忌引きののちに休職を言い渡されて、合計で二週間ほど経つ。
  身体のどこもかしこも、問題なく動かすことができる。風邪を引いてなどいない。健康な身体を一日中ベッドに転がして無為に天井を眺めている生活には、すでに飽き飽きしてしまっていた。
 数日置きに訪問すると約束してくれたメリュジーヌの訪問を待ち、職場であるパレ・メルモニアへの「健康体であり、暇を持て余しているのみなので復職したい」という旨を書いた手紙を託けた。

「君の申請を却下する」

 夕方すぎにわざわざヴァザーリ回廊にある自宅を訪れた最高審判官であるヌヴィレットさまは、開口一番、無慈悲にもきっぱりはっきり言い放ったのである。呆気にとられ、ややあって、私の手紙に対する返答なのだと理解する。

「だけど、健康です。……元気です」
「君の認識はそうなのかもしれないが、私の認識とは、いささか擦れがある」

 不健康そうに見られているのだろうか、ヌヴィレットさまは顔色を変えずに私の全身を検分する。くたくたの寝巻きに、梳かしてもいない髪……。勤務時にはもう少しまともな姿かたちをしていたはずなので、この格好はあまりいただけない。

「食事は摂れているのか」

 平坦な問いに、半分肯定であるし、かたや半分は否定であると曖昧な返事をする。おそらく、この休職を決定的にした一因は「味覚が鈍くなっている」という部分によるもので、それはどうしても食事を楽しむという行為を遠ざけさせていたのである。そのせいか、食欲さえも平生のものとはかけ離れており、お世辞にも顔色が良いとはいえず、ヌヴィレットさまが顔を顰めるのも無理はない。
 復職は望めなさそうだな、と落胆する。それでも、ヌヴィレットさまは透明な表情を保ったままで、水面に葉を落とすがごとく静かな声で「……また君のもとを訪れる。なるべく食事を多く摂るように」と言い残して、驚くほど躊躇わずに出ていった。


 とある寒い日に、メリュジーヌが棲まう村の近くで瀕死の状態で倒れていたらしい。偶然に通りかかったひとりのメリュジーヌが私を見つけ、もうひとりのメリュジーヌがフォンテーヌ廷まで駆けてヌヴィレットさまに助けを求めたことで、保護されて、いまは亡き養父母に引き取られることになった子ども。それが、いまここにいる私である。
 パレ・メルモニアの一介の共律官である私が、最高審判官であるヌヴィレットさまに気にかけてもらえている理由は、そういった過去のいきさつによるものだ。
 だからといって、日を一日たりとも開けずにヌヴィレットさまがここにやってくるなどとは思いもしなかった。彼はやはり透明な表情のまま私に体調を尋ねる。「平気です」形の良い唇の隙間からため息が溢れる。

「これを食べると良い」

 小さなドライフルーツをうっそりと眺めていると、やがては唇に押し付けられる。甘い匂いがする。ただし、舌先に乗せたとしても味はしない。

「どうだろうか」
「わかりません」
「ふむ、そうか……」

 顎を撫でて思案するヌヴィレットさまを、緊張に全身を固めて見守っている。多忙な身であるこの人にわざわざこのようなことをさせている申し訳なさがずんずんと降り積って、なんとかするので大丈夫です、と根拠もへったくれもないまま言う。上ずった声を拾い上げたヌヴィレットさまは、首を横に振ってため息をつく。

「治療意欲があるのなら、君の病状にふさわしい医師を手配する」

 復職が認められないのであれば、治療をして味覚と食欲を取り戻すべきなのだろう。

「……両親が亡くなったとき、泣けなかったんです」

 ヌヴィレットさまよりも控えめな動作で首を振った。注視していなければ気づかれないままだったであろう動きは、絶え間なく注がれていたヌヴィレットさまの視線のなかに在ったようで、私は彼の眉が持ち上げられるのを認めた。

「つまりは、君の現在の状態がそれに関係しているということだろうか」
「罰……みたいなもの、なのかなって」

 言葉に音を乗せて吐き出してみれば、やたらと卑屈な考えだなと、他人事のような感想を抱かされる。
 長年、血の繋がりのない私を育ててくれた養父母が亡くなったときも、諸々の手続きをしているさなかでも、それらが済んでしまったいまも、涙が出るわけではなく、ただ味というものが失われただけであった。

「君の見解については承知した」

 また訪れる、できるだけ食事を摂るように。そう言い残したヌヴィレットさまの顔を見られなかったし、頷きを返すこともできなかった。玄関の扉が閉まるまでに、逡巡めいた沈黙があったようにも感じられた。


 憐憫も過度な気遣いもなく、ヌヴィレットさまはほとんど毎日この家を訪れて、食事を摂れているかどうかの一点を必ず確認している。
 訪問を拒む言葉を忘れているはずもない。ともすれば、彼は彼の意思でここに来ているのだろう。捨てられていた私との関わりが、彼の行動原理を支えているのだろうか。それとも、いち共律官の健康状態が純粋に気にかかっているのか。
 どちらにせよ、私のうすっぺらな言葉がヌヴィレットさまの訪問頻度をどうにかこうにかできるはずもない。それならば、せめて寝巻きやあちこちに跳ねた髪のまま出迎えるのを改善しよう、しかし突然外出着を見せるのは気恥ずかしいなと思い、ほどほどに楽な服を選んで、髪を梳かして一つに結わった。

「いつもと装いが違うのだな」

 服装に対する気の入れ方の塩梅が難しく、思いのほか時間がかかったために、コメントをつけられるとそこはかとなくむず痒い。

「いままで失礼な姿を晒していたと思ったんです」
「構わない。それに、君の寝姿など何度も目にしたことがある」
「え?」
「幼い時分、君がこの家で……ご母堂に抱かれて眠っていた」
「あ、ああ……。そういうこと……。いや、小さいころの寝姿といまの私のそれは、かなり違うと思います」

 得心してなさげなヌヴィレットさまは、早々に切り替えていつも通りにお菓子や一輪の花を手渡してくる。毎度の見舞いの品に恐縮して、そのうちのひとつは手ずから口元に運ばれる。味はいまだわからず、ヌヴィレットさまはわずかに眉を下げる。


 彼の貴重な時間を数十分も拘束している罪悪感を抱えながらも、ひとりで閉じこもった扉を開いてくれるのは今やヌヴィレットさまのみであるので、楽しみのひとつとなりつつもある。「なぜ」や「申し訳ない」がすべて消え去ったわけではないが、彼との交流が日常の一部を担っているからか、早く復職しなければならないといった焦りはいつの間にか消えていた。要は、人との繋がりに飢えていたのかもしれない。
 血を分けたわけでもない私に両親がすべての財産を残してくれたとはいえ、いつまでも働かずにいるわけにもいかない。あれほど億劫であった身支度ができるようになり、早朝であれば近所を散歩する気力もわいてきた。窓を開けて掃除もしている。
 バブルオレンジを煮詰めて、ジャムを作ることだってできた。うすい水色の綺麗な布で蓋を包み、黄色のリボンで結んだそれは、お礼の品としてヌヴィレットさまに贈った。順調に元気を取り戻しているのだという意味合いを贈り物の裏側に潜めているが、味覚がまだ遠いのがいけないのか、ヌヴィレットさまは復職の許可を下してくれない。

「此度のケーキはフリーナ殿からの差し入れだ」

 ティーポットがかちゃんと音を立てて机にぶつかり、動揺で指先が震える。「水神さまが?」いよいよ大ごとになっているのだろうかと、家でのんびり過ごしていることへの罪悪感がむくむくと蘇って肺からかすれた息が出てきた。
 箱から取り出されたケーキは、一日の販売個数が厳しく設定されていたものだったように記憶している。そのような貴重な品を眼前に、私の情けない心臓はやはり縮み上がって、気が遠くなる。味すらよくわからないのだ。お礼の際に感想を添えることすら叶わず、情けないし、申し訳ない……そればかりが募っていく。

「……ごめんなさい」
「なぜ君が謝罪をする」
「もらってばかりなのに、ヌヴィレットさまにも、フリーナさまにも、なんにもお返しできなくって。それに、まだ味もわからないままです。ごめんなさい」
「その件に関しては理解した上の行為であるため、君が謝る必要は皆無だ。それに、君は私とフリーナ殿の名のみを挙げたが、正しくは違う」

 ひときわ大きな紙袋がテーブルの上に置かれる。中を覗き込めば、ひと月かけても食べ切れなさそうな焼き菓子や果物を乾燥させたものが詰まっている。目をぱちぱちさせてヌヴィレットさまを見遣る。

「君の胃に負担をかけぬよう一つずつ持ってきていたのだが、さすがに数が追いつかなくなってきた。まとめて渡しても良いだろうか」
「あの、これって……誰からのものなんですか?」
「パレ・メルモニアで君と共に働く者たちから」
「……全部?」
「ああ……。実を言えば、私からのものも数個だけ混じっているが」

 紙袋はそれなりに重たかった。ずしりと紙袋を満たす重みを抱きしめて、ふらふらと椅子に腰を下ろす。
 ひとりぼっちになってしまう気がしていたのだろう。はやく部屋を出て、もとの場所に戻って、やるべきことをしなければ……。またひとりに戻ってしまうのかもしれないという強大な不安が、黒い濁流となって押し寄せ、心臓をぎしぎしと痛ませていく。おそらく、私はずっと現実と相対できないでいた。見てくれているひとがいるのだと教えられるこの瞬間まで、ずっと、ずっと……。

「皆、君の健勝を祈っていた。私も例外ではない。それは、君が日々ひたむきに生きてきた証明であると、私は思う」
「……塞ぎ込んで、引きこもってますよ」
「それは、いまの君に必要なことなのだろう」

 ふよふよと空を彷徨ったあと、その指先が私の頭に添えられる。ヌヴィレットさまに寝姿を晒したのは記憶にはないが、頭を撫でられた思い出はうっすらと憶えている。それにしたって、子どもと大人とではされる側の心持ちは変わってくるものだ。
 本来であれば照れたりするべきなのだろう。しかし、どういうわけか、枯れたとばかり思い込んでいた涙は出てくるし、喉が締まって息も苦しい。喉から潰れたような声が出て、静かな部屋の空気を一気に湿らせてしまう。物心がつくまえから暮らしていた家。ずっとふたりで暮らしていた空間に私を招き入れたのはなぜなのか、今は知る由もないけれど、作ってくれたご飯が美味しくて、布団があたたかくて、ときどきは手を握ったりハグしてくれたりした。だから、子である私の存在証明は、それだけで足りている。

「私、みんなにお礼がしたいです」

 嗚咽の隙間に言葉を挟む。語尾がひしゃげて、どうにも頼りない響きとなった。

「ああ、皆喜ぶだろう」
「……ヌヴィレットさまにも」
「私は、君が健康で、元気であってくれればそれで良い。……それと」
「……それと?」
「このような……ふたりでいる場面においては、私にかしこまる必要はないと常々思っている。君は確か、私を呼び捨てにしていたはずなのだが……」

 子どもだったからできた技であろう。そんなことはできないと、はっきり首を横に振ったらヌヴィレットさまは明らかに眉を吊り上げてみせた。かと思えば、しなしなと萎れるように下がっていく。そのさまを目の当たりにした私の困惑は跳ね上がっていくばかりだ。
 ジャムの瓶を胸元に引き寄せ、「検討しておいてくれたまえ」とだけ硬い声で残して立ち上がる。だれもいなくなった部屋。ここを起点として、いろんなひととの繋がりを築いてきた、大事な家。
 窓を開いてわだかまった熱を流す。よく晴れて、澄んだ青色に満ちたやわらかい日だった。涙のあとが風に触れて少しだけ冷たい。ケーキの味はまだ遠いが、涙の塩気やジャムの柑橘系の香りはすぐ近くに在った。



 忌引きののちに休職を言い渡されて、合計で二ヶ月経ち、ようやく復職の許可を得られた。しかし、だいぶ回復したとはいえ、いまだ水の膜を張られたように食べ物の味は曖昧かつおぼろげだった。

「随分と快くなったようだ」

 久々に足を踏み入れたパレ・メルモニアのヌヴィレットさまの執務室にて、同僚や上司、メリュジーヌたちにもらった快気祝いを両手に抱えて立っていた。

「そうなんですか?」

 あの日、ヌヴィレットさまの前で初めて泣いたのが引き金となったのか、毎日のように涙が流れてしまい、ほとほと困った事態に襲われていたのである。泣けば疲れて眠りに落ちてしまい、目をさました際には軽くなった気分と引き換えにまぶたが腫れている始末だ。寝巻き姿よりも、泣いた跡が残る顔を晒すほうが恥ずかしいし、居た堪れない。こんなにも恥ずかしがっている私をよそに、ヌヴィレットさまは私の頭を撫でるものだから恐ろしい。子どもの頃の私も、いまの私も、彼の前では総じて子どもなのだろうか。

「二ヶ月前の君は、君が思っているよりも深刻な状態だったように思う」
「……ほんとうに、ご心配をおかけしました」
「君がどこかに行ってしまうのではないかと、気が気ではなかった」

 どこか、が指すものについてはたと思い当たり、憶測にぎょっとして不思議な虹彩を持つ瞳を見つめると、ふ、と表情を緩められる。
 このごろはやたらと表情に色と動きがある……いや、私が気づかなかっただけで、もともとはその色素の薄い肌の下に繊細な心の動きを張り詰めさせているのかもしれない。
 そんな私をさらにぎょっとさせたのは、ヌヴィレットさまの執務机の、ペン立てのすぐそばに、いつか贈ったジャムを詰めた瓶が空の状態でひっそりと置かれていたことである。

「あの、それ……その瓶」

 唇がわなわなと震えている。

「ああ、綺麗な瓶で、気に入っている」
「そうじゃなくって……。あの、気遣っていただかなくてもいいんですよ。大層なものじゃないですし……」
「断じて気遣いではない」

 亡き両親のもとに私を預けてくれた人は瓶を指先で撫で、椅子から腰を浮かせて、ゆったりとこちらに近づいてくる。長い髪がひらひらと揺れている。その姿がどうしてか、また涙でぼやけていく。

「君を慈しむ心を忘れないようにしたいと思ったから、そばに置いておきたいと思った。……きっと、あれを見るたびに思い出せるのだろう」

 ヌヴィレットさまの腕が背中に回り、引き寄せられる。存外、強い力が込められていた。抱き返そうとしたが、腕のなかには大事な贈り物があったので、かわりに言葉を返そうと思い、数日前に「かしこまる必要はない」と言われたのを思い出して試しに「ヌヴィレット」と小さく呟いてみた。直後、不敬だったろうかと後悔に襲われはしたが、さらに強く抱きしめられてヌヴィレットさまの体温がぐんと近くなる。身体の熱の境目が不明瞭になっていくのがなぜかやたらと心地良かったものだから、目を閉じて、大きな身体に身を委ねたのだった。