公爵はその日、行きつけの紅茶店ではなく、彼が履くためのサイズやデザインが似合うものが陳列されているとは到底思えない靴店へと、足を運んだ。一通りの靴を眺め、しばし迷い、それでもさほどの時間をかけずに目当ての品を選び購入するなり、フォンテーヌ廷の外へと歩んでいく。
目的地は近いとはいえないが、彼の脚力をもってすれば、そう苦労する道のりでもない。市井が遠ざかるごとに、鳥の鳴き声が増え、波音が鼓膜をゆすり、魔物の姿が見受けられるようになる。それらは、メロピデ要塞を統べる者の力をもってすれば、歩くことそれ自体には支障はなく、一昨日にあった出来事を想起する余裕すらあった。
一週間ほど前である。ひとつ、監獄で問題が起きた。囚人同士の些末なトラブルである。その場はすぐにおさまった。それで、終わるはずであった。しかし、その日、リオセスリは夢を見た。件の囚人はまだ幼く、少年と称するべき年齢であったためだろうと、リオセスリは冷静に関連づけた。彼自身が少年と呼ばれる時分、囚人であったころの記憶が眠っているあいだに再生されたからである。そういった日は、数日も続いた。いやな記憶による不快な感覚は眠りを浅くさせ、疲労は蓄積されていき、紅茶の味も、香りも、すべてが遠いもののように思えてならなかったのである。
幼いころの友人と共に、幼いころに好きだった菓子を食べたのだと話す、のやわらかくも好ましい声。それがなぜか、疲労に支配された脳にびりびりと響き、つんと痛み、せりあがる熱とともに、やけに硬く冷たい声音が薄暗い執務室に転がっていった。
「それが、あんたになんの関係がある?」
リオセスリは子どもの頃に好きだったお菓子はあるの? という問いに対する、リオセスリの返答であった。常ならば、「さあな、どう思う?」「この間、あんたとティータイムに食べたケーキが気に入っている」と、一線を引きながら躱せたはずだ。口から出る言葉を制御しきれていない己の未熟さに驚きはしたが、二の句ですら刺のあるものとなりそうであった。逡巡は不要だった。
「……紅茶も冷めてしまったな。あんたは、そろそろ帰ったほうがいいんじゃないか」
リオセスリからの明確な拒絶にかちこちに固まっているの、縋るような視線に、それでも絆されかけたのは否めない。自身よりも細い手首を掴み、無理やりに執務室から追い出すほどの度胸は不思議とわかず、沈黙を守っているその人間の弱々しい視線が、履き慣れてくたびれきっている靴の爪先に向けられているのを、彼も同じく、じっと見つめている。
メロピデ要塞の公爵たるリオセスリの執務室の扉を叩く音を機に、は訪問者である旅人とすれ違いに、水の下をあとにした。扉へ向かう階段をくだる最中、一度たりとも、振り返ることはなかった。
○
リフトを使って水の上に出てもなお、リオセスリに投げられた「それが、あんたになんの関係がある?」という言葉が頭のなかをぐわんぐわんと揺さぶり、平衡感覚を失った足でふらふらと歌劇場の裏のベンチに腰掛けた。立ち入りすぎたのは、明白であった。だから、これは私の落ち度だった。
昼をすぎて、夕刻に差し掛かっても、立ち上がる気力は取り戻せていない。建物の円形を縁取るようにして設置された、外灯がわりの揺れる炎をながめていると、そのうちに旅人がリフトに運ばれてきた。彼は人好きする笑みをうかべて挨拶をしてくれたが、私のほうはひどくぎこちない表情と硬い声にてお返しをしてしまったので、どうかしたの、と気遣われてしまう。
「ねえ。公爵となにかあった?」
いくつもの国を行き来したという経験豊富な彼は、執務室前ですれ違ったとき、すでに、私がひどい顔をしていたのに気づいていただろう。
「……すこしだけ」
答えにもならない返答に、旅人は飴色の目をゆったりと緩めて、そっか、と呟き、隣に腰掛ける。
「公爵も変だった」
リオセスリの機嫌を損ねさせ、非のない旅人に良くない影響を与えたのだとすれば、あまりにも申し訳ない話だ。謝罪を述べるが「いいよいいよ」とあっけらかんと笑う旅人は鷹揚そのものだった。それどころか、旅人は「じゃあ、気晴らしにフォンテーヌの北部に遠足しに行こうよ」といった提案まで持ち出してくる。なんでも、爆発事故に見舞われたフォンテーヌの北部は、人間こそ少ないものの、廃墟がありのままのすがたで残っており、歩いているだけで普段は目にできない景観が楽しめるのだと教えてくれた。
「あ、でも公爵に許可を取ったほうがいいのかな。つまり、君を連れ出す許可ってことなんだけど」
「リオセスリに……? どうして?」
「俺、これでも男だよ」
陽光を照り返すレモンイエローの髪をひとまとめに編み、やわらかな表情をしている旅人は、見ようによっては中性的とも捉えられるが、引き締まった体つきや、うっすらと浮き出た喉仏は男性のものだ。勘違いを正すのではなく、念を押した旅人は「とにかく、行ってくるね」と、今ほど使ったばかりのリフトにもう一度乗り込んで、要塞がある水中へと吸い込まれていく。
リフトの起動音が耳に届くまで、それほど時間はかからなかった。予想通り、リオセスリが旅人に寄越したのは「了承」だったのだろう、じゃあ行こうか、と笑い掛けられて、どこか胸が冷えてしまった。それは旅人の好意を無碍にするようで、決して言葉にはできなかったのだけれど。
ゆるやかな勾配の道を旅人につれられて歩みを進める。出発は翌朝で、旅慣れている彼の装備に甘えて、大した身支度もしていない。なんにもいらないよ、と言われたのも事実である。
さらに、戦闘の心得のない私に対して、旅人は終始親切で、マシナリーをはじめとした魔物は旅人が追い払ってくれた。これでは旅人は単なるツアーガイドである。
「そっち、足元に気をつけて。木の根が剥き出しになってるから。躓いたら危ないよ」
魔物が遠くに認められたらその場から動かないようにときつく言いつけられ、木の根が出っ張っている道を避けて歩くようにと指示され、進んでは止まり、止まり、また止まり……、安全ではあるが、順調とは言い難い旅路であった。
「……ねえ、私、そんなにどんくさくないよ。確かに戦えないけど」
過保護と言って差し支えない遠足が数時間にわたって繰り広げられ、幾度目かわからない「休憩時間」に皮を剥かれたバブルオレンジを手渡されたのを切っ掛けに、とうとう不満が漏れ出た。目的地がどこであるかは不明だが、これではただの足手まといだし、どこにもたどり着けそうにない。
「いや、まあ……そうだろうけど。になにかあってからじゃ遅いから」
「私は戦えないけど、少しの怪我くらいすぐに治るし、そんなに気にしなくても大丈夫だよ」
「……一日や二日で治るものであれば、それでいいんだけどさ」
歯切れ悪くぶつぶつと呟く旅人はそこそこ挙動不審であったが、土埃がたまってところどころ朽ちて削れた階段をのぼっても無事でいるのは、旅人のおかげだ。
「言い出しっぺの俺が、もしに怪我でもさせたら、公爵に申し訳が立たない」
旅人がリオセスリに義理を立てる必要が、果たしてあるのだろうか。是も非もはっきりとしている男だ、いやならいやであると……私が「異性」である旅人とふたりきり(正確には、彼の仲間である喋る仙霊らしき少女との三人)で遠出をすることに対する許可をおろさないはずだ。
黙ったままオレンジを齧ると、酸味はほとんどなく、やたらと甘かった。強い日差しを実が一心に受けているからだろう。果汁がぱちんと弾ける。橙色がかかった陽光を左目に、南の方角を見つめる。それなりに遠くに来たのだなと思うと、身勝手な寂しさが心の内側から這い出て、目の奥がじんと染みて泣きたくなった。
管理局とは名ばかりの、朽ちた建物の壁に本棚がどうにか張り付いている頼りない建物だった。細波が水面にうつった月のひかりを巻きこみながら引いていく。静かでいいところだと思った。
今日はここに泊まろうか、と提案されて、内心ほっとする。なにせ、あれほどゆっくり歩いたというのに遠足に不慣れな足裏はじわじわと痛みはじめていたし、靴のほうも、復路を終えたら買い替えなければならない有様だ。
「熱いから気をつけて。やけどしないようにね」
慣れた手つきで作られた肉のシチューが盛られた器を渡される際にそう忠告されて、これはあれだ、とどのつまり、子ども扱いされているのかもしれない。
近辺の魔物は旅人が追い払ってくれたし、科学院の関係者は夜営を受け入れてくれた。食事はあたたかくて美味しく、星空がきれいだった。メロピデ要塞を訪れた昨日が、うんと遠くに押しやられている。それはほっとすると同時に、物悲しい。だからなのか、旅人が「なにか力になれることはある?」と、公明さを孕んだ表情で問いかけてきたときに、首こそ横に振ったが、口からは本音が押し出されてしまった。
「いざとそれを知ってどうするのかって聞かれたら、きっと答えにつまるくせに、なんでも知りたいって思うのは、身勝手だよね……」
触れてもらう頻度が増えたから、どこかで勘違いが始まっていたのかもしれない。いつもは隠されている彼の、取り繕わない感情を向けられるのは本来であれば喜ばしいことのはずなのに、その先の未来を思って身が竦むほどには、私たちの関係は安定していなかったのだ。
「……この景色をみてゆっくり考えて、気づけたの。だから、今日は連れてきてくれてありがとう」
改めてお礼をすると、神妙な顔つきの旅人が、ねえ、と口を切った。
「俺がを連れていきたいって言ったら、公爵はなんて言ったと思う?」
好きにしろとか、そういった類だろう。そうでなければ、いまの私はここにはいない。
まじめな顔つきを崩してにこりと笑った旅人は、しかし、(主に私のお世話で)随分と苦労したはずの旅路をものともしないしっかりとした顔色で、心底楽しそうに言う。
「公爵はね、やだ、みたいなことを言ってたんだよ」
○
ちょっとだけ遠出してこようと思うんだ。そう遠くはないよ、一泊か二泊はするかもしれないけど。
からりと気安く提案した旅人に投げられたのは、短くも硬い声であった。
「許容しかねる」
噛み合った視線が鋭く、旅人は背筋が痺れるような心地に襲われた。それはしかし、細く吐き出された呼気で幾分か和らげられた。
「だが、俺にの選択を支配する権利はないな」
「……そうだね」
「ああ、だから本人次第だ。俺が駄駄を捏ねようが、そんなものは、一切、ひとつも、関係ない……」
言い聞かせているような呟きに、喉奥でため息を押し殺す。子どもの癇癪であれば、いやだ、と顔に書いたとおりに駄々を捏ねて彼女を連れ出さないように尽力したに違いない。だが残念ながら、リオセスリは節度と強固な理性をもった大人の男であった。
実を言うと、すんなり許可されると思っていたのだ。旅人がに対して友情の他に抱いている情などないとリオセスリは承知しているだろうし、にしてもまた然りだ。
寝不足に悩まされておらず、気が立ってもおらず、公爵ととの間に安定した空気が流れているのであれば、といった状況下に限られるが。
「わかった」
つい、と向けられる視線に促されて、行程についてなるべく細かく説明する。考えうる限り、旅人は一番安全なルートを選び取ったし、リオセスリは一見して渋々納得したようであった。だから、あとで追いかけるなり、好きにすれば良い。
○
鍵がかかる扉がなく、風を塞ぐ窓もないというのに、ずいぶんとたっぷり眠ったようだ。
目を覚ましたのは昼近くで、すでに起きていた旅人が昼食の準備に取り掛かっていた。ゆっくり眠れた? と笑う旅人の視線が寝癖に向いていたのを察して慌てて髪を手で押さえつける。
「お昼ごはんを食べて、休憩したら、戻ろうか」
昨晩と同様に旅人が作った料理を食べたあと、周囲を探索してくるから休んでて、でも危ないから遠くに行かないでね、と昨日と同様の過保護な言いつけを残し、旅人は姿を消した。
岸まで降りて、靴を脱いで水に足を浸す。疲労が残る足先に冷たい水がじわりとしみて気持ちがいい。向こう岸にも廃墟がみえる。開けた景色、青い空、鳥の鳴き声。それらとは無縁な水の下が、無性に恋しくなってきているのだから、あれほど反省したというのに、私という人間はどうしようもない。
天然の芝草を踏み締めるざくざくとした音が耳につく。旅人が戻ってきたのかと思ったが、彼が立てる足音よりも重量があるような気がして、魔物かと身構えて恐る恐る振り返ったら、そこにはリオセスリが立っていた。やや疲れた顔をしているようにも見える……目の下にできているのは隈だろうか。
「予定通りの、安全な行程でなによりだ」
足指の隙間をさわさわとすり抜ける細い草に拘束力はないが、ここまで来るまで、旅人に散々「危ないから好きに動き回らないように」と言いつけられていたのがしっかりと染み付いている私は、岸辺に座って、浅瀬に足を浸したまま、濡れた草が揺れる感触を足裏にうけて、リオセスリを見上げている。
合わせる顔など持ち合わせていないのに、相手が先にやってきてしまった。
ゆったりと歩いてくるリオセスリは、傍にしゃがみ込む。びくりと肩を跳ねさせた私に「悪い」と言いはしても、それでも離れなかった。
「ひとつ、考えたことがある」
ふたりの関係を終わりにされるという予感がひしひしと伝わる。足をがむしゃらに動かしていなければ、すぐにでもこの場から逃げ出してしまいそうだ。
「……与えられたいと思ったり、与えたいと思ったりするのは、俺にとっては、幸福なことなんだろうな」
リオセスリにしてはぼんやりとした発言に意図を掴み損ねる。与えられたいと思ったり、与えたいと思えるような関係が、穏やかだったり騒がしかったりしながらも、ずっとずっと、この先も続いていく。そんな関係が、ずっと続くのなら……。
「いまの俺にとっては、あんたが全部だよ。昔のことは忘れちゃいないが、あんたといるといままでのことが全部吹っ飛ぶのは、本当だ」
冷えたままでいるのはよくないと、リオセスリは私の足を水から引き揚げて、柔らかい布で水気を拭き取っていく。それから、脇に抱えていた木の箱の中身を取り出し、真新しい靴を履かせてくる。サイズに寸分の違いもなく、ぴったりと足に馴染んだ靴に、何度も目を瞬かせてしまう。
「一昨日は、きつい言葉をかけて悪かった」
詫びの品と言いたいのか、二度目の謝罪を口にしたリオセスリは両足をおさめた靴を見て満足げに笑っている。そうしてまた、離れたくない理由がどんどんと増えていく。
「……私こそ、その、踏み込みすぎて……。それに、いままでも無神経なことを言ったかもで……。ごめんなさい」
旅人がくれたバブルオレンジを咀嚼しているときよりも、ずっと泣きたくなっている。
まさか追いかけてくるとは思わなかったこと、くたびれた靴のかわりに真新しい靴をくれたこと、それを手ずから履かせてくれたこと、「私が全部」だと教えてくれたということ。それらが許容できる限界を超え、頭の上からばさばさと降りかかってくる。熱い涙がじりっと目の端を焼く。
「ところで、俺はあんたと旅人が一日かけた距離を、あんたを追いかけるために、半日もかからずに歩いてきたんだ。褒めてくれるだろ?」
鼻をすする。低い声に思考を甘くかき混ぜられる。肩に額を押し付けて、目を閉じた。
さわさわと波が寄ってくる音に、リオセスリの鼓動が迷い込んでくる。その愛しい音に耳をすませると、もう、私だって、リオセスリのことしか考えられない。
「……いまの私に、してほしいことがあるの?」
「もちろんあるさ。ひとまず、その靴を履いて俺と一緒に帰ってほしい」
ついでに、今晩は一緒に眠ってくれると助かる。
目の下をいろどる隈を指でなぞる。いいよと答えるかわりに、目の端っこにちょんと唇をくっつけた。
○
「ああ、これは、頼みではないんだが」
これ以上の滞在は無足だろうと判断した旅人がその場から去ろうとしたとき、リオセスリは眼光の鋭さをやわらげてみせた。それは、傍目から見るとわかりやすいほどに演技がかったもので、彼が心の底から親愛をもって話をしようとしていないことなど、一目瞭然であった。
「道中、くれぐれもあれに傷をつけることのないように」
かすり傷のひとつも? と思わず尋ねそうになり、口を閉ざした。むろん、そのつもりだろうし、条件が細かになってあれこれと面倒な事態になるのは避けたかった。渋々頷いたら「賢明だ」と褒められついでににこりと笑い掛けられるが、ちっとも嬉しくはない。
つまりは、公爵というしかめつらしい肩書を持つ者といえども、他人に譲る気などさらさらない、ただの男というわけだ。