スマートフォンの電源を落としたのはずっと前のことだった。そのせいでいまが何時かもわからないが、あんなに混み合っていた店内が空いてきたことと、持ち込んだ文庫本を読み終わってしまったことを足して考えても、ずいぶんと長い時間をここで過ごしたのだと思い知る。そろそろ制服姿で出歩いていたら警察官に注意を受ける時間帯なのかもしれない。
「さん、なにしてるんですか」
せめて時刻だけでも把握しておこうと真っ黒になった画面を眺めながら指をボタンの上に乗せていると、頭上からよく知った声が届いたので手が大きく跳ねた。携帯を床に落としそうになり、腕や足を大げさに動かしたせいで椅子の足にかかとをぶつけてけたたましい音が響いた。
「そんなにびっくりしなくてもいいじゃないですか」
床にぶつかって取り返しのつかないことになる前に、すばやく伸び出た手が私のスマートフォンを受け止めてくれる。それはのろまな私の手ではなく、私のものよりも少し大きな手だ。素晴らしい反射神経を見せてくれたゆうたくんはなんでもないようにそれを差し出してくる。もう夜も更けているというのに、私とおなじ、制服姿だ。
「いきなり声かけるんだもん。こんな遅くになにやってたの?」
「遅いって自覚あるんですね。本当に、女性がぶらぶらしてていい時間じゃないですよ。それともだれかを待っているんですか?」
「う〜ん……。ゆうたくんを待ってたの」
「そういうのいいですから」
道路に面したカウンター席からは人の通りがよく観察できる。ゆうたくんが隣に腰を下ろすまで顔のない人間をたくさん目にしたが、よく見るとみんな色々な表情で歩いている。疲れた顔、楽しそうな顔、眠たそうな顔。人間の生々しい表情を見つめていると、突如として現実に引っ張り戻されたような心持ちになり、あんなに躊躇っていたのに、簡単にスマートフォンの電源を入れられた。すると、何件かの不在着信と、家族からの「帰りは何時になるのか」というメールが入っており、深くて苦いため息をつく。
「帰らなくていいんですか?」
着信とメールを適当に流して見る。そして着信音が響かないように設定を変えて、四角いそれを制服のポケットに突っ込んだ。
「いいの」
ストローに口をつけて息を吸い込むと、生ぬるいチャイティーが喉を通る。その上、溶けてなくなってしまった氷が甘さを薄めているため、あまり美味しくない。味わう前に最後の一口を飲み込んだ。
隣に座るゆうたくんをそっと伺い見ると、眉間に皺を寄せている。どうやらご機嫌ななめらしい。
「……帰りますよ」
なにも注文しなかったらしい彼の手が透明のカップを奪い取っていく。がこん、と無機質な音を立ててゴミ箱に捨てられたそれ。ぼけっと座ったままの私の前に立ち、おおきなため息をひとつ。スマートフォンを無視したときの私よりもうんと深く息を吐き出した。指がこちらに向けられてからしばしの逡巡があり、ためらいながらも結局ゆうたくんの手は私の手首をしっかりと掴んだ。
「や、やだ……。今日はひとりになりたい気分なの」
「心配してる人がいるんだから、帰ったほうがいいですよ」
「ゆうたくんが大人みたいなこと言う……」
「年下に心配されたくないなら危ないことしないでください」
夜も更けているというのに溌剌とした店員さんの「ありがとうございました」を背中で受け止め、ぬるい風が漂う街へと足を踏み出す。手首には強めの力がかかっているけれど、「危ないことをするな」と諌める声は柔らかくて耳にやさしい。
「俺がほんとうに大人になったら、朝になるまで一緒にいてあげますから」
地表と空がぴったりとくっついてしまいそうな湿った夜だった。テールランプがまばらに通り過ぎていく。ゆうたくんに引かれるまま夜道を進んでいくのはとても心地いいと思った。
ゆうたくんを待っていたっていうのは嘘だけど、ゆうたくんに見つけてもらえて嬉しかったのは、本物の、本音なのだ。