茹だった頭がぐらりと揺れて、石畳のうえに膝をつく。高い陽が頭のてっぺんをじりじりと焼いている。目の奥がひどく痛む。お茶を淹れるのがとても上手なあなたが、かたわらにしゃがみ込んで私のおでこに触れ、涼茶を差し出してくれる。眉を下げていたあなたは、ひと息でお茶を飲み干した私を見て、ふわりと顔を綻ばせた。

 打撲や怪我の絶えない嘉明に薬を渡すために万民堂にやってきたら、目的の人物はすでにたくさんの料理を注文していた。唖然としたのは料理の量にではなく、その頬、その手首、その手の甲に傷をこしらえていたからである。
「なん……なんで、重傷……?」
「重傷じゃなくて、細かいのが多いだけだぜ」
 追加の薬を取りに不卜廬に戻ろうとする私を引き留めた嘉明が朗らかに言い放つ。目に見える箇所だけでこれなのだから、衣服で隠れている肌にも打撲痕や生傷があるに違いない。
「薬、いつもありがとうな。鏢局の人たちも喜ぶんだ」
 きっと嘉明は自分で使うよりも人に多くを与えるのだろう。

 月に一度、軽策荘や望舒旅館まで足を伸ばすことがある。表向きの理由は道中で草花を採集したいからというもので、本音は、護送として雇った嘉明と一緒に過ごしたいというもの。
 嘉明がうちにはじめて『鏢師』としてやってきたのは一年ほど前になる。その頃は父を亡くしたばかりで、失ってしまったひとりぶんの空洞に、情緒が安定しない母の脈絡のない笑い声や啜り泣く声が埋まるように響いており、相当にひりついた空気が絶えず漂っていたのである。
「遺瓏埠まで届ければいいんだな。任せてくれ、ちゃんと無事に届けるからさ」
 遺言状どおりに形見を分けるという作業にも終わりがみえ、だが母と私と女中といった女手しかない人員で遺瓏埠まで行くのは難しいように思えたので、鏢師を雇うに至った。数十日間うっすらとしたねずみ色の空気を抱えてどんよりと生と死のはざまを漂うような生活をしていたものだから、鏢師としてやってきた嘉明のはつらつとした笑顔や明るい声は眩しいくらいだった。
「あ、それと手を出してくれないか?」
「うん……?」
 部屋に戻って横になりたいと感じはじめていたのだ。いま思えば私の口調や仕草、態度は嘉明に対してそっけなくて失礼なものだっただろう。しかし、嘉明はそんなことなど気にも留めていない様子で私の手の上に小さな紙袋を載せる。
「それは茶葉だ。疲れが取れるとかなんとか……本当はよく眠れたらいいんだろうけど、そうもいかないときってあるよな」
 ねずみ色の空気に淡くやわらかい光が差し込むように、その日から、嘉明は私の生活の一部となった。

 家の中は相変わらず一本の縄の上を恐る恐る歩いているかのような危機を孕んでいたが、生前医師として働いていた父の人脈のおかげで不卜廬でのお手伝いを認められたり、得たお給金で鏢師の嘉明を雇って璃月港から出て気分転換したりと、いっときよりも伸び伸びとしてよい方向へと生活が変わり始めていた。
 嘉明は親切で、明るくて、ときには冗談を言う。さらに言えば物知りで話題に欠かない。
「私、嘉明が獣舞劇してるところを見たことがあるよ」
 望舒旅館の前で霓裳花を摘みながら、璃月港の道端でさほど観客もいないのに大きな獣頭を両手で持って真摯に演技していた嘉明の姿を脳裏にうかべる。
「へえ、そっか。……どうだった?」
「格好良かった」
 竹で編んだ容器に霓裳花がいっぱい詰められている。あたたかな橙色が私たちを照らしている。
「……獣舞劇をしている嘉明が、すごく格好良かったよ」
 繰り返し伝えると嘉明の頬の彩りが濃くなっていった。

 死別から一年経とうが忘れられないものは忘れられないものだし、無理に気力を沸かせようとしたって思い通りにはいかない。それでも精神が不安定な時間が短くなってきた母は、食べる量が増えて、さめざめと泣いて濡らしてしまった枕を洗濯する回数が減ってきたようである。そうして、父が占めていた母の余白に、あろうことか私が登場する。ひそめた声で女中と私の動向について情報交換しているのは気づいていたが、把握しているのみで口出ししようとしているとは夢にも思わなかった。だって、臥せっている最中はろくに目も合わせなかったあの母が、私に関心があるだなんて。
 断っておいたのだと、母が言う。嘉明と会う約束をしているのに約束の時間になっても玄関扉がなかなか叩かれず疑問に思った矢先のことであった。嘉明に会いにいくと告げたときの、女中の胡乱げな顔が脳裏をよぎる。母は、嘉明とは会わないようにしなさいというようなことを言った気がする。私の頭は、カッと熱くなる。


 いつもとは逆だな、と嘉明は苦笑いする。怪我にも満たない、手の甲の赤みを濡れた手拭いで冷やされている。私はずっと不貞腐れている。
「……弱みにつけ込まれているんじゃないかって言われたから、私が一目惚れしたんだって怒ったら、手をはたかれたの」
 家の雑務を私が一手に引き受けていること、それに係る精神的疲労が心配されること、同年代の異性につけ込まれて誑かされているのではないかと危惧していること、母が真面目くさった顔で訥々と語ったのはそういった内容であった。
 いまさらになってなにを、という心と、口ごもりながらも熱を帯びた声で問われて絆されてしまう心が同居しており、どうにも複雑な気分に陥ってしまい怒りとして感情が出力されてしまったのだ。
「ひ、一目惚れって……。それって、前に言ってた獣舞劇のことか?」
 嘉明のまつ毛がふるふると震えている。
「……違う」
 気が塞いで外に出られなくなった母のかわりに往生堂とのやりとりをしていた時分、賑やかであたたかな人混みが煩わしくて、誰かと一緒にいられるひとたちすべてが羨ましくて、私はずっとひとりなんじゃないかと思って怖くなって……。石畳のうえでうずくまった私をいろんなひとが迷惑げに避けていく中で、嘉明は迷わずに私をねずみ色の景色から引っ張りあげてくれたのだ。
「嘉明は憶えていないかもしれないけど、私にお茶を出してくれたの」
 たぶん、それからが私にとっての特別。
「……オレは、お茶とか関係なく気になってたよ、のことが」
「え?」
「親っていうのは妙に鋭くって困るよな」
 体温を吸いとって生ぬるくなった手拭いを畳みながら、頬をかいた嘉明は困り笑いをこぼす。大切にしまっておいた秘密を打ち明けるような声音は璃月港の喧騒にまぎれそうになるから、耳を欹てなければならない。
「白先生からじゃなくて、オレはから薬をもらってるんだ……。が璃月港の外に出掛けるときにオレに用心棒を依頼する理由とそれが同じだったらいいなって思うよ」
 あ、もちろん弱みにつけ込んだとかじゃなくって、と嘉明はあたふたと言い連ねている。私は、私のそわそわする胸のうちに仕舞っていた下心を、ずっとあなたに打ち明けたいと思っている。