※諸々捏造あり。あまり品の良くないモブが少し出てきます。
前編
瀕死のは侵食を受け自意識をうしなった竜に襲いかかられていた。リックに任された「仕事」のため、テケメカンの谷から懸崖の里へ戻る道すがらのことであった。大粒の雨が容赦なくばちばちと身体を打っている。全身に大小の傷をこさえているばかりか、右の腿からはいまだに血が流れているため、満足に身動きできなかったのだろう。
竜を除け、救い出し抱き上げた身体は、か細い呼吸のわりにあたたかかった。むしろ、自身の息の方が荒く、心臓がばくばくと鳴っている。
「……死ぬのか?」
族親は「死なないよ」と、鷹揚に笑って言う。
女の子をひとり連れ帰った俺に目を瞬かせてはいたが、リックは落ち着き払って医者を手配し、のこのこやってきた医者はてきぱきとの治療を行う。だから、早く濡れた服を着替えなさい、と。この場で己は一番に子どもで、いまだ焦りの残滓で息が上がっている。雨か脂汗か冷や汗か判別のつかないものが髪を湿らせていた。
湯を浴びて戻ると、清潔な布を身に纏い包帯だらけのがあれやこれや譫言をいいながら眠っていた。
真夜中、は相変わらずぐったりとベッドに沈んでいた。掛布の端っこを掴む指先にかなりの力が込められているのが、燃素でひかる淡い灯りによって浮き彫りにされている。傷が痛むのか、熱が出て苦しいのか、は夜のあいだずっと荒く息をしていて、それが永遠に続くのではないかと肝が冷えていくばかりだった。
そのときなぜか数年前の父と母と暮らしていた時分が思い起こされて、ほとんど無意識に手繰り寄せた記憶が、手の内に蘇った。の痩せぎすな手の甲に指を這わせれば、指が絡みついてくる。汗で湿り、熱すぎる指先だ。
「ごめんなさい」
薄くまぶたを開いてそれだけ言ったはぷつりと眠ってしまう。の手からは徐々に力が抜けていったものの、握った手を離す気になれずにの手を握りしめてうたた寝をして、夜を越えた。
翌朝、は幾分かすっきりした顔をしていたが、どうにも声が出ないようであった。魘されていたことと併せて夜中に話していた旨を明かすと、は熱で潤んだ目を大きく見開く。
〝私はなんて言っていたの?〟
読み書きには問題ないようで、は古びた紙に文字を書きつける。やや迷ってから「覚えていない」と答えた。さほど疑問に思わなかったのか、はそれだけ聞くとそろそろと寝台に身体を沈める。身体が辛いのかもしれない。リックは彼女から名だけを聞き取ってから、よく眠るように言いつけ俺を引き連れて部屋を出た。
静かに休ませるべきだと頭では理解していても、湯を浴びている最中や眠る前に「ごめんなさい」と言ったの姿が頭をよぎり、そうすると自制が不思議なほどうまくいかず、寝顔を確認しに行くのが日課になっていた。
「キィニチ。もしも彼女が魘されていたら、彼女の名を呼んであげると良い」
リックは俺を咎めなかった。助言どおりに名を呼び続ける。の口からは謝罪のみ這い出てくる。手を握るのも忘れない、がそれを望んでいるかは別として……。
傷の治りとともに譫言をいう頻度も減っていったので、の声を聞く機会に巡り合えずにいる。俺は戦闘等の技術を学びながら部族の仕事をこなし、は講学小屋に通いながら畑仕事やトウゴマで縄を編むことを覚えていった。しかし、何日、何十日、何百日と時間を重ねても、の声は出ず、用がある際は合図のように服の裾を引っ張られるのみだ。
「どうした? 俺なら平気だ、これくらいの怪我はしょっちゅうだからな」
言葉がないからか、と共に過ごすうちに彼女の表情を読むのが得意になっていく。これは、不満……? は俺の回答にむずかしい表情をしてみせて、血が滲む二の腕に消毒液を浸した布を当てる。
「突き出していた枝に引っかけたんだ、大した傷じゃない」
こくりと頷き、黙々と手当てを進める。高木の根本に蹲るふたりぶんの影に、風に揺られて剥がれた細かい葉がひらひら落ちる。静かだな、と思った。居心地が良い。の手は怪我をしていなくとも温かく、彼女を拾った当初……数年前の雨の日よりも、随分とやわらかくなった。
とん、と手の甲を叩かれたとき、柄にもなくぼうっとしていた自身に気付いて、どきりとした。〝キィニチ、大丈夫?〟とが手のひらに指先で書きつける。
「ああ、大丈夫だ。……ありがとう」
ひっかかりを感じさせてしまっても、の疑いを緩和させる良い方法など思いつきそうにない。かわりに弛んだ手足をぎゅっと引き締めるよう全身に力を入れて、の手のひらを撫でて、すぐに離す。俺は、いくらの表情を読むのが巧くなっても、自分の思いをかたちにするのは不得意だったのだ。
仕事の依頼が増えるにつれて森で過ごす時間が減り、ひとりで暮らすようになっても、との交流は途切れずにそっと続いている。体力や筋力がいまいち振わないは、その反面、手先が器用で細々とした作業は上手にこなしていた。保存食を作り置きしてくれたり、ときには手当て、また、狩りに必要な用具の作成には大いに助けられている。は〝助けてくれたお礼だよ。いくらしても足りないから〟とは言うが、代償としては足りないくらいだろう。
〝お母さん……だと思う人が、そういうことを勉強していた人だった……んだと、思う〟
そもそも拾った以前に関する記憶が曖昧で、はっきりとわかるのは「喋ることを禁止されていた」ことと「両親がいなくなったため生家を離れて彷徨っていたら竜に襲われた」ことである。たまに、眠っていた記憶がふと蘇るようで、その度に神妙な顔をして紙に書きつけている。
雨の日のは痩せてはいたが、身につけていた衣服は相応に質が良く、古い傷も見当たらなかった。だが「喋ることを禁止されていた」というのはやはり異様な取り決めだろう。だからこそ、過去に強く縛りつけられているは未だに喉がつっかえ言葉を声に乗せられないでいる。それを言いつけたはずの生死不明なの両親に対して、どこか、腹の奥から熱いものが迫り上がってきて、どうにも気分があまり優れないような。
〝自分のことだけどあんまり覚えていないから、本当のことかもわからないの。だから、辛いとかはないよ〟
自分の顔がどんなかたちになっているのかわからないのがこんなに不便だとはゆめゆめ思わなかったのに、の前では予測できなかった内的な変化がしょっちゅう起きる。
「困ったことがあったらすぐに教えてほしい。俺にはお前の願いを叶える義務があるし、お前にはその権利がある」
寄る辺のない心許なさであれば身に覚えがある。今やのそばには族親に加えて数人の大人がいるのだが、彼女のなかにも俺の居場所があれば良いと……それをいつからか望むようになったのかもしれないと、薄ら予感している。
そして、予感が確信に変わったのは、これまでと比較して難度の高い依頼をこなして報酬を得た帰りに、疲弊した足を縺れさせたため虚をつかれ魔物に背を抉られたときである。尽きかけていた力をかき集めて魔物を退治して、家に戻ると血の気のうしなった頭が派手にぐらつき、雪崩れ込むようにして、迎えてくれたの身体に寄りかかる。汚れるから離れなくてはと思うのに、限界だったのだ。
震える腕で俺を手近な長椅子に横たえ、飛び出していってしまった。意識を失う寸前に見たの目には涙が浮かび、顔は驚愕と混乱に彩られていた。
「キ………、…ィ…チ」
大怪我と発熱はいつぶりだろう、あとで反省点を検討し次に活かさなくてはいけないが、頭がてんで働かない。吐く息が熱い。数年前であればこういう状況下では母を思い出していたが、母ではなく、顔を真っ赤にして額に汗を浮かべながら譫言をいうがありありと目の前に浮かんでくる。
「……ニ、チ……、キィ……ニチ」
どこからか、俺の名前が聞こえる。懐かしい声に引き上げられるようにして、意識が鮮明になっていく。まぶたがばかみたいに重たいのが鬱陶しい。
「……キィニチ?」
布団の端を握りしめていたの目の端から涙が落っこちていき、それを拭ってやりたいと思うが、どこもかしこも痛みを訴えており身をよじるだけで節々がぎしぎしと鳴る始末だ。いや、それよりも、そんなことよりも。
「こえ、でるように、なったのか……?」
かすれた声にびくりと肩を跳ねさせたは、ベッド脇の台の水差しを口に突きつけてくるので大人しくそれを飲み込む。冷たい水に喉が充分潤う。一度、咳払いをする。恐々とこちらを伺うは「ずっと前から、ひとりで練習、していたの……」と俯いて涙を零し続ける。
「リックが、名前を呼んであげなさいって。そしたらきっと目を覚ますからって……。私のときも、キィニチがそうしてくれてたんだって、教えてもらったの。そう、だったの?」
「……ああ、そうだな。ずっと呼んでくれていたのか? 喉は痛まないか?」
「私じゃなくて、キィニチはキィニチの心配しなきゃだめだよ……」
ぐずぐずと鼻を鳴らすは眉を寄せて目元をごしごしと拭う。皮膚が擦れて赤くなってしまわないかが気がかりで、止めさせたい一心で手を握ってくれないかと請えば、すぐに望みは叶えられた。
俺を寝かせたあと、すぐに集落へ走り医者を呼んでくれたのだという。外を駆ける自由を制限されていた幼少期の影響もあるのか、はあまり走るのが得意ではないのだが、そのが真っ暗な夜に飛び出していったことを思うと頬がカッと熱を持つ心地がする。胸のあたりがむず痒い。平生よりも冷たい指先をぎゅっと握り込んで、頭を枕に沈めて目をつむった。
「俺が眠っているあいだもこうしていてくれるか?」
「うん。……あと、キィニチの名前を呼んでいてもいい?」
「……そうしてほしい。だからこれは……俺のお願いになるな」
が俺の名を呼ぶたびにとろとろと浸っていた微睡みが薄れ、握り込んだ手のかたちを確かめる。「キィニチ」と何度も何度も切実に、丁寧に呼ばれると、自身が上等なものになった気にさえなる。
あれから、は少しずつ俺以外の人間とも会話をするようになった。その時分、彼女の声を独り占めしている状況に後ろ暗い優越感を抱き始めていたので、それがなくなったのには安堵したが、落胆も感じる。いよいよ頭がどうにかなっているのかもしれない。
古龍クフル・アハウと契約し、古名を得たのちに神の目を授かってから、英雄に関する文言を都度思い出す。内に英雄たらしめる高貴なものがあるかどうかは別として、仲間や故郷を守りたいという意識を持っているとはっきり断言できる段にはなっているし、そのひとりは、他の誰よりも長い時間をそばで過ごしてきたである。
誰にも替えがたい存在であるとじわじわと認知が進んで、形容しがたかった己の感情がどんなものか検討がつきはじめている。かといって、それを口に出したり、あまつさえ態度に出すのはやはり憚られる。変わらぬ日々が与えてくれるものが崩れることの方が恐ろしい。
しかし、連綿とした日常は俺が意識するしないに関係なく、他の誰かによっても変化を打ち込むことができるのだ。ある日、家を訪れたは腕にひっかき傷を作っており、顔面は血の気を失って白く、指先をかたかたと震わせていた。
「……き、キィニチ」
人の爪で引っ掻かれたのだろう、肌の上に線を描く傷は赤く腫れ上がっていて痛々しい。
「……誰にやられたんだ?」
低い声がを怖がらせている。本来であれば、扉のそばで立ったままでいるべきではない……余裕がなく、見苦しい。彼女の声が封じられていたときに感じたものとよく似た感情が湧き、深く息を吸って頭を冷やす。
「ひとまず手当をしよう」
「待って、キィニチにお願いがあるの」
「なんだ?」
踵を返した俺の服の裾を掴む手に引き止められ、そうされるのは久方ぶりだと、場違いな回顧に浸る。
「ちょっとだけでいいから、手を握ってくれる……?」
そんなことでいいのか、と疑問が喉をついて出そうになるが、お願い、と震えた声で重ねられれば断る理由もなくなるというもので、の震えている指ごと手をぎゅっと握る。痛くないかと問えば首を横に振る。ややあって、手首に熱い雫がぼたぼたと落ちてきた。驚愕し肝が冷えて顔を上げる。声を上げずに肩で泣いているはひどく苦しそうで、せめて少しでも息がしやすくなれば良いと、頭を胸に預けさせて背をさする。抵抗はなかった。胸のあたりがひどく熱いのは、の温度によるものか、俺によるものかはちっともわからない。
泣き疲れてぐったりとしたは「もう大丈夫、ごめんなさい」と言ったきり無言を貫き、傷の手当をしたあとは集落に戻ると言って聞かないので、半ば無理やり家に留めてベッドに寝かしつけた。間もなくうとうととして眠りに追いやられるの手の甲を撫でる。手を握られるかと思ったが、その手が指に絡むことはなかった。
あれから数日経つが、は気丈に振る舞っているようで、ときおりぼうっと物思いに耽っている。彼女を害するなにかが未だ存在しているかどうかも不明で、無力だった数年前の自身に現状が重なって頭が痛んだ。
「は元気にしてんのか?」
集落に立ち寄り食料の買い出しを終えて帰ろうとしているところを、伝達使の男が背に声を投げかけてきた。
「なぜ俺に聞くんだ?」
夕刻になったばかりだというのに男は酒臭く、顔を赤らめている。仕事は早いが粗雑な男であった。なにがおかしいのか、返答も寄越さず喜色をうかべて近寄ってくるのを無視して左手に滝を臨み、橋を渡ってもしつこく付き纏われて閉口する。立ち止まって睨みつけるが、下卑た笑いを止めない。
「この俺の誘いに乗らないってことは、お前が躾けてんのか?」
「何の話だ」
「だよ。英雄さまも良いご身分だよなあ、女を好きに囲えるんだから」
英雄さまにいくら貰ってんのか聞いても教えてくれなかったんだ、実際どうなんだと男が言う。酒気がこちらまで漂ってくるのが不快だったが、話の内容はそれよりもさらに不快なものであった。
引っ掻き傷のできた肌と、震えた指先がまざまざと思い起こされる。つまり、は、この男に……。
そこに思い至るのと、ペイントで彩られた土壁を殴りつけるのは同時であった。拳を引くと細かな土がぱらぱらと地面に落ちるのを、現実感もなく眺める。男は真っ赤だった顔をさっと青ざめて、なにやら取るに足らない罵詈雑言を吐きながらそそくさと集落の方へと駆けていく。
誰の許可を得て、勝手にに触れているんだ。
強烈なまでの衝動と、自動的に浮かんだまるで身勝手な考えに吐き気がする。は決して、俺のものではなく、はのものでしかない。
先日の己に倣い、深く息を吸ってみるが、今度ばかりはしばらく頭は冷えてくれそうになかった。
後編
熱を出して魘されているとき、キィニチがよく手を握ってくれたのを、これまでもこれからも、きっとずっと覚えている。
私の命がキィニチに拾われるまえの思い出はひどく朧げで、かろうじて記憶に引っかかっているものはあまり良い内容ではない。だからこそ、懸崖の里と、眩いばかりの青々とした森と、キィニチがくれたあらゆるもので、私は作りあげられている。
伝達使の男はこう言った。お前はキィニチから金をもらっているんだろう、と。雑貨屋の店先や伝達局の受付で大きな声をあげている姿を見かけたことがあるので、顔くらいは知ってはいるが、好んで友好関係を築いた相手ではない。それが突然、腕を掴まれ酒に酔った口調でそのようなことを言うものだから、呆然として喉が固まってしまった。
さらに言葉を続けた男は、英雄さまほどは出せないが、金をやるから暇なのであれば俺の相手もしてくれないか、と侮辱めいた笑いを混ぜた声で言う。
「ちが、違います……、離してください」
大きな声をあげようにも、喉が震えてまともな音は鳴らず、不格好なか細い声だけが木目にぱたぱたと落ちる。思い切り腕を振り払ったとき、男の厚い爪が皮膚を割いたが、なりふり構っている余裕などはどこにもない。
振り上げられた手に、殴られる予感がする。すでに感覚を失った足を叱咤し、駆け出す。男は酒に酔っているためか歩行がかなり怪しかった。振り下ろされた大きな腕は空を切るのみで、男の足はあさっての方向に歩み、充血させた目だけがじっとこちらを睨め付けていた。
放っておけばいずれ消えるであろう引っ掻き傷を流水で洗われ、化膿止めの軟膏を塗り込まれる。集落からすこし離れた土地に建つキィニチの家へ駆け込んだのはほとんど無意識で、縋るように手を握ってほしいとせがんだ私をキィニチは咎めず、手を握るだけではなく背まで撫でてくれたのである。
「手当までさせちゃって、ごめんなさい」
気遣うようなやわい力加減で背を撫でられているうちに、あれだけ忙しなくなっていた呼吸が落ち着き、手当が済んだころには震えていた足の先にも血が巡ってきた。これなら集落まで帰るくらいの体力は絞り出せそうであったが、キィニチはその選択肢にあまりいい顔をしなかった。「平気だよ」と重ねて言っても、決して首を縦に振らない。
「……平気じゃない。俺には、平気なようには見えない」
泣いたせいで熱を持った目元に、キィニチの指が這う。常日頃嵌めている手袋は脱いでおり、素のままの肌が熱を奪ってくれているようだ。思わず目を細める。背を撫でられていたときもそうだけれど、キィニチに触ってもらうと、安心して眠たくなるような……抗えない心地よさに全身を包まれてしまう。
そうやってできた余裕の隙間に、伝達使の男の言葉が入り込んでくる。あの男は、キィニチが彼自身の立場とお金を利用して、私を好きにしているというようなことを言っていた。私がこうしてキィニチのそばで優しさに浸っていることがすなわち有らぬ憶測を生み、周り巡って、キィニチの評判を下げる可能性があるのだとしたら……。
「言いたくないことであれば、なにも聞かない」
キィニチの手が手の甲に重なり、服の裾を強く握る私の手から力を抜いていく。
「だから、今日はここで眠っていってくれないか」
重ねられた手を振り払うのは簡単にできるだろうけれど、思いとは裏腹に私の手はキィニチの手に包まれたままで、甘えてはいけないと思えば思うほどキィニチに寄りかかってしまう情けなさに、また泣きそうだった。
呼吸を整えてから、わかった、と頷けばキィニチはあからさまにほっと息をつく。
ベッドに寝かされ、どっぷりとした疲労を知らしめられる。まぶたが重い。キィニチの手だけが、あたたかい。眠っているあいだ握ったままでいてくれるはずの手だった。だけど、せめて……。布団のなかに手を差し込み、背を向けるようにして寝返りを打つ。それを最後に、私はずっとキィニチに触れていない。
族長のワイナはショコアトゥル水を出して「最近調子はどうだい?」と聞いてくる。族長の家で話があるというのだからどんな重大な話かと身構えていた矢先だったので、牧歌的な質問に拍子抜けして「調子は大丈夫です」と答えた私の声は、どこかたどたどしい。
「そうか、それなら……あとは、なんだ。そうだ睡眠。眠れているか?」
「ねむ……? はい、眠れています」
「食事は摂れているね?」
「摂れています。……あの、どうかしたんですか?」
絶え間ない健康観察に疑問を示せば、ああ……と俯いて頭を掻き、まったくあいつは……とぶつぶつ呟く様子にただごとではないと思い、飲み物が注がれたコップをテーブルの上に置く。
「最近、キィニチと会ったか?」
会ってないです、と答えるのに、数秒もかからなかった。
キィニチの家で眠ってから数日はそのまま留まってぼんやり過ごしていたが、ある日、任務から帰ってきたキィニチに「しばらく家を空けることになると思う」と告げられ、暗に「帰れ」と言われているのだと解釈し、集落に戻ってからは一度もキィニチに会っていない。
「そして君も、最近はあまり出歩いていないみたいだ」
「ええと、……はい」
「伝達使の男が君に余計なことを言ったのと関係しているのかな」
机の上に力なく落ちた指先がかたんと乾いた音を立てる。
「すまないね、キィニチから聞いたんだ」
「キィニチがどうして……?」
いわく件の男は私に話した同様の内容をキィニチにも話して知るに至ったという。知られてしまったのだという事実に、臓腑にずしんと重いものが落とされた心地がして、息が苦しくなる。
「だから、キィニチは君が安全に生活しているかものすごく気にしていたよ。任務の切れ目に、集落に戻るたび、毎回。多分、族長として部族の管理をするようにって言いたかったんだろうけど、そこまでは言わなかったな。でもまあ、そういうことだろう」
からからの喉にショコアトゥル水は甘く沁みて、やっぱり私は泣きたくなる。俯いて服の裾を握って目の奥の熱さをやりすごそうとするが、あまり効果はなかった。
「さっきあれこれ聞いたのは、君がどうしているかキィニチが気がかりにしていたからなんだ。私が曖昧な返事をすると不満そうになるから……。自覚はないだろうけど」
言葉の切れ端を掴み損ねて、また目線を落とす。
「……いや、すまない。君にとっては嫌な思い出なのに、あれこれ話しすぎたね」
「あ、いえ……私がっていうか、キィニチが」
「キィニチ?」
「私は、私が嫌なことをされたり言われたりするよりも、キィニチを馬鹿にするようなことを言われることのほうが、ずっと嫌で……」
テーブルを挟んだ先から思い切り腕を伸ばしたワイナは私の頭をわしゃわしゃとかき回して「そうかそうか、そりゃそうだよな、うんうん」と快活に笑う。
「君たちがお互いを大事に思っているのは、傍目にもよくわかる。でも今回は、言葉が足りないんじゃないかな」
日数を要する任務に従事しているときや、帰火聖夜の巡礼に参加しているとき……夜巡者の戦争へ旅立ったとき。なにも、キィニチと会わない期間が数日単位にのぼるのは初めてではない。顔を合わせれば数日の空白は簡単に埋められたし、それよりもっと前の幼いころだって、意思疎通に関して苦労とは無縁であった。
「小さいころ、ずっと声が出なかったんです。そのとき、なにも言わなくてもキィニチがなんでも気づいてくれて、一緒にいてくれて……たぶんそのときから、ずっとこれからも、キィニチと一緒にいるんだって勝手に思ってたんだけど」
キィニチと過ごす時間がいちばんに長かったけれど、他の人にするよりも、紙に言葉を書きつける頻度が低かったように思う。ときにはキィニチの服や手を掴んで呼ぶことはあれど、キィニチはとても察しが良くて、してほしいことや思っていることを言い当ててくれるのも、しょっちゅう。たぶん、キィニチは私の表情を読むのがとても上手なのだろう。
そうして日々を重ね、これからもずっと一緒にいられるのだと、漠然と思っていたのに。
「でもいまは、キィニチに会えないから、どうしたらいいか……」
「どうして会えないって思うのかな」
にこりと笑うワイナに「飲みなさい」と促されて飲んだショコアトゥル水はやはり甘い。甘いぶんだけ、脳が働く力になる。
「会おうとしないと会えないものだよ、だいたいの人はね、たぶん。だから、キィニチに会うためにはどうしたらいいと思うのか、ちゃんと自分で考えなさい」
コップの中身を飲み干して、それを置き、ゆっくりと息をする。甘い。頷いてからワイナに言われたとおりに「キィニチに会うためにどうしたらいいか」を考えたら、答えは時間を待たずにすんなりと頭の上に降ってきた。
聖火競技場の門をくぐり、ガイド兼伝達使の仕事として同行してくれた女性と別れる。いますぐキィニチの拠点に行く、と言って椅子を引き倒す勢いで立ち上がった私に目を瞠り、やっぱりウィッツトランの子だなあと感心したワイナは、ただし腕の立つガイドをつけるようにと言いつけたのである。私の腕っ節では、懸崖の里からキィニチが現在拠点にしている聖火競技場へとたどり着くだけで、薬品を無駄にしてしまうだけだろう。
草臥の家に荷物を置いてから、露店、鍛冶屋、コホラ竜の池を横目に、キィニチを探しながら、競技場の外へと出る。景色がすべて橙色に呑まれ、切り立った崖の向こうからは星々と濃紺が迫ってきている。頰に冷たい風を受けつつ、恐る恐る崖の下を覗き込んでキィニチの姿を探す。見当たらない、それはそうだ。キィニチがわかりやすくのんびり歩いているはずはないとようやく気がつき、踵を返す。夜はもう足下まで迫ってきているのだ。崖下の探索は明日やるのがよい。
「キィニチ……?」
夕食を調達しようと露店を見て歩いていると、人混みキィニチの後ろ姿が紛れているのに気がついた。何日も何百日も一緒に過ごした相手を、それがたとえいつも巻いているバンダナを外していようとも見紛うはずもなく、数日ぶりの姿に思わず名前を呼んでしまったが、声は喉元で潰れてしまい、その次に至らない。まぶたが急激に熱くなったからだ。反射的に口を押さえて、目をぎゅっとつむる。それから宿へ一直線に駆け出した。
「な、なんで、先回り……?」
草臥の家で待っていたキィニチはバンダナだけではなく手袋を外した軽い装いで、「お前が見えたから先回りした」とさらりと言いのける。呼吸を整えるのにそれなりの時間を要した私とおなじ動線を辿ったとはとても思えない。
「私がここに泊まるって知ってたの?」
「ワイナ族長から手紙と依頼状を預かったからな」
「手紙……。あの伝達使の人ってもしかして」
「そういうことだ」
だからといってよもや簡単に見つけ出されるとは想像だにせず、目の前のキィニチが本物なのか疑ってかかるほどの事態である。名を呼ぶ声が届いたのか、無様な駆ける音が聞こえたのか……。
族長からキィニチへの依頼内容は「任務が終わり次第を連れて集落に戻ること」とのことで、キィニチは明記されていた対償と引き換えに依頼を受理したようだ。私はただただ、恐縮するばかり。
「……この場合、契約関係は俺と族長にある。お前が嫌がろうが、反故にはしてやれない」
「いやとかじゃ……ない」
「だったら」
はたと口を閉ざしたキィニチは唇に手のひらを押し付けて黙りこくる。持ち上がった腕に巻かれた包帯に、滲む赤色。
「腕、怪我してる」
ためらいを忘れて伸びた指先をキィニチの腕にあてて呟くように言う。
「大した怪我じゃない」
今よりも背の低いキィニチと同じ台詞を紡ぐ声は、あの頃よりも低い。手首を掴めば、キィニチを支える骨の硬さを思い知る。しばらくぶりに触れたキィニチのかたちが懐かしくて、同時に愛しく、名前を呼んだときと同様に目の奥に熱が生まれる。その熱はまばたきでは殺しきれずに、目の端がじわりと滲む。キィニチが息を呑んだ気配がする。
部屋の場所を聞かれて、素直に答えてのろのろと歩き出す。手を引いてくれているから俯いていても迷わずに到着して、部屋に入るなり手を離されたものだから、逃さないように指をまとめて掴む。
「……嫌じゃないのか?」
さきほどから私がキィニチといるのが嫌だと思っているかのような疑問を投げかけてくるのは、私の曖昧な態度がそうさせているのだろうと、とんでもなく切なくなってしまう。キィニチは私の表情を上手に読むけれど、今の私はうつむきがちのどうしようもない代物でしかない。
「嫌じゃないよ。あのときも、キィニチが手を握ってくれたから、大丈夫になったの……ありがとう」
顔を上げればむつかしい顔をしたキィニチがいた。キィニチのほうが、泣きそうなのかもしれない……どうして?
「でも、最近はキィニチが近くにいなくて怖かった。私のせいでキィニチが変な噂をされてしまうことになったら、それはもっと怖くて嫌だけど、でも一緒にいたいって思うのをやめられなくて、どうしたらいいかわからなくて、とにかくキィニチに会わないとって思って、あの……ごめんなさい、ちゃんとしたいのに、うまくまとまらない」
言葉を重ねないといけないのにみっともないくらいに下手くそで、右往左往しながらも想いをひとつひとつ口にするたびに、胸の内に仕舞っていた大事なものを取り出して差し出すような、恐れと緊張と期待に襲われる。
手と手を繋ぐのが精一杯で、ぎゅっと力をこめる。離して欲しくないと烏滸がましくも切に願う。
「ちゃんとしていなくていい。まとまらなくても、つっかえても、なんでもいい。俺は、の話が聞きたい」
ベッドの縁に並んで腰掛け、絡んだ指をきゅっと結んだキィニチは顔を覗き込むようにして言う。
「……私は、キィニチの話が聞きたいよ。今なにを考えているの?」
繋いでいないほうの手で湿った目尻を擦る。視線を合わせたまま送った言葉がきちんと届いてくれますようにと祈り、しっとりとした沈黙に身を委ねる。
「今は、のことを考えている」
「私の……どんなこと?」
「……はかりかねているんだ、どこまでに触れても良いのか。どこまでなら、許されるのか」
水色の窓硝子をすり抜けて部屋に入り込んできた星の光が、数日前まで引っ掻き傷が刻まれていた肌を淡く照らしている。部屋全体が薄い膜を張っているかのように曖昧で、なにもかもが厳かな空気を纏っている。キィニチの指が私の腕をなぞる。痛くもなんともなく、傷跡すら残らなかったそこに、まるで目に見えない線が引かれているような……それを労っているような、控えめな手つき。
「どこまでってそんなの……。ぜんぶ、いいよ」
視線が噛み合い、途端に逸らせなくなった。こうして長い時間キィニチを見つめ続けるのは、久方ぶり。顔を見ているだけで心臓がどくどくと膨らんで萎むのは、生まれて初めて。
「それくらいキィニチのことが好きってことだよ……」
今や見えない傷ができたときと同じくキィニチの手首に涙がこぼれ落ちると、あのときのように抱き留められるのではなく、両手で頬を包まれた。
「か、顔、ぐちゃぐちゃなの、見ないで」
「悪いが、嫌だ」
「嫌って……」
「やっと触れられたんだ。全部見せてほしい」
「遠くに行ったのは、キィニチなのに」
しめりけを帯びた頬に触れているというのに嫌な顔をひとつもしないキィニチは、眦をやわらかく緩めて、私のおでこに唇をくっつける。悪かった、と謝罪する声はかすれていて頼りない。
「お前を傷つけられたことがどうしても許せなかった。でもそれは俺の独善だから、身勝手にに触れてしまいそうになる前に、頭を冷やしたかったんだ」
だが、帰ってくるまえに来てくれるとは、まったく思っていなかった。驚いていたら、名を呼ぶ声が聞こえた。振り返ったらすでに走り出している最中で、逃してはならない一心で脇目も振らずに追いかけた。
気恥ずかしくも喜ばしい告白に、キィニチの手のなかでどんどん赤面していくのがわかる。ふ、と微かに笑われて羞恥がさらに降り積り、包帯を避けて腕に手をかけて、頰から手をはずす。
ベッドの上で身体の向きを変え、腕を引かれれば胸のなかにすっぽりと包まれる。そうされると、胸の拍動の忙しさとともに熱いものがお腹から込み上げてきて、身体がぎゅっとなって甘苦しい。
「キィニチが身勝手でも、嫌いにならないよ」
「……あまりそういうことを言われると困る」
「どうして?」
「お前のことを、大事にしたい」
「大事にしてもらってるよ。小さいときから、ずっと」
背に腕を回すまえに思い立って、合わさっていた身体を離す。淡く朱のさす頰のてっぺんのさらに上の、普段は隠されているおでこに、キィニチがしてくれたようにそっと口付けをしてみる。唇をくっつけたところから肌が色づいていくさまを間近で見ていると、キィニチが「好きだ」と言った。星のあかりだけに照らされた部屋に溶け込ませてしまえるような、とても柔らかい声だった。