どすん、と重たいものが落っこちる音を聞いた。
「えっ」
開け放たれた窓から乾いた風が吹き込んできている。ぱたぱたと揺れるカーテンのすぐ下から嗅ぎ慣れない血生臭い匂いが漂ってきたので、視線をさげると、金髪の男の子が倒れていた。
「ええ……」
父や母、友人いわく、私には危機感というものが欠如しており、実際に危機と対面したときの対処能力も心許なく、面倒ごとに巻き込まれる才能だけは天下一品らしい。
その唯一の才能に従い、私は短いズボンから伸びる頼りない足の傷に応急処置を施した。父や母や友人は放っておきなさいと言っただろう。なにせ、男の子の傷は転んでできたというよりは、刃物で斬り付けられたかのようなものだったのだ。きっとわけありだ。
細身とはいえ男の子で、骨格はそれなりにしっかりしていた。ソファかベッドに寝かせてあげられたらよかったのだが、私ひとりの力では達成できず、彼の体を床の上で引きずるのもいかがなものかと思い、手当てのみをして床に寝かせていた。さらに、鎮静効果のあるお香をたいて、疲労回復に助力してみる。
「……あなたは?」
男の子は、ふっと意識が浮上したように、目を開き、数秒だけぼんやりとあたりを見回して、ばちんと跳ね起き距離を取られる。壁に背中を打ち付けて痛くないのだろうか。
「私はこの家の住人。君は私の部屋に転がり込んできたの」
さっと顔を青ざめさせて、謝罪しながら慌てて頭を下げる男の子の髪にも血痕らしきものがこびりついていて、これは本格的にわけありの子なんだろうな……と、内心そこそこにパニックになりつつも、夕食の時間帯ということもあり空腹には抗えず、名乗り、名前を聞き出してから、「これもなにかの縁なのでごはんを食べていきませんか」とのんきな提案をしてしまったのである。
男の子……フレミネくんは、戸惑いを隠せないでいながらも、ポワソンシーフードスープをついだ器を渡せば、わずかに目を輝かせる。
「体調が悪かったら無理しないでね」
「いいえ……大丈夫。あ、ありがとう」
それなりに酷い怪我をしているというのに、フレミネくんは男の子らしい食欲であっという間にスープを完食した。「よく食べたねえ」そばに座り込んで褒めたら恥ずかしそうに肩を縮ませた。それほど歳は離れていないだろうが、仕草や頼りなげな声音に庇護欲らしきものが刺激されるのは仕方ない。
「手当てとか、食事を、ありがとう。……お礼になにかさせて」
「お礼なんていいよ。そのかわり、もうおうちを間違えたらだめだよ」
アパートメントの隣に住む偏屈なおじいさんのもとに舞い込んだら、警察隊に通報されていたかもしれない。どこからどう見ても複雑な事情を背負ってますといった雰囲気のフレミネくんが、その場合どうなるかはあまり考えたくない。
「……あなたも、見知らぬ人間を招き入れたらだめ」
「気をつけます」
窓ではなく扉から出ていくフレミネくんの姿を見守り、お腹がすいたので部屋に戻ってポワソンシーフードスープを食べた。いまだ開いたままの窓から夜風が運ばれてきている。はたはたと夜景を見え隠れさせるカーテンを見つめ、また来てくれたいいのにな、と、親類たちが呆れ顔をうかべそうなことを思考してしまっている。
しかし、「また」の機会はそれほど間をあけずにやってきた。すっかりと傷の癒えた姿で姿を現したフレミネくんは、ほのかに甘い香りが漂う紙袋を片手に携えている。
「マドレーヌ! お礼はいいって言ったのに。でもありがとう」
はにかんだフレミネくんは、あの夜の血なまぐさい雰囲気を綺麗さっぱり払拭していた。うそだったんじゃないかって思うくらい。
そのせいか、私の生まれついての性質によるものか、性懲りもなく「夜ごはんを食べていく?」と誘い、うっすらと戸惑いを浮かべたフレミネくんは「えっと……」と口ごもっている。半ば強引に手を引いて招き入れたのは、いま思えば、彼の保護者的な……兄的な人物の警戒心を育てるのに十分だったので、まずかったのかもしれない。
結局のところ、そういったいきさつがあって、フレミネくんは月に一二度の頻度で私の部屋を訪問して、夕食をたべて、次の訪問日にお礼としてお菓子を持ってきてくれる。怪我をしている日もあれば、血色よく頬をぴかぴかさせているときもある。湿った髪に海の香りを閉じ込めている日も。
鎮静効果のお香がリラックス効果をもたらしてくれているのかは不明だが、プラセボ効果のおかげか、お茶をのんでお菓子を食べ、不快にならない程度に部屋を満たす香りに身を委ねていると、落ち着くような、穏やかさを保てるような心地がする。ソファでとなりに腰掛けているフレミネくんも例外ではない様子なのが素直に嬉しく、調子に乗って肩と肩を触れさせると、ぴくりと体が跳ねた。
こんこんこん、と扉が叩く音がする。うたた寝から目をさましたら、ブランケットがかけられていた。となりのフレミネくんは「お客さんが来たみたい」と、玄関を指さしている。いまだ眠気が抜けない体を引きずるようにして、お腹にブランケットを抱きながら、はいはいと適当なことを言いながら玄関扉を開くと、後ろから「えっ」と驚いた声があがり、「どうかしたの」と振り返り、施錠がとかれた扉を向こうから引いたその訪問者は、「こんにちは」とにこやかに挨拶をする。
「それで、君とフレミネはどういう関係?」
ずいっと遠慮なく部屋に入ってきた男の子はみずからを「リネ」と名乗って、鋭い視線で私を射抜く。
「どういうって……、なんだろう……?」
「なんだ、説明できないの」
月に片手で数えられる頻度の交流をするのみだ。フレミネくんが怪我をする理由を私は知らない。ポワソンシーフードスープが好きで、料理のお礼として律儀にお菓子を持ってきてくれる男の子。だから私にとってのフレミネくんは、潮でも血でもなく、甘い香りと紐づいている。
「僕は君がフレミネにおかしなことをしなければ、それでいいんだけど。ぱっと見たところ、その心配はなさそうだ……。扉を叩いた相手が誰か確かめる前に扉を開くほど無用心だしね」
誰しもに指摘されるとおり、私は人よりも危機感に鈍感なようなので、ぐうの音も出ない。
リネなる人物は忠告のみが用件だったようで、それだけ言ったらぽかんとしている私を置き去りに、もう一度にこりと笑顔を貼り付けて、扉を閉めて出ていってしまう。背後からフレミネくんが近づいてくる足音が聞こえる。
「リネは心配性なんだ」
「大事にされてるんだね」
「……うん。ぼくにも、それはわかる」
鍵を締めてソファに戻る前に、お香を焚き直そうと香炉が置かれた棚の前に立つ。
「……お香を炊くの?」
「ちょっと薄れちゃったからね」
「その、次は落ち着く香りじゃなくてもいいよ」
「なにか好きな香りがあるの?」
「好きっていうか、えっと……」
「なんでも言っていいんだよ」
口を開いたり閉じたりするフレミネくんの言葉を辛抱強く待とうとしていたが、なぜか胸がわくような、落ち着きがなくなるような気分に陥ってしまい、ブランケットを傷のひとつもない足にかけて隠してしまう。
「……がいつも使っているお香を焚いてほしい」
「ええーっ……」
「なんでも言っていいって言ったでしょう……」
意を決して、といった切実な口から飛び出てきたのが、まさかそれとは思わないだろう。
どういう関係、と問われても答えられなかった。いまだって明確な言葉を当てはめるのは難しい。次と、その次にフレミネくんと会って、仲良しの度合いが強くなったとしても、きっとわからないだろう。
それでも、私のことを知ってくれうようというフレミネくんの心遣いがあるのだとすれば、応えたいと思うし、引き換えに、フレミネくんのことを教えてほしいと思う。
迷いつつも、一番気に入っているお香を焚いて、フレミネくんの隣に腰掛ける。フレミネくんはブランケットをこちらに伸ばして、私の膝をあたためてくれる。
「あのね、今回はリネでよかったけれど、危ないことだってあるんだから。簡単に扉を開いちゃだめ。……反省してね」
「はい。ごめんなさい」
謝ったら「よくできました」と微笑んで言う。それは、いっとう男の子らしい表情だった。