ぱちんと瞬きをした瞬間に景色ががらりと切り替わった。スイッチを操作するがごとく……綺麗に移り変わった景色は、電車のホームから、やたらめったら広大な大自然へと変貌をとげる。屋根がないので太陽の熱がつむじを思い切り焼くのが暑かった。びゅん、と風を切る音が耳のそばで鳴り、音の出どころを確かめるまえに、私の身体は地面に強く打ち付けられた。まぶしい太陽が視界をチカチカと明滅させる。後頭部が砕けたかと思ったが頭は平気であった。ただ、足に大きな切り傷ができてしまったようだ。剣で身体の一部を切り付けられるという経験は人生で初めてで、皮膚に高熱の溶けた鉄を流し込まれたかのような激しい痛みに苦しんでいるうちに、私はぱたんと気絶したらしい。目がさめたときキィニチがそう説明してくれたので、おそらくそうなんだろう。

 キィニチに与えられる食事をことごとく拒否していたら、わずかに寄った眉間の皺はそのままに、叱りもせず怒りもせずに黙って器を下げるのだから罪悪感に苛まれる。
「食べたいものがあれば教えてくれ」
 梅のお茶漬け……。と言いかけて、口を噤む。食べたいものがある、ないという問題ではなく、食べたら太るのがよろしくない。
 キィニチの大剣が私の太ももを裂いたためか、キィニチの家で看病されるといった生活が始まり数日が経つ。まともに歩けやしないし、この世界にも慣れていないのだからありがたいが、一応は男と女……という概念はいまいちキィニチには存在しないのか。そもそも、怪我の原因は故意ではなく、キィニチがなにやら禍々しい空気を纏った生き物と戦っている場面に突如出現したのは私で、キィニチもほとんど被害者のようなものなのだろう。
「おいキィニチ! あの女どうすんだ、肉にして食うのか?」
 魔物もそうだが、先日、おそろしいことを言ってのけた平べったい龍らしきなにかとの同居もそこそこに意味不明な状況だと思う。
「……そういう話をするなら、お前の食事を抜きにしても構わない」
 話を打ち切る前に、しっかりと私の耳には届いてしまっているのである。見ず知らずの不審者なる私を世話するなんて怪しいと思っていたが、なるほど、この国は人の肉を……? と背筋が凍り、以来なるべく身体に肉をつけるのをよしておこうと思い食事を摂らないでいたら、手足が冷え、血の巡りが悪いせいで怪我の治りがすこぶる遅く、キィニチは顔をしかめて「吐き気があるのか」と体調不良を疑う。
「な、ない……。すごく元気」
「元気なようには見えないんだが……。傷が痛むのなら痛み止めをもらいに行ってくる」
 そりゃあ足を斬りつけられているのだから痛みはあって当然である。しかし、すでに痛み止めは定期的に飲んでいるし、怪我の手当も抜かりなく。重ねて薬を服用するほどではないと伝えながら首を横に振ったのが非常にまずく、食事を僅かにしか摂っていなかった日々が積み重なったことによるめまいに襲われる。
 床に倒れ込む前に、キィニチの腕が私を支える。ぼやりとした思考で、あの大きな剣を思い描く。大剣をめいいっぱい振っていた腕は、私の身体をできるだけ揺らさないようにそっと持ち上げて、ベッドまで歩くことなんて簡単にできてしまうらしい。
「俺は、お前に代償を払う必要がある」
 だいしょう……。むずかしい言葉だ、頭が働かない、私はきっと食事を摂らなければならない。でもおそらく、こうやってベッドに寝転がされて、意識がなくなったところをぶっすりやるのかもしれない……。
「わ、私を、食べるの?」
「……は?」
 困惑が降り注ぎ、空をうろついた指先は私の額に触れる。びくりを肩が跳ねれば「すまない」と律儀に謝罪されて、その誠実さに申し訳なくなる。
「食べるというのはどういう意味か教えてもらえるか?」
「解体して、煮たり焼いたり……」
「……なぜそういう発想になったのかも教えてもらっていいか?」
「あの龍の人が、こないだ私を食べるとか言ってた……」
「龍の人? ああ……アハウか。なるほど」
「やっぱり食べるんだ……」
 この場から逃げようが頼るあてはない。自己責任による貧血で立ち上がるのもむずかしく、全身から力を抜いてその瞬間を待つのみだ。
「俺はお前を食べないし、調理する趣味もない。あれはただの軽口だ、アハウの言うことは気にしなくていい」
 それを心配していたからなにも食べなかったんだな、とあからさまにほっとした顔をされれば、なんだか手先が熱を持ち始めて曖昧だった頭がすうっと冴えていく。そうです、もごもご白状する。ふ、と笑いかけられるのはうれしい。
「チョコレートは食べられるか?」
 食事を拒否し続けてきた手前、今度は素直に頷く。キィニチが手ずから食べさせてくれたチョコレートは馴染みのある味だった。
「よし、よく食べられたな。えらいぞ」
「え、えらい……?」
 決してえらくはないだろうと口の中を動かして甘いかたまりを噛み締める。一つ、二つと食べるたびに「よくできた」といった調子で褒めるものだから、胸の裡にまで甘いものが侵食しているような心地になって、結局私は違った種類のめまいに襲われたのである。


「この偉大なる聖龍クフル・アハウさまにたかが小娘の子守りを任せるとはとんでもない話なんだぞ! 我輩は多忙な身分、今日も朝摘みのケネパベリーを採りに行くという重大案件がお前のせいで頓挫した。そもそもだな、お前みたいな燃素もなければ元素力も扱えない上に戦闘技術が欠片もねえ小娘、キィニチのヤローが剣でぶった斬ってなけりゃその辺でとっくに野垂れ死んでただろうな!」
 与えられた部屋、与えられたベッドで横になる私のそばには、平べったい聖龍ことアハウが浮遊している。先端技術による特殊な映像かなにかだろうと思い、透き通ることを想定して指をくっつけてみたら生き物のごとく温かくて驚いた。「高貴な御身になにをしやがる小娘!」罵倒されて「ごめんなさい……」と謝る。鼻らしきものを鳴らしたアハウは、今朝キィニチがテーブルに置いていってくれたブドウを食べ始める。子守りどころか堂々と放置されているのである。
 今朝方、狩りに出掛けると言い放ったキィニチの言葉を信じられない心模様で聞き、苦労しながらも意味を咀嚼した。キィニチは「肉のリクエストがあれば聞く」と親切心による提案を寄越してくれるが、この世界で一般的に流通している肉の種類に疎く、鳥とか……? と無難な返答をすると二つ返事が返ってきた。留守番を任されたアハウは一貫して不満げにあれこれ文句をつけ反抗していたが、キィニチは気にも留めずに出掛けていき、アハウも勝手に動けばいいものの家に留まって部屋から出る気配がひとつもないのであった。
「ところで小娘、お前なんでキィニチの前では無理に座ってんだ?」
 ブドウをすべて平らげた聖龍さまは心なしか膨らんだ身体でぐんと近づき、間近に迫りつつ核心を突く。
「ええ? いや……うん?」
「このオレを誤魔化せると思うなよ。無理してないってんなら、今すぐに身体を起こしてみせるんだな」
 答えに窮して意地を張り腕に力を入れようとするが、無意味な試みだった。私の熱がうつりぬるくなったシーツにぽすんと身体を戻して浅く息を吐く。吸って、吐く。それを数度繰り返す。規則正しい呼吸にて怪我の痛みを遠ざけるのはそこそこうまくいった。
「アハウって鋭いんだね……」
「アハウさまと呼べ。なんだなんだ、怪我が悪化したか?」
「アハウさま……。悪化はしてないと思う、わかんないけど。それに、無理してるっていうか、痛いのに波があるだけ……」
 太ももに走る創傷がいちばん大きく、腕や足についた大小さまざまな切り傷と打ち身、後頭部のたんこぶなどなど。全治にいかばかりの期間が必要なのか不明なほどに満身創痍なのだ、たったの数日では痛み止めは手放せないし、ときどき痛みで眠りから強制的に覚醒させられ、暗闇でひとり身を限界まで縮めていたことさえある。
「ほんとうに無理だったら横になるけど、あんまりそうしてたら気にさせちゃうかもしれないし」
「はあ? わっけわかんねーな……。あいつにつけられた傷なんだからおとなしく世話されてりゃいいだろうが」
 関心があるのかないのか、一通り話を聞いて満足したのか、アハウはすっきりと切り替えて、眠るつもりなのかテーブルの上に黄色い御身をぺたんと横たえる。「あの、アハウさま。私が寝てばっかりいることキィニチには言わないでね?」応答なし。

 上の服を脱いで、背中の貼り薬を交換してもらう。私は胸のあたりに脱いだばかりの服を押し当てて、一生懸命息を詰めている。車のそばを歩くときも自転車に乗るときも安全に気をつけていたので、これほどまでの大怪我は経験のないことだ。衝撃に身を任せ背中を地面に打ちつけたことによる打ち身はそこそこの存在感を放っているらしい。
「……痛むだろう」
 取り替えられたばかりの貼り薬の上から、傷を慰るようにごく控えめな仕草で指先を這わせられる。ん、と鼻にかかった声が出て、胸を隠す服をさらに強く掻き抱く。
「う、ううん……。結構よくなってきたよ」
「そうか? それならいいんだが」
 しかし、黙って治療風景の一部に組み込まれていた黄色い龍がついに口を開く。
「なにがよくなってきた、だ。さっきまで寝てばっかりいたくせになあ?」
 応答はなかったとはいえ、こうもするっと打ち明けられるとは絶望的だ。アハウ、と血の気の失せた声で呼べば、アハウさまと呼べつったろ、と血の気の多い溌剌とした声で叱られる。
「いまのは本当か?」
 アハウがこの場を辞さない限り、ここで否定するのは悪手だろう。
「……波があるだけです。そんなにずっと、痛いとかは、ないよ……」
 尻すぼみな言葉が胸元に落ちていく。つぶやく声は温度がないがためにひたすらに心臓を冷やすのだ。
 部屋中に充満する気づまりな沈黙を肌に受けながら、もぞもぞと服を着て、肩ごしにキィニチを振り返って見る。
「我慢させていたなら、お前に悪いことをしたな。俺は今から鶏肉の調理に取り掛かるが、しばらく横になるか?」
 そこそこ平気で、そこそこ痛みがある。これはそこそこ良い状態だから横にならなくても構わない程度で、横になる理由はキィニチが気にしているかどうかのみだ。
「お前が心配しなくても、俺はお前を食らうつもりはない」
 冗談か本気は判別しづらい声音が鼓膜に吹き込まれて心臓が跳ねた。
「そ、それはもう心配してない……。じゃあ、少しだけ横になるけど……あの」
「なんだ?」
「ベッドじゃなくて、ソファにいてもいい?」
 痛いときにひとりでいるのは心細いとはさすがに言いづらく打ち明ける度胸はないが、口笛を吹いているアハウにはこちらの真意を知り尽くされているのではないかと冷や冷やする。
「……それは構わないが……。いや、それで良い。眠れそうなら眠っててくれ。食事ができたら起こしてやる」
 顎を撫でて言葉を切り、ややあって小さく頷きながら私の要望を飲み込んだキィニチもまた、彼の主たるアハウと同様に隠しているあれやこれやを鋭く推察できてしまっているのかもしれない。横たえられたあとに前髪を撫でられると、さっきまで触れられていた背中がどうにもむずがゆくなって、いまいち休まらなかったのは誤算だったけれども。


 土埃や、草木の青々とした匂い。 ときどきは、思わず顔をしかめてしまいそうな生々しい血の匂い。外から戻ってきたキィニチは『任務』のたびに様々な匂いを纏っているが、お湯で身体を洗えばひとたびにそれらは抜け落ちて、清潔な香りだけが残るから、とても不思議だ。
「明日から任務で二、三日戻らない。俺が不在のあいだ、正午に部族の医師がお前の包帯を交換しにくることになっている。他の来客はすべて無視して良い」
 とりとめもなくキィニチの香りについて考えていたところに、脳天に鉛を落とされるがごとく衝撃的な発言を受けて、喉に夕食の鶏肉らしきものが詰まりかけた。
「アハウさまも行くの……?」
 水で肉を飲み下して問いかけると、アハウは「オレに甘えるな小娘」とにべもなく叱責する。
「食事は日持ちするものを用意しておく。家の中のものも自由に使ってもらって構わない。外出は……そうだな、あまり推奨しない」
 一時よりは治癒が進んだとはいえども、松葉杖の力を借りて屋内をやっと移動できるといったありさまだ。さらに言えば、キィニチの家から出たことすらない私が外出したところで満身創痍に傷を重ねるのが目に見えている。
 傷だらけでぼろ雑巾と化している私を一瞥したキィニチの視線が意味するところは『外出して余計な問題を増やすな』だろう。外出はしません宣言をしたら、キィニチは、そうか、と短く呟いて、私のぶんの肉を切り分けるため手元に視線を落としたのだった。

 翌朝、キィニチが任務に出かけるのを見送り、のろのろと食事をとってのろのろと片付けをしてから医師の来訪を待ち、包帯を交換してもらえばまたひとりになったのであてがわれている部屋の本棚から一冊抜き取った。時間はたっぷりあるのだから読書をしてナタという国の文化を知ろうと思ったのだ。しかし、文字がてんで読めなかった。国際理解への道は一瞬で頽れた。頼んだら、キィニチは文字を教えてくれるだろうか。
 テレビもインターネットもなく、文字も読めず、身体は不自由。楽しめる娯楽は見当たらないけれど、怪我のせいで簡単な掃除ひとつにも必要以上に時間がかかったので、あまり暇だとは感じなかった。
「グレインの実のピザ」
 指差し確認をするがごとく、キィニチに教わった食べ物の名前を口に出す。ひとりの食卓は驚くほど味気ない。

 食卓のうら寂しさは仕方ないとしても、眠る段になってそれが次第に大きくなるとは。昨晩眠るときよりも傷が痛みを訴えて、窓をカタカタと叩く風の音が不安の助太刀をする。木でできた家はときどきぱきんと音を立てるのだが、それにも心臓が大袈裟に跳ねてちっとも落ち着かない。一睡もできなかった乾いた目を朝陽は容赦なくきりきりと痛めつける。涙が滲む。
 不眠。身体は疲れているのに眠気は訪れず、目の奥と頭が重たくて食欲がふるわない。
 睡眠導入剤を処方しようかという医師の提案に首を横に振り、松葉杖を使っていつもキィニチが眠っている部屋へ向かう。よくないことを、している。薄く開いたままだった扉を開いて足を踏み入れると、お風呂あがりのキィニチと同じ匂いがした。そこで、不思議と、なぜか……私のまぶたはひどく重たく、なって……。

「そんな寝方をすると身体を痛めるぞ」
 はっと顔をあげたらそこはランプのみが光源の仄暗い空間で、キィニチがかたわらに座り込んで私の肩を揺すっていた。
「え、な、なに」
 松葉杖が床に横たわっている。あちらこちらを彷徨う目は、床に座り込んでキィニチのベッドに突っ伏している自身の状態を突きつける。
「勝手に部屋に入ってごめんなさい」
 血の気が引くという感覚とはまさにこういう場面に適うものなのだろう。
「気にしなくていい」
 しかしキィニチは心の底からひとかけらも気に留めていない調子である。聞けば、任務を早めに切り上げられたため三日とも掛からず、深夜であるが帰宅がかなったとのことだった。不法侵入をしたのが夕方ごろだったので、ずいぶん熟睡してしまったようだ。
「それよりも、医師からお前が眠れていないようだったと聞いたんだが……」
 脇の下に手を差し入れたキィニチに抱き上げられ、ベッドに座らされる。草木の匂い。それと、汗の匂い? 急いで帰ってきたのだろうか、髪が乱れている。
「も……」
「も?」
「文字が、読めなくて」
 その場しのぎの言い訳を連ねながらふわふわ跳ねたキィニチの髪を一房つまむと、目がまん丸になる。
「ごめんなさい」
 キィニチの髪は考えなしな私の指の間からすべり落ちた。
「……気にしなくていい」
 やや間をあけてキィニチが答える。
「それに、文字の方は俺が教えてやれると思う。……悩みは減りそうか?」
 頷きにほっとした表情をされると、嘘をついた罪悪感に心臓がちくちくと刺される。だって、たとえすらすらと文字が読めるようになったとしても、きっと次も一人で夜を過ごしたら眠れなくなるのだろうから。


 その翌日、起きしなに外を散歩してみないかと提案されて頭がくらりと揺れた。外というのはキィニチの家の外という意味で間違いはないだろうが、出会いの場面を除けばキィニチの家から外に一歩たりとも出たことのない私にとってはおそろしくハードルの高い提案である。ショックだった。目元をたゆたっていた眠気は恐怖のせいですっかりとどこかへ追いやられ、キィニチをじっと見上げて凝固する。
「籠もりきりだと気が滅入るだろう」
「……うん」
 ちっとも、かけらたりとも滅入ってはいないが、外出を阻止する言い訳に怪我が痛むからあまり出歩きたくないなどと宣えば、私に怪我を負わせた『代償』を払うために毎日よくしてくれているキィニチの顔を曇らせることに繋がるおそれが大いにあったため、不承不承にも頷いてみる。
「この家は集落から離れてはいるが、魔物が跋扈する一帯でもない。万が一遭遇したところで俺が処理するからお前はなにも心配しなくていい」
 キィニチが勇気付けるために口にした言葉は、縮こまった心臓をさらにぎゅっと握りつぶすがごとく、小さくさせたのである。

 朝食のあと、キィニチと連れ立って外へと繰り出したらさんさんと照りつける太陽に視界を焼かれてやはりめまいがした。引きこもりすぎるのも考えもので、外を歩かないにしろ、窓をあけて外を見つめる時間くらい設けてもよいのかもしれない。
「平気か?」
 松葉杖をつき、信じられないくらいに覚束ない足取りで歩みを進めるのとなりでキィニチが度々気遣う言葉をかけてくれている。
「うん、平気……」
 土を踏みならして歩けるようにしたといった具合の地面はでこぼことそれなりに歩きにくく、療養生活にてすこんと落ちた体力と相まって数歩進むだけで息が切れる。
「……無理をするな。ここまで歩けただけでも上出来だ」
 チョコレートを食べただけで褒められるといったところからスタートし、苦い薬を飲む、鶏肉を完食する、などなど、高頻度で褒められている。これが日常の一つのシーンであったのなら気恥ずかしい思いをしたかもしれないが、ここは外で、照りつける暑さに額には汗が滲み、身体はじくじくと痛んでおり感情にさく余裕がなかった。
「風は涼しいね」
 大きな岩に布を敷いたキィニチは私を支え、そこに座らせる。たっぷりとした葉をたくわえた木の根元。葉が陽光を遮ってくれるだけでこんなにも涼しく感じるとは、自然の力はすごいと思う。思うのだけれど、木々の向こう、遠目に見えるのは映画でしか見たことのない、首の長い大きな生き物である。アハウより何倍も大きく、いかにも恐竜らしい。
「あれはクビナガライノというんだ。よく勘違いされるんだが、竜じゃない。大きな獣だ。足元には近づくな」
「危ないの……?」
「足だけでもお前の何倍も大きいんだ、踏み潰される恐れがある」
「踏み……」
 恐竜めいた生き物が竜であろうが獣であろうが、正体は関係なく私にとっては脅威のひとつであることには変わりない。
 燃素もなく、元素力も扱えないらしい。アハウにかけられた言葉のすべてを余さず理解できているわけではないが、この世界、この国で生きていく力に欠けているのは事実だ。
「……? 顔色が悪い」
 キィニチの家のなかで守られているだけの生活は、安全で安心であった。しかし、扉を一枚隔てた先には命を脅かしかねない獣や魔物が存在している。そういう世界なのだ、ここは。
 得体の知れない不安がのし掛かってくるのに耐えられず顔を俯かせていると、額に手のひらが当てられる。
「やはり無理をさせすぎたみたいだな。すまない、今日は帰ろう」
 めまいがする。
「帰る……帰ってもいいの?」
 熱発を確かめているキィニチの手はぴくりと揺れたあとに外される。膝の上で握りしめている拳に力が入りすぎていたのか、そこを何度か撫でられることによりゆったりとほどけて、血のめぐりが戻ってくる。
「……いまは難しいことは考えなくていい」
 今は……その先は?
 キィニチと顔を合わせれば目の奥にせりあがってきているものが溢れてしまうような、嫌な予感がした。目をぎゅっと瞑って熱をやり過ごしてみる。キィニチを困らせている自覚はあるが、身体も心も上手にコントロールできない。
 身体には熱がこもっているのに、新鮮な風が他人事のように頬を撫でて流れていくから、手も足も顔も、いろんな部位がばらばらになっていくような心許なさに恐怖を覚える。
 差し出しされた手を握り返して良いのか判別がつかず、ぼやりと見つめている。やがて、痺れを切らしたのか、キィニチが優柔不断な私の手を握りしめる。この硬い手だけが、私を紛れもない現実につなぎとめてくれるように、強く。


「不貞腐れててもいいことなんかひとつもないぞ、小娘!」
 アハウの叱り飛ばす声を頭からかぶった布団で防ぎ、ぐっと唇を引き結ぶ。
「あんな獣にびびっちまって、弱っちいにもほどがある! まあ、お前がどうしてもっていうなら、オレがお前を守ってやらないこともない」
 布団から顔だけを覗かせてアハウを見遣れば、昼間見た獣よりもうんと小さな身体で胸を張っており毒気を抜かれる。
「……それ、ほんとう?」
「もちろん相応の報酬は払ってもらう」
 キィニチがこの家に私を置くのは『怪我をさせたこと』の代償である。アハウも慈善事業をおこなっているわけではないので報酬の要求はもっともだ。しかし、文字を読めず身体も不自由で知識レベルも低い私がこの土地でお金を稼ぐなど到底無理なように思われる。
 胸に差し込んだひとすじの光はすっと翳り、頭を布団のなかに戻してしまえば暗闇の完成だ。目をぎゅっと閉じたそばから「おい小娘──いってえ! なにすんだ!」と大きな声があがり、引き続いて「彼女と勝手に契約を結ぼうとするな」というキィニチの声が聞こえてくる。
「それに、俺がいれば十分だ」
「お前の力は我輩の力だろうが」
 アハウの返しにこれといった反応を示さず、ひとり篭城している私を包む布団に手を伸ばすと決めたらしく、控えめに背の部分を叩かれる。とんとん、とんと、一定のリズムが暗闇に少しずつヒビを入れていく。
「すまなかった。お前を怖がらせるつもりはなかったんだ」
 閉じていたまぶたを持ち上げて、視界にわずかなひかりを取り込む。広がった視野でキィニチに整えてもらった呼吸を繰り返し、恐怖心をお腹の奥に押し込めた。
「さっきも言った通り、危険があれば俺がなんとかする。だからそんなふうに籠もるな。食事をとらないと元気も出ないぞ」
 キィニチが私に『代償』を払い終えた時点で終わるこの関係は、無限ではない。そのあいだに元の世界に戻る可能性がどれくらいかなど弾き出せそうにもなく、やはりいまはキィニチに縋るしか生きる道筋がない。
 布団をそっと下げて、アハウの呆れきった溜め息を直に聞く。恐怖を感じることができるのなら、安堵を覚えることだってできるはずなのだ。
「食後にチョコレートを用意した」
 やわらかく細められたキィニチの目と視線を絡ませて、背に添えられた手にされるがまま上体を起こす。
「……ありがとう」
「ああ。今日は疲れただろうから食卓まで運んでやる」
「そこまでは……うわっ」
 正直なところ松葉杖を使って歩くよりもキィニチに運搬されるほうが楽なのだった。横抱きしてくれるのは見た目以上にかたく力強い腕だ。大剣を振るう腕、なにかあったら守ってくれると約束してくれたひとの腕。肌が触れ合っているところから熱が生まれて、全身を温めてくれるのが途方もなく心強く思える。
「……顔が赤い」
「えっ」
 落ちてきた視線を受け止めた頬に指をくっつけても熱の有無は判断できないが、倦怠感はない。ともすれば頬にわだかまる熱はキィニチの体温によるものとしか思えず、言葉にならない呻き声を飲み下して「ちょっと暑くて」と適当な言い訳を口にする。
「鈍感だなあ、キィニチ。小娘は照れてんだよ」
 鋭い事実を暴かれて目に見えずとも顔の赤みが増したのがありありとわかる。
「……そうなのか?」
「ち、ちがう」
「小娘、嘘をつくならもっとうまくつけるようになるんだな」
 言いたいことを言って満足したらしいアハウはふよふよと軽やかに浮遊して食卓のほうへと向かっていく。気恥ずかしさにまみれ、視点はどこにも合わせられなくて困ってしまう。
「……その、すまなかった。だが言われてみればそうだな」
「うん……?」
「この体勢は好ましくないかもしれないが、短い距離だから耐えてくれ」
 キィニチには私たちが男と女であるという認識などないものだと思い込んでいたが、ちらりと見上げた頬にはわずかに朱が差し込んでいるように見えて……。
「あ、あれ……?」
 顔ばかりではなく全身が火照ってしまってたまらない。