やわらかな肌のうえに真新しい痣ができているのを認めた瞬間、幼心にもはけ口が見当たらない怒りだとか絶望がお腹の底から湧き上がった。
「痛い?」
キィニチは曖昧に首を横に振る。痛くないはずはないだろうに、私のいつもと変わらぬ質問に変わらぬ返事をするのだ。
父と母は私がキィニチと関わるのをあまり好んでいなかった。キィニチの父親がキィニチやキィニチの母親に暴力を振るうような人物であったために、その矛先が罷り間違って私に向かないように……つまるところそれを危惧していたようである。隣人として喧嘩の仲裁をそれなりの頻度で行っていた両親にとって、私がやたらとキィニチに構うのはおそらく切羽詰まった懸念事項であったに違いない。
「いたいときは、いたいって言ってもいいんだよ」
意地を張り始めたらやめられなくなる悪癖はこの頃からはじまっていたので、私は家から持ち出した包帯やら消毒液やらを駆使してキィニチの傷を手当するのが常になっていた。それどころか、打倒キィニチの父親を密かな目標に掲げ、こっそりと体力作りにいそしんでいる始末だった。
子どもの力では天地がひっくり返らない限り大人には敵わない。あまりにも不便だと思う。両親には「絶対にやけを起こさないように」と何度も注意を受けているが、キィニチのことになるとなぜか視野がやたらと狭くなりものごとの判断がうまくいかなくなる。
「べつに、いたくない」
「……キィニチのいじっぱり」
人のことを言える身分ではないが、思わず口をついて出てきてしまう。なるべく痛みを感じないようにと細心の注意を払って手当をしても痛いものは痛いようで、噛み殺した呻き声を聞けば泣きたくなる。キィニチの指が私の湿った目尻を撫でる。おなじくらいの大きさの手はあたたかくて、ちょっとだけ震えていた。
私が力をつけるつけないに関わらず、キィニチの人生はキィニチと親しい大人たちによって運ばれていく。
キィニチの父が賭けによって一攫千金の夢にやぶれ家をうしない、集落から離れた山の麓に引っ越してしまい、キィニチの母がいなくなって、キィニチの傷がどんどん増えていく。私の手当が上手になり、弓の鍛錬をはじめた頃に、キィニチの父親が崖から落ちて亡くなった。茫然とした。そして、打倒を掲げていた相手を私はどんな手段を用いて打倒するつもりだったのだろうといまさら考えさせられる。少なくとも、命を奪うなどと考えてはいなかった。そうしたら、いったいどうやって?
「いままでの代償を払いたい」
山の麓にてひとり暮らしを続けているキィニチは大人びた言葉とともに数枚のモラとグレインの実を差し出してきた。唖然として黙りこくる私に、困惑したように視線を揺らしたキィニチは「足りないぶんは、また持ってくる」と打って変わって弱々しい声を出す。
「い、いらない」
「グレインの実はすきじゃなかったか?」
そういうわけではないけれど、そういうわけにしておくのが好手かもしれない。
「うん。ちょっとだけ苦手」
「ケネパベリーは?」
「それも……あんまり」
「じゃあ、なにが好きか教えてほしい」
「……キィニチのことが好き」
「……」
まじめに答えてほしいとため息をつかれてしまうが、私のほうがうんと困っている。手当に見返りを求めていたわけではないのに、まるでこれまでの関係を精算するようなことをされたらどうしたらいいのかわからず、キィニチのほんのり赤く染まった耳のてっぺんを見つめながらずっと途方に暮れている。
キィニチが差し出す『代償』を断ったり断りきれずに受け取ったり、森で一緒に鍛錬をしたり……しかし、それも数年経ってキィニチが少年から青年へと成長してしまえば、体力や筋力はまたたく間に追い越されてしまう。
腕の立つ竜狩り人として名が知れ渡るようになったころ、部族内でのキィニチの評判は芳しいものやそうではないものが多種多様に入り混じっていた。非情だとか、冷血な殺し屋だとか……。
ある日、講学小屋でキィニチと一緒に学んだことがあると自称する男が「ガキのころのあいつは泥まみれの猿みたいだった」とぎょっとするようなことをげらげら笑って言うものだから、思わず引っ叩いたらすかさずやり返されて口の端が切れてしまい散々だった。
「……痛むか?」
人だかりを掻き分けて私を回収したキィニチが切り傷に消毒液を含んだ布を当てる。途端に、鋭い痛みが走って声をあげそうになる。
「痛くない」
私は意地を張り、キィニチはため息をつく。
「頼むから、あんなことはもうしないでくれ」
「あんなことって?」
「……言いたいやつには好き勝手に言わせておけば良い」
男の言い草が道義にもとるから手が出たのではなく、もっともっと私的な事情だった。それは、小さい私が出来もしないのに彼の父親をどうにかしようと企んでいたものとよく似たたぐいの、単純で浅はかなもの。
「それよりも俺は……」
言葉は途切れ、黄色の双眸をみつめても続きはもらえない。男に叩かれた頬をキィニチの手のひらが包み込む。つきつきとした痛みに声を出さないよう唇を引きむすんだら、切れている箇所が余計に痛んだ。キィニチの手はかすかに震えていて、小さなキィニチの指先が思い起こされた。
だれよりもなによりも、キィニチのことが好きだと思う。そんなとても単純なことが、ずっと私を動かしている。
あれからいくつか下世話な噂が流れ、やがて消えるころに、キィニチはあまり姿を見せなくなった。もともと必要以上に集落へ立ち寄らないとはいえ、数日、数週と時を重ねるにつれて避けられているんじゃないかという黒い予感が迫ってくる。それを裏付けるかのように、たまたま顔を合わせた際に視線を逸らされれば足元がすうっと冷えて心許なさが加速する。
「喧嘩でもしたの?」
あんなに仲良さそうだったのに、と些細な異変に気づいた部族のひとたちが首をかしげる。喧嘩のほうがよっぽどましだと思った。
家を訪ねれば無人で、集落では顔を合わせず、交わす会話はひとつもない。そうしているうちにこれまでどうやってキィニチと話していたのかすらわからなくなり、きっかけの端さえも掴めずに無為な日々が過ぎていく。
キィニチがおらずとも日常が成り立つのがいやだった。人伝に聞くキィニチの評判の良いも悪いもひっくるめて耳が敏感に反応して、私の預かり知らぬところでキィニチもキィニチの生活を歩んでいるのかと思うとさみしかった。
高熱が出て数日寝込んだ。キィニチに避けられておりあまつさえ嫌われていると思考が答えをはじき出した矢先だった。知恵熱にうんうんと魘されながら、キィニチの夢ばかりみた。それらはどれも一緒に過ごした淡く甘くしあわせな日々で、目を覚ましてそれが過去のものだと思い知った途端に涙が溢れて止まらず、おかげで頭がひどく痛み、熱はなかなか下がらなかった。
「どこか痛むのか?」
そのとき私は寝台の敷布に身体をあずけていた。キィニチの声に重たいまぶたをこじ開けると、窓からは橙色の夕焼けが差し込み、部屋全体を暖色に染め上げていた。おそらくこれは、キィニチの鍛錬についていって怪我をこさえ寝込んでいるときの記憶だろう。
「いたくない……」
信じられないほど覇気のない声が出た。
「痛いときは痛いって言え」
ふ、と小さく笑う気配がする。寡黙な青年へと成長したキィニチの笑い声を聞くのはいつぶりだろう。
「俺は、そう教わったんだがな」
思い出を象るキィニチがそのさらに過去の記憶を有している。我ながら質の良い夢だ。
「キィニチ、そんなこと憶えてたの……?」
鼻声がひどく、頭ががんがんと痛んでみっともない。……鼻声?
「お前にもらった言葉は全部憶えてる」
グローブをはずしたキィニチの手のひらがおでこにぴったりくっつく。ぬるい体温を分けてくれる手は過去の記憶に在る小さなキィニチのそれよりも大きく、骨張っている。
やたらと鮮明な感触に意識ががばりと上体を起こしたら頭がぐらりと揺れて前のめりに崩れ落ちかけた。肩を抱かれ、荒い息を背中を撫でるゆったりとした速度に合わせて整える。
「ゆ、夢じゃない。本物のキィニチ?」
「ああ、本物だ。寝ぼけてるのかと思ったが、夢だと思っていたのか」
「だって、キィニチがこんなところに来るなんて思うわけない……。だって、キィニチは私のことが」
「お前のことが?」
「き、嫌い……に、なったんでしょ……」
「は……?」
音をつけて言葉にしたら曖昧だった悲哀が大きな塊となって私の横っ面を殴りつける。枯れ果てたはずの涙が溢れ、目を乱暴に擦りつけた。
「嫌いじゃない」
きっぱり言い切ったキィニチは私の手首を握って顔を合わせてくる。ふいっと逸らして抵抗するが、名前を呼ばれれば簡単に絆されしまい、そろそろと首を正面に戻す。
「……掴んでしまって悪かった。痛くなかったか?」
「痛くないよ、これは本当」
離さなくても良いのに……触れていてくれても良かったのにとは、口にできそうにない。
キィニチとまともに顔を合わせるのはしばらくぶりであった。息を吸えば涙のにおいがする。鼻をすすればずんぐりと重たい空気が入り込んできてうんざりする。咳き込んで、息を吐く。
「……キィニチ、どうやって入ってきたの?」
息をすると存外思考が透き通って、あたりまえの疑問が浮かび上がる。汗やら涙でひどい様相をさらしているのも恥ずかしく、キィニチが差し出した布で苦し紛れに顔を拭う。
「アハウが、お前の家の鍵が開いているのに気づいたんだ」
「アハウ……あのキィニチの友だちの……」
「……友だちじゃない。契約関係にある龍だ」
それよりも、と厳しい表情をつくったキィニチは、私が膝を抱えて座り込む寝台の縁に腰掛けて「無用心が過ぎる」と咎めた。
「万が一があったらどうするんだ。たとえば、あの男が腹いせにお前に危害を加えに来たりだとか、そういうことだ」
やってやり返されたので喧嘩両成敗という認識であったため報復されるとは想定外で、目を瞠るもキィニチは鋭い眼をゆるめない。
「大丈夫だよ、たぶん。あれから見かけてもないし」
「馬鹿みてえに呑気だなお前は! それは吾輩の従者たるキィニチがお前に近づくなって釘を刺したからに決まってんだろ! そのせいでお前とキィニチは散々阿呆な連中の噂の的にされたんだろうが、だからキィニチの野郎はお前を避けて」
アハウという名の龍が捲し立てている最中に、キィニチは黄色い龍を腕輪に収納してしまう。
「……そうだったの?」
「悪かった。お前を巻き込む気はなかった」
「違うよ。そうじゃなくて……私を避けてたって、そういうことだったの?」
ばつの悪そうな視線はうろつくがすぐにこちらへと戻ってきてくれる。ただそれだけで、空いていた距離がうんと近づき、心許なさと寂しさが夕陽よりも温かいものに生まれ変わる。
「……お前の手と俺の手は、全然違う」
触れてもいいか? と確認ののちに、キィニチの指が私の手をすくい取る。ごつごつとした骨と、硬い皮膚。少年から抜け出した青年に似つかわしい大きさと、大剣を振るう戦う人の強さをあわせもっている。
「昔よりも髪が伸びたな」
「うん……少しだけ。昔みたいに森を走り回ったりしなくなったから」
「昔とは、体力も身体も全然違う。だから、俺も昔と同じようにはできなくなったらしい」
どくどくと動く胸が、服越しに手のひらから伝わってくる。キィニチの内側に直接触れているかのような感覚に息が詰まり、さっきまで涙に濡れていた頬がふつふつと熱を上げていく。
「……離れた方がいいと思った。だが、できなかった。ひと月ももたなかった」
「ひと月……私はもう百年経ってる気分だよ。……どうして笑うの」
「いや、可愛いなと思っただけだ」
よもやキィニチの口から飛び出るとは思えない言葉に熱がさらに上昇する。
「休んだ方がいいな。続きは目が覚めてから話そう」
赤い顔を認めたキィニチは私を寝台に寝かせ、胸まで布団を被せてくれる。熱を帯びた指先でキィニチの指を掴み「続きって?」と訊ねる。いつか「キィニチのことが好き」と告げたときのように、キィニチの耳のてっぺんには淡く朱がさしている。「まだ秘密だ」と言って私の前髪を撫でる。
大きくなった手、変わらない温度。私もキィニチがくれたものを一つも取りこぼさず、ぜんぶ一生大事にしていくから、だから、これから何度でも続きを手渡してほしいと思う。