胴に巻きつけている織物のストールは、幼いころ、アルハイゼンのお祖母さまが誕生日に贈ってくれたものだ。子どもが所持するには高価なそれを、お祖母さまは「よいものを長く使えるように」と諭して手渡してくれたのだった。
一生のなかでほんの短い期間はアルハイゼンと別々に暮らしたものの、また同じ屋根のもと生活するようになり、順当に、現在に至る。
洗って乾かすのを繰り返しても、ちっともくたびれないストールを頬にくっつける。肩がずきずきと痛む。ビマリスタンでもらってきた膏薬を患部に貼り付けようかと、ソファに寝転がったまま手だけを伸ばすが、指先がぶつかったのは薬が入っている紙袋よりも硬いものであった。
「病気なのか」
アルハイゼンの太ももにぶつかった指が力なくぽとりとソファに落ちる。もぞもぞと腕を動かしてストールのなかに首から下を隠した。
「ちょっと怪我しただけだよ」
まぶたを降ろす。体を横に転がしてアルハイゼンに背を向ける。……痛んだ肩がソファにこすりつけられると、鈍く痛んだ。
彼の目の奥に懸念が含まれている気がしたが、都合良く解釈してよりどころにしているだけに過ぎないのかもしれない。
人から受け取る好意にはいくつかの種類があるのだと、そう長くもない生涯で知った。両親や祖父母、アルハイゼンのお祖母さまがくれたような、家族によるもの。友人がくれるもの。恋人がくれるものはおそらくそれらとは違うものだろう。
それらよりも濁って、厚ぼったく、どろりとしたものを、ひと月ほど前から受け取っている。始まりは、帰り道にひとりの足音に重なるようにして聞こえてきた誰かの足音であった。私が立ち止まれば、その足音も止まる。歩むと、鳴る。背筋を氷で撫でられているかのように寒気が走った。
浮遊感を感じて目を覚ます。いつの間にか浅く眠っていたところを、横抱きでゆらゆらと運ばれている。
「怪我を見せてみろ」
とうに、眠りになど沈んでいなかったのだと気づかれていた。横たえたくせに怪我を見せろとは。
「……やだ」
「駄々をこねるな」
「こねてない。見せる理由がないよ」
「相変わらずの頑固さに恐れ入る」
怒気を孕んだ声に身が竦むのも無理はない。アルハイゼンの、左目の端がわずかに持ち上がる些細な動きは、幼少期からの癖だった。それは彼の不機嫌を裏付けていて、感情の機微が読み取りにくいがための指標である。悪いことはなにもしていないはずなのに、責められるような鋭い視線を一身に浴びて、了承しなければ解放してもらえない重い空気に、じわりと涙が滲みそうになるのを、今も昔も、一生懸命堪えている。
「なにも泣くことはないだろう」
「……泣いてない」
押し留めたはずの涙が一粒くらいは目の端に引っかかっていたのかもしれない。神妙な顔をしたアルハイゼンは私の目の端に指をすべらせる。乾いた、硬い指先。ひとりでやる、と言い張ると、ため息をついて離れていく。自ら遠ざけたくせに、離れると心細くなるなんて、身勝手な話だ。
誰かに後をつけられていると気づいたのと同時期に、職場である執務室に差出人不明の手紙が届くようになった。やたらと周りくどい言葉を組み合わせ、好意を抱いている旨を書き連ねているそれは、一言一句変わらないまったく同じものが二度も三度も手元に舞い込んできた。
相手にしないのが賢明だろうという判断が正しいか否かは、今となっては判断に悩む。数日ぶりに件の人物の足音が鼓膜を叩いたとき、得体の知れない恐怖を四六時中ずっと抱いていたせいで、寝不足の脳は足にうまく信号を送れず、石畳の継ぎ目の窪みに爪先を取られ派手に転倒した。地面に倒れはしなかったが、肩を石壁に強くぶつけた。強い痛みに目をぎゅっと瞑り、背を壁に押し付けてやり過ごす。当人が直接危害を加えようとする可能性を考えるとおそろしいと同時に、どうしようもないという、諦めの思いが垣間見えた。しかし、人気のない路地には私がひとりきりで蹲っているのみである。ばかみたいな静寂が心細さを増長する。泣きたくなるのを我慢して、落ち着いた頃合いに、よろよろと立ち上がってビマリスタンへと歩みを進めた。
数日もすれば、肩にできた痣が薄くなってきた。膏薬に染み込んだ、つんとする薬草の匂いを近いうちに嗅がないで済むようになるのだろう。ほっと安堵し、そういえば、昨日も一昨日も、その前の日も、あの足音を聞かないで済んでいるのだと気がつく。足音の主も暇ではないようだ。毎日付いてこられていたわけではなかったのだけれど、三日も開いたことはなかったように思う。もちろん足音にともなって、手紙も届いていない。飽きたのか、あの日無様に転んだ私に愛想を尽かしたのか定かではない。
アルハイゼンにしてはひどく珍しく帰宅が遅い日が連続していた。記録を打ち切られたこの日は、きちんと定時と予想される時間に退勤できたようで、先に家のソファに腰掛けていたが、頬にガーゼを貼り付けているのを認め、唖然とする。
「どうしたの、それ」
「人に殴られた」
幼い時分も、当然いまも、アルハイゼンが人に殴られて顔に怪我を負う姿を、目にした経験は果たしてあっただろうか。私たちはあまり喧嘩をしなかったし、アルハイゼンとカーヴェとの喧嘩も基本は舌戦によるものである。
形の良い唇の端が赤紫色に腫れているのを目にした瞬間、膏薬を貼り付けた治りかけの肩が疼痛を訴え、熱くなるのを感じた。本人は温度のない声で告げるのに、私の方が動揺して額に嫌な汗を滲ませているなんておかしな話だ。
「危ないことに巻き込まれたの……?」
平穏な暮らしの維持を第一に据えるアルハイゼンが危険に巻き込まれるとは考えにくいが、彼の好奇心が優先されたのであれば、その限りではない。
寄れば、腰に手が回される。肩を痛めてストールを体に巻きつけていた日よりも、よっぽど泣きそうだった。
「事実を知りたいか」
「知りたいに決まってる」
「だったら、君の怪我を説明しろ」
交換条件を突きつけられ、さすがに観念する。そこまで張り通したい意地でもない。とはいえ、後をつけられているだとか、気味の悪い手紙が届くだとか、聞いていて気持ちが良いとはいえない話題を声に出していくのはやたらと気力を削られ、話し終えた頃にはどっと疲れていた。
腰を引き寄せられ、成り行きでソファに座るアルハイゼンの上に跨がる。傷を見せる義理はないが、服の釦を外され合わせから滑り込んだ手が強い無言をともなっていたからか、はたき落とせずに好きなようにさせる。やがて、膏薬を貼り付けた肩がすっかりとアルハイゼンの眼前に晒された。
「……君を付け回していた男を特定したから、証拠を抑えて突き出してやろうと考えていたところで、ご丁寧にも襲撃された。嗅ぎ回っていると勘付かれたらしい」
ガーゼ越しに唇を寄せられると同時に、思いもよらぬ「事実」をお返しされて目を剥く。
「襲撃を逆手に取って挑発したら、おもしろいくらい簡単に乗ってきたから、殴られてやった。存外力が強かったがそう痛くもない。願ったり叶ったりで、男は傷害罪として捕らえられたが、直に余罪も明るみに出るだろう」
ぺらぺらと回る口から飛び出す事実をすべて理解するのに、それなりの時間を要した。目を白黒させている間に、アルハイゼンは全く面白みもない肩の傷をつぶさに検分し、満足したところで外していた釦をその手で留める作業を開始する。
重心がぐらつきそうになるのを、アルハイゼンの首に腕を回して支えを取った。釦を留め終えれば再度腰を抱き寄せられる。そうやって少しずつ身体が近づいていく。
「なんにも言わなかったのに、どうしてわかったの」
「は、非常にわかりやすい。昔からだ。特に、気落ちすると祖母が贈ったストールに包まる癖は抜けていないようだ」
相変わらず目敏い。すべてを知った上でわざわざ私の口から説明させたアルハイゼンの、よく回る唇を指先でなぞる。そう痛くもないと評価された怪我は、見た目は痛そうに目立っている。
「助けてくれたのは、ありがとう。でも、危ないことをしないでほしい……」
わかりやすい怪我は正しく私の心臓を鷲掴んで、息の根を止めにかかっている。涙で滲む視界で、アルハイゼンの左の目尻が持ち上がる。唇をなぞっていた指を滑らせ、目元にそっと添えた。
「俺のものに身勝手な傷をつけられて腸が煮えくり返った。だが、君を泣かせるつもりはなかった。次回からは善処しよう。そのかわり、君も頑固を直せ。手遅れだった場合を考えるとぞっとする」
飾り気のない言葉に、本当に息が止まったかと思った。呼吸を再開させると顔にぐんと熱が行き渡り、居た堪れなさに身をよじる。アルハイゼンの腕はやはりというか、私を抱え直すようにして自らに寄せるから、泣いたせいで不明瞭となった視界でも、神妙な顔つきがよく見える。
アルハイゼンは私の癖を指摘したが、私がアルハイゼンの癖を指摘するのは、まだよしておこう。すっかり力を抜いた目元から指を離しながら、そんなことを考えている。器用なアルハイゼンに癖まで矯正されるのは、幼なじみの特権を没収されるようで口惜しい。
広い肩に頬をくっつけ、体重を遠慮なく預けても、アルハイゼンは嫌がらない。頭や背中を撫でる合間に、夕食を摂るかどうか確認されたが、胸がいっぱいでお腹の容量までも押しつぶしているせいで、食欲がない。首を横に振ると、またもや柔らかい沈黙が降りてくる。
「襲撃って、暴力でもふるわれたの?」
心地の良い静けさによる眠気を誤魔化すために、頬の他には目立った傷を負っていないアルハイゼンにずっと気がかりだったことを訊ねる。「いや?」と短く否定してくれたおかげで不安はいくらか和らいだ。最終的には頬を差し出したらしいアルハイゼンは、喉の奥で笑ってから、どこか得意げに、鷹揚と言い放つ。
「君を寄越せというようなことを言われたから、取れるものなら取ってみろと返しただけだ」
突飛な行動と言動に驚かされ、だけど、それらが自分のためのものと思い至ると、言語化できない感情がむず痒さを訴え出してたまらなくなり、身体を預けるだけでは飽き足らず、腕を上体に巻きつけてわだかまった熱を移すことにした。