雨に降られたのだと、ずぶ濡れのキィニチは静かに言葉を紡いだ。髪の毛はぺったりと頬に張り付き、雨水を吸って重たくなったと思しき服から落ちた滴が木目にいくつもの玉を描いている。
約束をしていないのに立ち寄ってくれたという事実が、とても珍しいことであったから。声を出せないでいる私の態度は然し、下手な勘違いを生むことになる。
「……すまない」
庇の下から雨のなかへと戻ろうとしたキィニチの腕を思わず鷲掴んでしまったのは、そうでもしなければ、二度目を失ってしまう予感がしたからだった。キィニチが会いに来てくれなくなるのは、ひどい熱を出すよりも嫌だ。漠然とした恐怖をばねに、張り出した庇を通り過ぎて、玄関まで引っ張りあげた。キィニチは強引にされて目を見開いてはいたものの、終始黙ったままであった。
グレインの実といくつかの野菜を煮込んで作ったスープを窯の上で温め直している。窓の外はいよいよ雨に混ざって風まで吹き始めたようで、それなりに強度の高いはずの硝子が、かたかたと音を立てている。
「しみったれたツラして、毒でも盛るつもりか?」
アハウが手元を覗き込んで大変に失礼なことをのたまう。キィニチと一緒にお湯を浴びてくるよう、無理にでも勧めるべきだったかもしれない……。
「キィニチの体調が心配なだけだよ……。そんな意地悪なこと言うなら、ブドウあげないよ」
「要らん。だが、明日の朝献上するというのなら、もらってやらないこともない」
「い、要らない? お腹壊したの……?」
着替えを押し付けてもキィニチはぼんやりとしていて、されるがまま、ついでに口数がやたらと少なかった。それがかえって緊迫感を与えて、心臓がぎゅうぎゅうと萎む思いがする。キィニチだけではなく、隙あらば「献上品」を強請ってくるアハウでさえ果物を拒否するものだから、私の心臓は爪弾かれただけで消えてなくなってしまうに違いない。
「オレを軟弱な人間と一緒にするんじゃねえぞ! あのな、お前もキィニチのやつも湿っぽくて仕方ねえ……居た堪れない思いを強いられているオレの気持ちになってみろ、な? いいか、朝までにその暗澹たる空気をなんとかするんだな」
居た堪れない思いをしているとは微塵も見受けられない堂々とした口上に閉口する。杓子で鍋の中身を一度だけぐるりと円を描くようにかき混ぜ、アハウがいたはずの空間に向き直るとすでにその黄色い姿は消えていた。
入れ替わるようにして、キィニチが戻ってくる。湿っぽいというのは雨のせいではないだろうか、だっていまは口数は少なくとも、血色も戻って瞳もしっかりとこちらを見据えている。
「……世話をかけてしまったな。悪いが、濡れた衣服を持ち帰るための袋かなにかを貸してもらえると助かる」
部屋着を身に纏ってすらすら言い放たれ、一拍遅れで首をぶんぶんと横に振る。
「いまから帰るの? 絶対だめ!」
「身体は充分温まったんだがな……」
「そうかもしれないけど、私ここでスープ温めてたんだよ」
「? ああ、美味そうだ」
「キィニチのためだよ」
暗澹たるとまではいかずとも、確かにキィニチは血色の良し悪しでは判別がつかない気怠さを携えているようであった。疲労困憊により元気を失っている、それに尽きる。
雨に打たれて身体が冷えたせいで、熱が出ているのかもしれないと、湿った前髪をかき上げておでこに手のひらをくっつける。湯で幾分かやわらかくなった皮膚は、むしろ私の体温よりも僅かに冷えていた。
「熱はないから大丈夫だ」
だからこのまま雨風が吹き荒ぶ屋外を歩いて帰っても大丈夫だと言外に訴えている。なんという……強情っぱり。めまいがしそう。
「キィニチが帰るって言うなら、私が送っていく」
ぼやっとしていた目にやや強さが戻り、眉根を寄せて鋭く見つめられるが、怯まずに「絶対についていくからね」と言い切る。
キィニチやアハウほどの語気の強さはなく、視線もさほど鋭くないだろう。つまり、繋ぎ止めるための手札がそれほど多くないということだ。キィニチが私を悪天候にさらすことなどあるはずがないと承知している。だからこれは、数少ないながらも卑怯な手札であった。
吐いた息に諦めが含まれていたのだろう。苦く笑ったキィニチが「……意外と頑固なんだな」と言う。どっちが、とも、お互い様だよ、とも思う。
順当に生きていれば年齢は自然と重なっていき、それに伴い精神も成長していくはずなのだが、私の根底には幼少期に沈めたはずの甘ったれた部分が未だに存在している。それがときたま出現するのもさほど不自然ではないだろうし、キィニチが相手だと余計に強く出てしまう。一緒に眠りたいだとか、手を繋いでほしいとか、抱きしめてほしいとか、他にもいろいろ。
私がそんな調子であるからこそ、されるがままになっているキィニチというのもなかなかに新鮮で、不謹慎だけれど、あれやこれやなんでもしてあげられるのが嬉しいと感じてしまう。
観念したキィニチは潔く私の世話になる覚悟を決めたらしく、窯の前に並んで座り、暖をとりながらよく温まったスープを飲み、薪がすべて炭となったのを合図に、寝支度に取り掛かる。
「キィニチの足、まだちょっと冷たいね」
ベッド脇の小さなテーブルランプのみを残して暗くなった室内に、窓を叩く雨音がよく響いている。取り越し苦労ではあるけれど家が損壊したらどうしようと想像せずにはいられない。
ベッドに並んで横になり、調子づいて足をくっつけても嫌がられはしなかった。存外低い体温に、スープをもう少し熱くしてもよかったかもしれないと思う。
「お前の方が、熱を出しているみたいだな」
雨天につき閉じこもって過ごしていた一日であった。おかげで身体は冷えずに温かさを維持できている。任務のためずぶ濡れになるのも厭わず駆け回っていたキィニチを前に、やっぱり私は甘ったれた部分が大きいのかもしれない……と情けなさが膨れ上がる。
「……他に、私にしてほしいこととか、ある?」
暗闇と燃素のひかりが混ざったぼやけた空間で、キィニチはぱちぱちと瞬きをしてまつ毛を叩く。考えをめぐらせたあとに出た答えは「もうしてもらってばかりだ」という想定内のものであったので、すっかりと気落ちする。
「わがまま言ったって、呆れたりなんかしないよ……」
まあ強要するものでもないわけで……伝えたいことは伝えられたし、足りなければ、目が覚めてから言えばいい。今日はもう遅く、キィニチはとても疲れていて、身体を芯から温める必要がある。
「おやすみ」
私の声はやたらと悲しい響きを伴っていており、例の甘ったれた根性が顔を出してきたようで、みっともなさに背筋が震える。不貞腐れるなどとんでもない、慌てて背を向けようと布団のなかでもぞもぞ寝返りを打とうと試みるが、肩をしっかりと掴まれてしまった。寝巻き越しに硬い指をありありと感じる。
「背を向けないでほしい……、というのは、わがままに入るか?」
鼻をすすって、頷くと、間髪いれずにキィニチの腕のなかに抱き込まれる。肩のあたりに額がくっつき、頬をかすめる髪から淡く石鹸の匂いがした。
*
抱き込んだ腕の中でじっと固まり動かない身体は、まだまだ眠る気配がない。自身よりも小さな背を撫でれば、柔らかな足が絡んでくる。
「キィニチ、くすぐったいよ」
ただただ一心に、泣き声に似た「おやすみ」を塗り替えたかっただけなのだ。背を向けないでくれればそれだけで良いという思いに誤りはないが、もっと近くにいられたらなんて、贅沢だろうか。
距離を測りかねている。疲労が溜まっている。「してほしいこととか、ある?」という甘いような言葉。それらが一緒くたになって、冷えていたはずの指先が熱を帯びていく。
頬に指を添えてみたが、顔を逸らされはしなかった。うすい寝巻きの胸元に、彼女のやわらかい手が添えられる。鈍い灯りが目の表面を覆う涙の存在を確かに示している。潤んだそこを見ているとたまらなくなり、唇を合わせてみた。「キィニチ」と、ほとんど震えた声で名前を呼ばれる。
「……もっと、わがまま言っていいよ」
三度目に、下唇を舌先でつついた。やたらすんなり割り開かれたものだから、いじらしくて、思わず喉の奥で笑うと軽く睨まれてしまう。真っ赤な顔、涙を湛えた瞳。同じ石鹸で洗ったはずの身体からは自身のものとは違って、どこか甘いような匂いがするから不思議だ。指を絡ませると、互いに熱くてたまらなかった。先ほどまで全身を苛んでいた屋根をばちばちと叩く強い雨音は、すでにちっとも気にならなくなっていた。