物心がつくまえに「現在の両親」である裕福な家庭の養子になった私は、数年前に「現在の両親」から「生みの親」の存在を聞かされ、「双子の兄」がフォンテーヌ廷にて生活を営んでいるとのことであった。
兄ことフレミネと私の交流は、お互いの存在を認識して以来、月に一度のペースで行われている。潜水士としての職につくフレミネの、そこに至るまでのいきさつを、私はあまり詳しく知らない。一度、フレミネの家族……それはつまり、同じ場所で生まれ育った人間という意味なのだけれど、家族を名乗るリネという男の子と会って話したときに、やんわりと、あまり踏み込むなというようなことを言われた気がする。
口調こそやわらかいが、はっきりとした拒絶的な態度に驚いた私は、内気なフレミネが珍しく人に意見するのをうすく透明な膜越しに見ていた。その気やすさに、フレミネとリネが家族そのものなのだと思い知らされ、ますます蚊帳の外に放られたかのように感じられて、孤独感はいっそう強く押し寄せてきたのである。
向こうもそうであるし、私もまた、そうだ。……お互いに、お互いをよく思っていない。よって、おそらく今後会うことはないだろうと、初対面の段階で確信したのである。
残念なことに、私の鈍った勘はびっくりするほど信頼が置けない。フレミネとの待ち合わせ場所にやってきたリネを前にして、二度と会うことがないと思い込んでいた私の喉からは、潰れたような声が出てしまった。
「フレミネは忙しくて今日は来られないって言ってたよ。だから、僕はその代理さ」
今日のためにおろした新しいワンピースの裾を掴んで、笑みを向けてくるリネの前で縮こまっている。そうなの、それなら私はここで、さようなら……と言葉を添えて立ち去ればいいものの、足は石畳の上に突き刺さって一歩も動けない。
代理とはなんだろう、まさかリネは私とフレミネがしているような、紅茶とお菓子でお茶をしたり、絵本や機械仕掛けのおもちゃを見てまわったりするつもりなのだろうか。
「それで、君はどこに行きたい?」
一度あることは二度あり、三度目も発生し、四度目のリネを目の当たりにしたときにはさすがに驚きはせずに、ずしんと頭の上にのしかかる重みに身体をきゅっと縮めて息を潜めていた。もともと人見知りをするたちで、知り合ってどれほども経たない他人と打ち解けるにはかなりの時間を要する。
一方、リネは言葉を巧みに操り、あれこれとおしゃべりをして時間に空白ができないようにしてくれていた。気遣いからくるものなのか、私と時間をともにすることこそがフレミネへの義理になるのか、とにかくリネはどこまでも親切だった。
「あのお店のお茶がすごく美味しいんだって、フレミネが言っていたよ」
狭い路地に立ち並ぶ一軒のカフェのテラス席に私を座らせたリネに、注文はなにが良いか訊ねられて、いつも通り「なんでも良いよ」と、却ってひとを困らせる返事をする。
「わかった。それじゃあ、僕は適当に選んでくるから、座って待ってて。それと、はい、いつものこれ。僕の帽子を預かってて」
ふたりで過ごす短い時間のあいだの決まりごとのひとつに、リネの帽子を預かるというやりとりも含まれている。黒とピンクのストライプ模様のリボンが巻かれた大きな帽子を膝の上に乗せて、人通りの少ない路地の景色をぼんやりと見つめる。
「僕の大事なものだから、ちゃんと持っててね」
いやな顔のひとつも見せないリネは了承して、分厚い木製の扉を押して店内へと姿を消していった。
私を引き取ってくれた養父母はそこそこ過保護に育ててくれた。生来の消極的な性格は鍛えられず、むしろやさしい環境で守られているばかりで、ひとりでカフェに出かけることすら未経験という世間知らずぶりである。
特段苦手な食べ物もなければ、リネが選んでくれるものにはずれはない。だから、私が初めて訪れた喫茶店でメニューを選ぶよりも、リネが選んでくれたほうがよっぽど良いだろう。「なんでも良い」には「リネが選ぶものは信用できるのでなんでも良い」という意味が含まれているのを、リネは知らない。
私だって、お世辞にも打ち解けているとはいえない相手に本音を話すのには気恥ずかしさが勝るが、こんなによくしてくれているのに、任せきりでぼうっと座っているだけというのも、失礼な態度に思えてきてしまっている。
「お礼の品を選んだほうがいいのかな……。でも、奢ってもらっているわけじゃないし……」
膝の上に視線を落として思案しているときだった。リネの帽子の上に大きな影が被さり、もとより黒を基調とした帽子がさらに色を濃くなる。
「え……?」
帽子どころか、私の影すら覆われてしまっており、反射的に顔をあげれば見知らぬ男性がそこに立っていた。
男が身につける薄手の上衣は袖のあたりが薄く汚れている。お嬢さん、と呼ぶ声が粘っこく、思わず身を竦ませてリネの帽子を抱きしめた。
「な……、なにか、ご用ですか」
ちらりと視線を巡らせるも、ぎゅっと敷き詰められた建物の間にかろうじて引かれた細い道を選ぶ人はあまりいないためか、不運なことに助けを求められそうな相手はいない。いましがた注文に出かけたばかりのリネは店内にいるだろう。
「俺、金がいるんだ、わかるだろ?」
そこかしこへ向けていた目は、男に顎を掴まれぐるんと正面に固定された。ごつごつと乾いた手が強く、顎の骨を砕かれてしまうのではないかと、新たな恐怖に襲われる。リネ、フレミネ……養父母? 助けを呼ばなくてはいけない、ここで大きな声さえ出せば、リネには届くのに。
喉の奥がぴしりと固まってしまっている。触れられた箇所から体温が急激に冷えていくような感覚に襲われている。どうにか時間を稼いで、リネが出てきてくれるのを待つほうがよほど助かる確率が高いという心算は、腕のなかで守っていた帽子を抜き取られた途端にばらばらと崩れていった。
「それっ、だめ……!」
血相を変えた私に、男はいっそう笑みを深くする。弱みを握ったとでも確信したのだろう。がたんと大きな音をたてて立ち上がり、片腕を拘束されたまま無我夢中で高く掲げられた帽子へと手を伸ばす。届かない、どうしよう、リネが私に預けてくれた、唯一の信用のあかしなのに……。
金銭を渡すだけで済むのか、それとも誘拐まで展開するのか。混乱した頭では、そのどちらも帽子をとられるよりも良いという判断しかはじき出さない。
もう一度伸びをして、手を振り上げる。帽子に届かなかった手の先が意図せず男の頬を叩き、かっと目を血走らせた男が掴んだ腕に力を入れる。骨が軋むような痛みに呻いている暇もなく、大きな手を振り上げられて、殴られるのだと身構える。
ところが、私を叩くはずの衝撃はいつになってもやって来ず、腕の拘束がとけてふらりとその場に尻餅をついた。
「勝手に触っているみたいだけど、それ、僕のだよ」
華奢そうに見える背格好のリネは、私よりもずっと力の強い男を地に伏せさせ、背中に腕をねじり上げている。地面にぱさりと帽子が落ちる。汚れてはいけないと、力の入らない手を懸命にのばして、リネの帽子を引き寄せて胸に抱いた。薄暗い路地裏、喫茶店から漏れ出る甘い香り、冷たくて硬い地面。
「リ、リネ……」
私の涙で濡れたような声を聞いたリネが、眦をあげて男をさらに強く地面に押し付けるのを、混沌とする景色の真ん中で、確かに見た。
喫茶店の店主が呼んだ警察隊によって、男は連れていかれた。リネに抱き起こされた私は、椅子に体を預けて休んでいる。丸テーブルを挟んで、目の前には、リネが離れずにそばにいる。黙ったままそうしていると、じわじわと、熱い紅茶が入ったカップを持つ程度の力が戻ってきた。
「説教をするつもりはないけど」
お茶を飲んでいると硬い声がかけられる。
「ああいう場面に遭遇したとき、すぐに逃げるか、店に駆け込むべきだと思うよ」
リネの言い分はもっともで、ぐうの音も出ず、振り返した緊張のせいで喉に流し込む甘い紅茶がどんどん味をなくしていく。
はあ、とため息をついたリネに、頬から顎まで指先でするすると触れられ、恐々と顔をあげる。また、呆れ顔をしている。けれど、怒ってはいない。
「……一応、理由を聞こうか」
「怖くて動けなかったのもある、けど……。帽子、帽子が……リネの大事なものだから」
「え?」
「はじめに、そう言ったでしょう」
やさしい養父母のもとで恵まれた生活を送ってきた。それなのに、実の家族ではないのだと聞かされただけで、自分というものの根幹が揺さぶられて、あたたかい料理や数年生活した部屋が突然他人のもののように思えてしまったのだ。
血を分け、髪の色と目の色を共有したフレミネの存在が、この世に私を繋ぎ止めているのだと、大袈裟な考えが拭えない。……フレミネが家族として認識しているリネとのつながりを大事にできたなら、フレミネともっとちゃんと家族になれるかもしれないと、思ったの……。
「それだけのことで、身を呈して守ってくれたんだ?」
「……そう、だけど……。ほとんどは私のためだと思う……」
「君の真意は知らない。君は、命がけで僕の帽子を守ってくれた。それだけのことだよ」
世間知らずで軽率な行動を、呆れられても、咎めたりはしなかった。頭の上に乗っていた帽子をとって手のひらで撫でるリネの仕草がゆったりとしてあたたかく、それを見ていると、胸がじわりと熱を覚えていく。
「でも、今日のことを知ったらフレミネは血相を変えるだろうなあ」
「……どうして」
「君がフレミネの妹で、フレミネが君のお兄ちゃんだからさ」
「私、フレミネの妹になれてる?」
そうじゃなければ、時間を縫って会いに来たりはしない。都合が合わずに僕に代理をさせるときも、わざわざ、君が好みそうなメニューのある店を指定するんだ……。
お店とメニューの種明かしをしたリネは、顎に手をあてて思案をしている。フォークの先でケーキを切り取りつつも、言葉の続きを追うようにリネの唇が開くのを待つ。
「僕にもフレミネの思考がうつっちゃったのかも」
「え?」
「なぜか、ときどき、君を甘やかしたくなるよ」
とん、と指で弾かれた帽子が、はじめからそうあるべきだったかのように、綺麗な軌道に乗って迷いなく私の頭に被さり、視界が覆われてしまう。鼻の先で、薄いミルクティー色の髪が跳ねている。それは、あたふたしている私の頬にくっついた柔らかいものがリネの唇だとすぐに示してくれる。それから、低く落とされた甘い声が鼓膜を揺さぶった。
「次からは、帽子を預けなくても待っててね」