「ちょっと作りすぎじゃない?」
透明な瓶に詰めたパート・ドゥ・フリュイを矯めつ眇めつしながら、リネは苦笑している。もらうけどね、食べすぎたらマジックショーに支障が出るから、少しずつ食べようか、と一人で結論を出しているリネを、私はベッドに座って見つめている。
「今日は調子がよさそうだね。こっちにおいで」
窓の格子が光を遮り、ソファの上に十字の模様を作っている。リネのすらっと長く温かい指に手を掴まれて、とても丁寧にゆっくりと歩まされ、そこに腰をおろす。ひだまりが温かい。リネがマジックを始めるのを、膝の上で指を握って、静かに待っている。
ひと月に何度か体調を崩して臥せてしまうのは、もともと体の強度が人よりも弱く、免疫やら何やらが上手に育たなかったからであった。
外に学びに出たり、フォンテーヌ廷の外を出歩いたり、巡水船に乗ってエリニュス島に行ったりといった、およそ同年代の人間にできることがなにひとつできない私をどう扱って良いのかについて、唯一の血を分けた家族である父はあれこれ思案していたのかもしれない。
ある日、父が大魔術師であるリネを家に招待したときは目をまん丸にしてしまった。友人であるホテル・ドゥボールのオーナーに誘われて観覧したリネのマジックショーを父はいたく気に入り、家に籠もりがちな娘にも見せてやりたくなったのだと、お節介なハウスメイドに聞かされたのである。
「また来てくれる?」
道具の持ち込みが限られているからマジックの種類もかなり限られてしまうよと前置きをしながらも、リネは私の頭の上に花を降らせてみせた。魔法みたいですごい、と稚拙な感想が花と一緒に床にこぼれ落ちる。こちらから出向くのではなく、自宅に招ぶのにはきっと相当の費用を支払わなければならないのだろう。駄目で元々、「もちろん」と笑顔でコーティングされた言葉はその場だけのお世辞に過ぎないと受け容れていたので、ひと月後に再度リネが部屋を訪れてきたときは初めてのときよりもびっくりしてその場で固まってしまった。
「もちろんって言ったの、嘘だと思った」
仕事でほとんど家にいない父がリネと何らかの契約を交わしたのかと問うてみたが、そうではないようだ。お願いしながらも、リネの言葉を信じてはいなかった。腫れ物に触るように接してくる父や家の人たちがなんにでも「いいよ」と言うのがどこか寂しくて、ちょっとしたわがままを言ってみただけだったのだ。
「君が……そうだな、これをくれるなら、ひと月に一回ここでちょっとしたマジックを見せてあげる」
ところが、自発的にやってきたリネは、冷め切った紅茶のカップのとなりで手付かずのまま置かれていた瓶を指差して条件を持ちかける。
「パート・ドゥ・フリュイが好きなの?」
「うん」
……ほんとうに?
あらかじめ用意されたような笑顔に疑問を抱きつつも、リネのマジックを見るために、それから毎月きちんとお菓子を準備することとなる。
マジックだけじゃなく、リネはいろんな話をしてくれた。歌劇場で出会ったおもしろいお客さんとか、異国からやってきた旅人のこととか。
必要以上に踏み込まないかわりに、踏み込ませようとはしない。「一番好きな食べ物はなに?」という質問に、「どう思う?」と返されたのは記憶に新しい。リネの時間は安くも余ってもいないだろうに、手のひらに乗るくらいしかないお菓子がそれに釣り合っているとはゆめゆめ思わない。おそらく、きっと、リネは私個人にあんまり興味がない。
「君はスレートカサガラが好きなの?」
だから、リネからの質問が飛んできたときは驚いた。興味を示されたのが初めてで、しどろもどろになっていると、ベッドのサイドテーブルに置いてある丸い鳥のからくりおもちゃをリネは指先で撫でた。
訪問も数度目になると好意はなくとも多少は気安くなるのか、リネは私のソファで寛いだり、飲みたいお茶をリクエストしたりするようになった。私としても、籠もってばかりの生活に味気なさを感じており、話をする相手がいてくれるのは心を浮つかせるものだったので、嫌な気はしなかった。父が与えてくれた千織屋の服を着て、せっせとお茶の準備をしてリネを出迎えている。
「これ、小さい頃にお母さんが買ってくれたの。あんまりお母さんと出かけたことがないまま、お母さんがいなくなっちゃったから……好きっていうより、思い出があるから大事なんだと思う」
小さな鍵を差し込んで巻けば、羽がぱたぱたと動く単純なおもちゃは、昔、一度だけ落としてしまったものの、それでも仕掛けはきちんと作用していたのに、劣化からか、数ヶ月前にとうとう動かなくなってしまった。スレートカサガラは見た目は可愛らしいけど、体力がすごくたくさんあるから、いっぱい飛べるのだと教えてくれたのを、おぼろげながらも覚えている。あれは、母だっただろうか。
ふうん、と興味があるのかないのか、当たり障りのない反応を示すリネはそれ以上は重ねず、お茶を飲んで黙りこくっている。いつもの笑顔を伴ったおしゃべりがないと調子が狂ってしまう。
雨が窓に叩きつけられている。薄暗く湿度の高い日は、私の体調を悪い方へと連れていきがちだった。それは今日も例外ではなく、時間が経てば経つほど頭のてっぺんからぎゅうぎゅうに押しつぶされているかのように全身が重たくて、ふらりとベッドに倒れ込み、熱っぽい額をシーツに押し付けてやり過ごしていた。
服装も髪型もお粗末なもので、リネに見せられるものではない。いや、リネは私の格好がどんなものでもさほど気に留めないだろうに、私だけが、リネの目にどう映るのか心配を巡らせている。
くたびれた部屋着を眼前に、リネは首を傾げて「今日は調子が悪いんだね」と結論づけた。
「それに、今日はお菓子を用意してないの」
だから帰ってもいいよと追い返せるほど、私の度胸は育っていない。
「そっか。そしたら今日はマジックは見せられないね」
頭がふわふわするのは、熱が上がってきているからだろう。視界だって頼りない。リネは炎元素の力を使って、手近な蝋燭に火を灯す。炎のまわりにぼんやりとしたベールが張られているのを近づいて眺めていると、「危ないよ」と肩を引かれた。
ベッドサイドに椅子を引き寄せ、リネはそこに座る。しばらくは手持ち無沙汰にしていたものの、毎日埃を払っているスレートカサガラのおもちゃを手に取って、ぜんまいを回す。壊れてしまったおもちゃはぎしぎしと硬い音をあげるだけで、動くことなどない。
「これ、直してもいい?」
「直るの?」
「多分ね。そう難しいからくりじゃないと思うよ」
どの家庭にも常備してある小さな工具セットを貸すと、リネは黙々と作業を開始する。はじめこそ座って大人しく待っていようと意気込んではいたものの、やはり体の不調がそうさせてくれずに、リネが訪れる前と同じく布団に体を預ける。
母と最後に出かけた日に買い与えてもらったもの。母がいなくなってからも、毎日欠かさず埃を払って、枕元に置いていた。壊れてしまっても、来年も再来年もきっとずっと手放すことはない。
目を細めないと存在を認められなさそうなほどに小さいネジを扱うリネは少しも笑わないし、なんにも話さない。雨の音は今やばちばちと割る勢いで窓を強く叩いている。蓄音器を鳴らすべきかもしれないが、体が重たくて動けそうにない。
「スレートカサガラは、見た目は可愛らしいけど、体力がすごいんだ。だから、たくさん飛べるんだよ」
母が言ったはずの言葉がリネの口からすらすらと再生されている。うるさいくらいの雨の音を横になったまま膜越しに聞いている。
「……リネはどうしてここに来てくれるの?」
「理由が必要かな?」
はぐらかされているのか、目を合わせずに手元の作業のみに集中して疑問を返してくる。だってリネは理由がないと来ないでしょう、私が渡せる報酬なんてリネが普段得ているものの何分の一かもわからないのに……ともごもごと言うと、ようやく目が合う。
「昔、君が……僕の拙いマジックを見た小さな女の子が、買ってもらったばかりのおもちゃを落としてしまうのにも構わずに、一生懸命に拍手をしてくれたから」
母とふたりで出かけて、スレートカサガラのおもちゃを買ってもらって、帰りの道すがら、隅っこで隠れるようにマジックを披露していた男の子を見た記憶は、嘘、本当? でも、リネは母が教えてくれたはずの鳥の特徴をあのときと同じ言葉を使って再生してくれた。だから、本当?
何年も前のおぼろげな記憶は、賢いリネと違って頼りない記憶力しか持ち合わせていない私にとっては、曖昧なだけだった。確かめようにも母はもういない。
直ったよ、と私の手のひらに鳥のおもちゃを乗せるリネの指先はうっすら冷えている。ぼうっと見上げた先で、リネは綺麗な紫の目に苦みをうかべている。
「……ごめん。君があまりにも僕のことを思い出さないから意地になっていたのかもしれない……、いや、違うな。君が君のお母さんと手をつないで歩いているのが、そのときの僕にとっては……。なんで言ったらいいんだろう。とにかく、といると調子が狂うのは確かだ」
ほとんど夢に片足を埋めかけている私のふやけた脳に、リネは言葉を投げ続ける。額に触れてくる指はいまだに冷えている。どうやったらこの手がいつもみたいにあたたかくなるのかを、考えても良いだろうか。
「僕が好きなのは魚料理だよ」
「……え?」
ああ、そういえば、この部屋に来てくれるようになったばかりの頃に、好きな食べ物はなにかって尋ねたんだ。リネがなんでも覚えてくれているから、私も、取りこぼさずになんでも覚えていたいと、この生涯で一番に強く思わされてしまう。
「僕はもうたくさんに会いに来た。だから、今度は、が僕に会いにくる番だ」
手の中にあるおもちゃにリネが鍵をさして、羽を動かす。おもちゃと同じように、そのうちに私を蝕むこの熱だって引いていく。忘れてしまうものもあるが、覚えたままでいられるものだってある。
あるべきものがあるべき場所におさまって、滞りなく動くなにげない光景が、こんなにも眩しい。