幼いカーヴェに幼い私が拾われてからは、からっと晴れた暑い日がひどく苦手で、日陰を見つけ出してはそこに体を押し込めて縮こまり息を潜めて過ごすのが習慣となっていた。清潔で安全な家の中や掃除の行き届いた屋外に取り囲まれていても、一度学習された行動は易々と修正できない。
親代わりとなって一時は共に生活していたカーヴェの両親よりも、カーヴェの方が、身を隠す私を見つけるのが上手で、夜に差し掛かる前に、必ず迎えにきてくれたのを晴れた日になると今でも思い出す。
網膜を焼く陽光を背にしたカーヴェの顔は逆光でよく見えない。強く握られた手が熱く汗ばんでいる。影から引っ張り上げられると、血の巡りがうまくいっていなかった頭が、貧血を起こしてぐらりと回った。
「誰も怒っていないから、うちに帰ろう」
汗に混じった涙で湿る頬を指先で優しく撫でてくれるカーヴェの……そう歳の差のない男の子の一言が、静止したままだった両の足を動かす。
森の、崩れかけた廃屋のそばの大木の根本で、意識を失って、こんこんと眠っていたのだという。住所も名前も、意識を失う前の行動も、自らの情報は一切忘却している私をカーヴェが拾い、彼の家族に迎えられ、学ぶ機会を与えられて教令院の学生となるまで、家族のかたちを為した生活を、時々は息を潜めつつ、ゆったりと味わっていた。
「カーヴェのこと、お兄ちゃんって呼んだ方がいい?」
お互いが学生となってしばらくした頃、夕食のタンドリーチキンにナイフで切れ込みを入れながら、そう訊ねた。学派の異なる異性同志が頻繁に会話や食事していると目立つのか、興味の対象となるのか、どのような関係か同期生にたびたび尋ねられ、詳細を説明するには事の背景がまあまあ複雑なので、口が重たく、適当に誤魔化してその場を凌いでいた。いっそのこと、この関係に名前をつけてしまえばわかり易いのかもしれないと、縁組をしていないので兄ではないが年齢に照準をあてると兄に該当する目の前の家族に提案したのだが、やわらかい赤の目を細めてゆったりと笑うのみであった。
「僕はどちらでも構わないから、が呼びたいようにすればいい。お兄ちゃんでも、カーヴェでも、なんでも、の好きなように」
「私が決めていいの?」
「僕にとっては、他の誰かが僕たちをどう思うかよりも、が僕をどう思うかの方がよっぽど大事だ」
受けた言葉を、そうなんだ……とやわく噛み締める。鶏肉に添えられた茹でた人参にフォークの先を刺す。自由に選択してもよいと許されて、胸をつかえていた鈍い痛みがほどけていくようだった。
純粋とはいえない生い立ちのためか、彼の隣にいることの引け目を腹のうちに抱えているのだと、このときようやく気がついた。
生みの親がいようがいまいが、記憶にない以上は、カーヴェとの暮らしが私のほぼすべてで、唯一である。
カーヴェより遅れて卒業した私は、すでに書記官として職位についていたアルハイゼンのもとで事務職に就くこととなり、ルームメイトをよく知るカーヴェはそこそこ苦い顔をして、だけど最終的には祝福してくれた。
「きみは健康にどこか問題でもあるのか」
上司であるアルハイゼンの目の前で倒れたのは二度目である。一度目は医務室に運ばれるのみだったが、二度目である今回は、アルハイゼンがベッドの脇に控えていた。
「いえ、そういうわけではないんですけど……」
シーツから剥がした上半身が緊張で強張る。言葉なく視線を送られ、業務の進行に支障をきたす恐れがある以上、晴れて空気が乾燥した日は体調を崩しやすい、子どもの頃はそれが著しく、ここ数年は平気だったが、最近になって再発したと、乾いた喉からざらざらな言葉を絞り出した。
「でも、少し休めばよくなるんです。迷惑をかけてしまって、申し訳ありません」
差し出された器に注がれた冷たい水をゆっくりと飲む。乳白色の器の底を見つめていた目を閉じ、小さな耳鳴りをやり過ごす。
「構わない。きみの事務処理能力をもってすれば、一日休んだところで業務が滞ることはないだろう」
「……すみません」
「なぜ謝る」
「え? ええと……いいえ」
中身の伴わない謝罪は、アルハイゼンの短い返答ですぐさまかき消される。乾燥した日の体調不良に加え、わけもわからず謝る癖さえも還ってきたのかと、力なく項垂れる。
「きみを……を、威圧し怖がらせるなと言われた」
俯かせていた顔をのっそりと持ち上げる。「……誰に?」と訊ね、「決まっているだろう。カーヴェだ」と返される。アルハイゼンの言葉は明瞭だった。
「きみの入職前に、その他、数十項目のきみと関わる上での注意点を喧しく羅列された。もちろん、職務に私情を挟む気など毛頭なかったから、すべて却下させてもらったが」
「……、それは」
舌の上だけではなく、心の芯からの謝罪をしたくなり、ごめんなさい……と呟くと「きみに非はない。よって、謝罪は不要だ」と、やはり断言される。
「カーヴェはきみの人生の一部を担いたいのだろう。それはカーヴェの問題だから、きみが気に病む必要はない」
「担いたいというより、担わなきゃって、思ってるのかもしれません」
「その推測に根拠はあるのか」
「……カーヴェが、森に落ちてた私を拾ったから」
カーヴェに見つけてもらわなければ、とっくにこの世に存在していなかった命だ。追いかけるように教令院に入ったことも、スメールシティでの就職を決めたことも、カーヴェの生活圏内から離れたくないためだったが、私という存在がカーヴェの視界にちらつくことが、カーヴェのやわらかくて善良な献身の精神を刺激しているのだとしたら、とてもとても申し訳なくて、スメールシティから出ていくという望まない選択肢に手を伸ばしそうになる。
「……私は、たぶんカーヴェが思っているよりも大丈夫で、元気にやっていけると思うんです。でも、カーヴェはときどき、多分、そう思っていない。子どもの頃にうなされたりしている私を……そういうところを見ていたから」
お世辞にも上等とはいえないぼろぼろな服を身につけていたり、肌にはいくつか傷がついていたり、浅い眠りの間に漠然とした恐怖を感じたり。とても大事にされていたとは思えない。拾われる以前の、決して楽しいものではなかった生活の推察は易く、いつも近くにいたカーヴェも、正しく読み取っていたのだろう。
「でも、かわいそうだって思われても、昔のことをなにも覚えていないんだもの……」
「つまり、カーヴェは同情に駆り立てられ、きみの保護者顔をしていると」
「違うんでしょうか」
「正誤ではない。推し測るだけで行動に起こさないのは無意味だ。きみは、カーヴェとどうなりたいんだ」
おかわりに差し出された水を、時間をかけてゆっくりと飲む。半分残して、水面を見つめると、ぽたりとひとつ涙が落ちて小さな波紋を生んだ。耳鳴りは、もう起きなかった。
「わたし、は……」
医務室の扉が開かれる。大きな音に肩が跳ねて、入り口を見遣ると、廊下の色硝子を通過した豊かな光が白い空間に入り込んできているところであった。「!」同じくしてカーヴェが焦りを隠さず私の名前を呼び、足早に駆け寄ってくる。
「体調が悪いのか、今日は晴れているからな……倒れたときどこかぶつけなかったか?」
「だい、大丈夫。カーヴェ、だから、ちょっと待って……」
涙は一粒溢れただけで、驚きのせいか引っ込んでいった。きつく抱いてくる体は、幼い時分よりも当然大きいが、目元に残る涙を拭う指は変わらずに熱く、優しい。
「……泣くほど辛いのか?」
耳鳴りにも、血の気が失せる感覚にも、生育歴を打ち明けたときに憐憫を含んだ視線を注がれるのにも、すっかり慣れている。カーヴェがそれらよりも、私がどうしたいかを尊重してくれて……嫌いなものじゃなくて、好きなものがなにかって尋ね、拙い言葉を何日も何年も受け容れてくれたから、辛くもなんともないというのは、本当のことなのだ。
ゆるゆると首を振って、すっかり成長した男の人の手を握る。指の腹は柔らかいのに、浮き出る骨のかたちがくっきりと硬い。
「泣いたのは、カーヴェと一緒にいたいって、思ったから」
家族のかたちが変わったとしても、違った姿で、また家族になれますようにと、願わずにはいられない。
「いつも見つけてくれて、そばにいてくれて、大事なことを教えてくれて、嬉しかったの……」
ここは過去によくお世話になった日陰ではなく、消毒液の匂いが鼻腔をかすめる医務室だった。乾いた暑い日はいまでも苦手で、気弱になると伏せてしまうこともあるのだろうが、あのときのように、影に体を押し込める必要はきっともうないのだろう。
「が、僕がと一緒にいることを許してくれるなら、未来永劫そうさせてほしい」
私が最後まで言い切るのを待ち、考え込むように黙ってから静かに言葉を繋げたカーヴェは、繋いだ手を持ち上げる。手の甲にくっついた唇は、指の腹と同じくらいにあたたかい。
思いもよらぬ行為で、失せていた血液が嘘みたいに巡っていくのを、全身で感じる。カーヴェ越しに見たアルハイゼンは、ああ、と承知したかの如く頷き、「こいつは、きみのことを一度も妹と呼んだり、妹のように扱っているような発言をしたことはない。むしろ、俺がきみに手を出さないかなど愚か極まりない心配をする始末だ」と、淡々と告げ、カーヴェの耳のてっぺんを赤くさせたのだった。