、そこそこの頻度で休憩をとりながら川に沿って歩いているうちに雲はどんどん厚ぼったく膨らんでいく。小雨が頬を濡らし出したタイミングで、巨木を割り開いて流れる川のその先に、船と空と海を見つけた。オルモス港はガンダルヴァー村よりも栄えているようで、久方ぶりの人混みにふらふらしているとティナリが「ちゃんと歩いて」と嗜める。
港がまるごとひとつの大きな建物の様相をしている。雨の影響をさほど受けないのはありがたく、どうせ濡れてしまっているのだからこのまま観光をしようかという私の提案は遠慮なく一蹴されてしまう。
「雨に濡れてただでさえ冷えてるのに、潮風にあたったら風邪を引くよ。どのみち宿泊が必要だろうと思ってたんだ」
「泊まるの?」
「うん。今日は宿でゆっくりして、浜辺に行くのは明日にしよう」
悪天候に見舞われたのは不運だけど、一泊できるのは素直にうれしく思う。それにしても、なにが起きても良いように一泊分の荷物を用意してくれたのはさすがとしか言いようがない。
諸外国との交易拠点である港の宿だ。夕方にもなれば二台のベッドがある部屋はすでに埋まってしまっていた。
「それじゃあ、ベッドが一台の部屋を二部屋お願いします」
「えっ」
宿泊台帳に文字をすらすらと文字を書き連ねるティナリは、湿ったリュックサックを抱きしめて固まる私を振り返って苦笑する。
「そんな顔しない」
「ティナリのせいだよ。えっと、その、お金もったいなくない?」
「僕だってそれなりに稼いでるんだから、心配しなくていいんだよ」
「心配してるとかじゃないけど……」
おんなじ部屋で眠りたいなんて、公共の場で口にするものではないだろうから、仕方なくきゅっと唇を結ぶ。それに、なんだかものすごく下心をもっているみたいだ。涼しい顔をしているティナリが恨めしく、部屋の前でも名前を呼んでじっと見つめてみせると、「ゆっくり休んで、暖かくしていないとだめだよ」なんて保護者のような台詞を吐いて手を振って部屋に入っていってしまった。
「……ああもう」
ぶつぶつ独り言を呟き、木製の扉を開く。完ぺきな個室である。窓際に備え付けられたベッドは、ガンダルヴァー村のティナリの家に置かれているものよりも大きかった。
言いつけ通り湯を浴びて体をあたため、着替えをしてからティナリと私を隔てる壁を人差し指で一度だけ叩く。返事はなく、そもそも聞こえているかもわからない。諦めてベッドに突っ伏すと、一日ぶんの疲労がどっと押し寄せて、まぶたが重くなっていく。
目がさめたとき、ここがどこなのか、いったい何時なのかすぐに判別がつかず混乱した拍子にベッドから滑り落ちた。時刻を確認すればずいぶんと眠りこけていたことに気がつき、さらに、夕飯を食べ損ねたせいでやたらとお腹が空いていた。
財布を握り締めて、できるだけ音を立てないよう努力しながら部屋を出る。雨はすっかりと上がっており、ほどよく湿った夜の空気が肺をいっぱいに満たすのが気持ち良い。
残念ながら軽食を買えそうな屋台はすべて閉まっていた。コンビニのような休みなく営業している店はないだろうかと徘徊してみても酒場くらいしかなかったので、諦めて海のほうへと足を向ける。
「こんな遅くに、どこに行くつもり?」
「ティナリ!」
ティナリの部屋着を見るのはあの日以来だ。唇をあわせたことと、抱きしめてもらったことを思い出す。近づいてきたティナリから漂う薬草の匂いに鼻をくすぐられたら、触れてもらったときの感覚がもっともっと鮮明になる。
「なにか食べ物を買おうと思ったんだけどお店が開いてなかったから、灯台のところまで散歩しようと思って。酒場にはひとりで入る勇気がないし」
「なるほど、僕に叱られずに済んだっていうわけだ」
「散歩は許してくれるの?」
「……良くはないけどね。ひとりじゃないならいいよ」
てっきり連れ戻されるのかと思ったが、灯台までの散歩をしてもいいらしい。昼間とは違って手袋に覆われていないティナリの手が、私の指を絡めとる。直接触れ合う皮膚が熱くて、どうしたってあの日のことばかりを思い出してしまうものだから、灯台までのそう遠くもない道を進む間は口数がうんと減って、「夕食どきに扉を叩いたんだけど反応がなかったから」「一応、食べられそうなものは持ち帰ってきたから、あとで分けてあげる」というティナリの言葉に短く返事をするのが精一杯だ。
波が引いて寄せる音というのはどこもそう変わらない。大きく広がる海原だけを切り取って見れば、生まれ育った世界の海と相違ないように思えてしまい、私そのものの存在が急に曖昧になる。
「この海ってどこに繋がってるの?」
「稲妻とか、璃月とか……。他の国に繋がってるんだよ」
「そっか。ちゃんと外国に繋がってるんだね」
「港だからね。でも、たぶん君が住んでいた国には繋がってはいないと思うよ」
「え、うん……? そうだよね……?」
日本やアメリカやヨーロッパに繋がっていたらむしろ恐ろしい。元素だとか魔物だとか初めて目の当たりにするそれらの存在が、ここは世界まるごと違った場所であるということをしっかり証明している。
「……ごめん。嫌な言い方した」
雨上がりの凪いだ海に浮かんだ船をぼうっと見ていると、ティナリに繋いでいた手を引かれる。前髪の隙間から下がった眉が覗いていた。
「嫌な言い方されたなんて思わなかったよ」
「したんだよ。僕が、にどこにも行ってほしくないと思ってしまったから」
「うん……?」
「君にだって、故郷を思う気持ちはあるはずなのに。無神経だった」
おぼろげな記憶のなかに在るのは、便利だった過去の暮らしや、仲が良かった人たち。家族や、食べ慣れた食事。それら恋しさに真夜中目を覚ましてガンダルヴァー村の深い自然のなかをあてどもなく歩き続けた時期を、ティナリは知っている。だってティナリの耳は私のそれよりもずっと良くて、小さな音だって拾えてしまえるのだ。歩き疲れて、時には泣き疲れて木の根元で蹲っている私を追いかけてくれたことは、一度や二度ではない。
「のことになると、感情がうまくコントロールできなくなるときがあるんだよ」
観念したように苦笑いをしたティナリに、そろそろ戻ろうか、と切り出される。
「……ティナリ」
ぐいっと手を引っ張ってその場に縫いとめる。次いで「できなくてもいいよ」と呟く。喉が熱い。外灯の鈍い光が大きく見開いたティナリの目をくっきりと浮かび上がらせている。
「僕、自制心には自信があったんだけどね」
「だからね、いいよ、自制……しなくても。私、ティナリがくれるものを全部大事にするよ。だから……ティナリの部屋に行ってもいい……?」
とんでもない発言の自覚はあったが、ティナリだってあの夜を真似るように私を抱き込んでくれたから、単純な私はやっぱり素直に満たされて、心臓がどくどく動くのを全身で聞いている。
「ちなみに教えてあげるけど、僕は、が僕の名前を呼んでじっと見つめてくるのに弱いんだ」
「そうなんだ……。参考にします」
「馬鹿。しなくていいよ」
ティナリの腕のなかでもぞもぞと動いて背中に腕を回す。目尻に熱い涙が滲む。胸元に顔をこすりつければ「くすぐったいよ」と笑い声が振ってきた。
食べ慣れない食事、はじめて会う人たち。見たことのない花の色と香り、眩い緑がたくさん詰まった村。それと、ティナリの温度。
遠ざかっていく過去に続く現在だって、遠い未来に振り返ればきっと恋しくなるのだろう。