触れられる頻度があまりにも低かったものだから。
 そういうものだろうと思っていたし、欲を見せて、もっと触れてほしいと強請りもしなかった。懸崖の里よりもはるか下方、そばにフレイムボムの木が豊かに生える場所に、両親が遺してくれた小さな家がある。崖の登り降りはきっと手間であるはずなのに、キィニチは任務で多忙ではない日を除けば、それほど日を空けずに訪れてきてくれる。それだけで充足感を得られていた瞬間は確かにあったはずなのに。
 私の寝室、薄暗い灯り、眠り慣れたベッドに身体が沈む。しっかりと着込んだキィニチの身体もまた私のとなりにゆっくりと納まる。ふたりぶんの重みを受け止めたベッドがぐっと沈んだ。
 お互いの顔を視界にとらえていたのはそれほど長い時間ではない。頬も、触れ合った足も、首の皮膚の下を通る動脈も、きちんと火照っていた。しかし、指の一本も触れられずにふいと視線を外された途端、すべての部位があっさりと熱を失っていく。
「……どうして泣くんだ」
「え?」
 キィニチの顔はびっくりするほどに霞んで見えづらく、まばたきをすればましにはなったものの、生暖かい滴がこめかみを伝って流れる感触が不愉快だった。まぶたを擦ると、それを咎めるように長い指が伸びてきてまぶたを覆う。あたたかな手は私の涙でどんどん濡れていく。
 ふらふらと感覚がおぼつかない手を動かして、キィニチの手を退かす。キィニチの頬からはすっかりと血色が失われており、それを目にしてようやく「やってしまった」と後悔した。やわらかなベッドから抱き起こされて広い胸におでこを預けても、背中を撫でられても、涙が引っ込む気配はなく、それどころか嗚咽すらも漏れてくる。
「どこか具合でも悪いのか?」
「ううん、へ、へいき……」
 涙がはてさてなぜ迫り上がってきたのかをうまく説明できる自信もなく、首を横に振ってキィニチの心配そうな問いかけに「なんでもない」を示すしかできない。
 肩にブランケットをかけられて労られ、あたたかいミルクを淹れてもらったところで、目の端からまた涙が零れてしまう。
「いま飲んだら、変なところに入るんじゃないか」
 ぐずぐず鼻を鳴らしながらほどよく冷めたミルクを飲もうとすればカップを奪い取られてしまう。呼吸が落ち着くまでにそれなりの時間がかかり、ミルクは温め直さなければならなくなった。

 その二日後に、旅人の空がふらりと訪れてきた。正確には、空と彼の旅路をともにするパイモンと、なぜかげっそりとした顔をしている(と思われる)アハウである。
「ええ……? みなさんお揃いで、いったいどうしたの?」
「俺はにナツメヤシキャンディを渡したくて。でもここに来るまでにキィニチに会っちゃってさ、アハウに同行するようにって……ほら……俺とが二人きりになるのは、ね?」
「二人っていうか、三人じゃない? アハウがいるから四人になっちゃったけど」
「うん。だから、キィニチにとっては大所帯のほうが好都合なんだ」
「オレはあの身分を弁えない生意気な従者のせいで……クソキィニチのやつ……」
 苛立ちぶつぶつと怨念を吐きながらもアハウは二人のあとに続いて家のなかにしっかりとおさまった。
 ナツメヤシキャンディの甘味が口の中でゆっくり溶けて、珈琲の苦味にほどよく絡み合う。ナタに至るまでにいくつもの国をその足で旅してきた彼はそのフットワークの軽さによるものか、集落から離れた土地にある私の家にもそれなりの頻度でやってきては、ナタでは手に入りにくい外国の果物や保存の効くお菓子を分けてくれる。
 キャンディが硬くて食べにくいと我儘をのたまう聖龍さまのためにグレインの実をエンバーコアフラワーの蜜で煮詰めたものを作っていると「アハウを甘やかしすぎなんじゃないの」と空が後ろから手元を覗き込んで笑う。
「おい旅人、そいつはオレにいくらでも恩があるんだ。この偉大なる聖龍をアホどもの色恋沙汰に巻き込むなんざ断罪もんだぞ……甘味のひとつで容赦してもらえることを未来永劫感謝するんだな」
 色恋沙汰……陽気な響きとともに思い起こされるのは、二日前のやらかしと、それによって歪んだキィニチの目と、ためらいがちに背を摩ってくれた手の感触だ。アハウは私の視線を受けてそれまで高らかに発していた笑い声を止め、「なんつー辛気くせえ顔だよ……」と大袈裟なため息をつく。キィニチが事のあらましをすべて開示しているとは到底考えられないにせよ、私よりも近い場所にいるアハウがキィニチの変化を把握しているのは不自然ではないだろうし、なにかと目敏く気が付く旅人も、きっとそうだ。
 空は「キィニチは、君のことになると様子がおかしくなるよね」と、目元を弛める。
「……キィニチが私のことでなにか言ってた?」
「君が元気にしているか見てくれって頼まれただけだよ。俺は、自分で確かめに行けばいいのにって言ったんだけどね、口籠るだけだった」
 流水と洗剤で食器を綺麗に洗う、空が乾いた布でそれを拭う。アハウとパイモンがグレインの実のおやつを取り合っているのか、背後から賑やかな声が絶え間なく届く。
「……キィニチが」
「うん」
「優しくて」
「……えっと、惚気話?」
 ぎょっとした。色恋沙汰だとか、惚気話だとか、客観的には浮ついた話題に聞こえてしまっているのだろうか。
「ときどき、そばにいるのにキィニチがなんだか遠くにいるような気になることがあるの……。これも惚気話?」
「そりゃあ、俺からすれば。でも、きっと切実なんだよね」
「キィニチのことを傷つけてしまったかもしれなくって」
「どうしてそう思ったの?」
 最後の食器が棚におさまる。しんとした隙間に言葉をねじ込むように、言葉を繋ぐ。キィニチの前で泣いてしまったから。泣いたのは、キィニチに触ってもらいたいと思ったから。
「なるほどなあ、言葉にする努力もしねえで勝手に決めつけて、察してもらえなかったからって拗ねてんのか。クソガキめ」
 後頭部に鈍い衝撃が走る。くせ者だ、暴行犯だ。当のアハウは悪びれもせず心底楽しそうにけらけら笑う。
「キィニチのやつも辛気くせえ顔してて見ちゃいられねえし、飯はまずくなる一方だ」
 脳裏にうかぶのは、いついかなるときであっても落ち着き払ったキィニチの顔と、あの夜確かに動揺をみせた頼りなさげな視線だけ。
 アハウに殴られた箇所がじんと痛む。記憶の輪郭がくっきりとしていく。だけど、一緒にいるときに得られる感情はあやふやでめちゃくちゃで、一言でなんて言い表せそうにない。だからこそ、武装せずに伝えなければならないとも思う。黙ったまま欲しい言葉を待ち続けるなんて傲慢だろう。

 アハウに頭を殴られ、ついでに空に背中を押され、図々しく留守番を頼んで家を飛びだす。日が高い。すぐに息が上がって額が汗でじわりと湿る。キィニチは存外家の近くにおり、アハウを待ちながら鉤縄の手入れをしていたようだった。風も陽光も草も切り裂き、私とキィニチへを繋ぐ軸をたどるようにして一直線に駆け寄る。ほとんど飛び込むようにぶつかった体はしっかりと受け止められる。
「やみくもに走るな、怪我をしかねない……。それとも、なにか問題でもあったのか?」
「問題っていうか……アハウに説教されて」
「は……? あいつが、お前に説教を?」
 頭はいまだじんと鈍く痛む。旅人やアハウがくれた言葉が、その痛みを切っ掛けににして滲みてくる。言葉にしないと伝わらないことが、随分とたくさんあるということ……。
「私、キィニチのことが好き。一番好き。これからも、ずっとそうだよ。本当に……」
 だから、後の祭りにならぬよう、離れていきそうになった手を握り込む。硬い関節が掌に馴染む。
 肩で息をしながらの言葉はとんでもなく必死な響きで空を切る。髪は乱れて肌は汗ばんでいる。どこをどう切り取ったとて不格好には変わりないのに、空も川も驚くほど綺麗にみえた。光の粒子が目の端でぱちぱちと瞬いていた。フレイムボムの葉がさわさわとこすれて、空気が澄んで、あの夜のように脈がどくどくと鳴っている。
「だから、離してほしくないって思うの。一昨日も、……えっと。触ってほしかったんだと……思う」
 言い切るほどの度胸はまだなくて、濁しながらも手を離さずもごもごと口を動かす。空や川よりもまっすぐに網膜へと飛び込んでくるキィニチのうつくしい瞳が、彷徨うのをやめて私をしっかりと捉える。
 私の手のひらよりも大きく、骨ばっている指先が手の甲に重ねられる。胸にくっつけた額ごと頭を抱かれて、どちらのものとも判別がつかない鼓動が鼓膜をとんとんと揺さぶっている。
「……
 キィニチは私を泣き止ませるのが得意で、そのときばかりは背や肩を撫でてくれるのだけれど、いまはもちろんその類ではなく、慰めるわけではない触れ方はおそろしくぎこちなくて、キィニチの体を支える筋肉はおそらく強張っているのだろう。
「力加減は問題ないか」
「えっと……もうちょっと、強くしても大丈夫だよ」
「……そういうことは、他の誰にも言ってないだろうな?」
「い、言うわけない……。今もかなりいっぱいいっぱいで、息止まりそうなのに。キィニチにしか言わないよ」
 納得するに足りる回答にキィニチは頷き私をより強く抱き寄せる。それでもやはり控えめと称して差し支えのない力加減ではあったが、息が止まりそうであるのは事実で、あれやこれやと我儘と上塗りしていけばそのうち本当に窒息しかねないのでこの辺で中断するべきだろう。
「……そろそろ戻らないと。アハウたちに留守番を任せて出てきちゃったから、待ちくたびれてるかも」
 とはいえ離れがたさもあり、胸を突き返すなどとんでもなく、硬い背に手をすべらせてみる。
「もう少し、このまま」
 谷の隙間をそよそよと吹き抜ける風が前髪をさらうのに気付ける余裕がうまれたころに、キィニチは「ずっとこうしたかった」と静かに打ち明ける。不安をすべて浚いとっていってしまえるような明瞭な声音だった。離れ難くなるばかりの熱を、この先もぜんぶ抱きしめていければ良い。