プラスチックの軽い感触を押し込める。けたたましい高音と共にくすんだ色の切符が吐き出された。五百円以下で生み出されたその切符は決して遠いところへは運んでいってくれない。いつか、幼稚園や小学校に通っていたころに目にしたことがあるような景色にしか再会できない。
待ち合わせの十分前であることを携帯で確認し、そっと背中を柱に預ける。すると、そこに透明な軸がはってあるかのように人の波を掻き分けながらまっすぐこちらに向かってくる人の顔を見つけた。なぜか気恥ずかしくなって、人差し指と親指で前髪を梳かし、気付いていないふりをした。
「ちゃん」
羽風先輩は夏の入道雲くらい白いポロシャツを着込み、形のいいパンツをはいていた。ゆったりとした微笑みが、握りしめすぎて汗ばんだ手の中身に降ってくる。
「あれ、切符買ったんだ」
「買うときに手間取ったら、時間がもったいないと思って」
「そっか」
行こう、と先に歩き出した先輩は私の手を繋ぐ気配も見せずに、身体の脇に両手をじっと備えさせている。かけられる言葉は以前となにも変わっていないから、あの日、夕焼けに灼かれた教室で先輩に「好き」と告げたことが夢だったのではないかと思ってしまう。返事をもらえなかったかなしい言葉。足元に落ちて死んでいった想いの数々。夢なんかじゃない。遠慮なしに握られた手や、人目もはばからず前髪を撫でてくる仕草が与えられなくなったことによって、否応無しに現実に引き戻される。
遠くに離れてしまった距離に胸が刺され、いっそのこといまの瞬間も含めてすべてが夢だったら、眠れない灰色の夜を過ごすことにはならなかっただろうに。
一緒に出かけてほしいと頼んだときは、断られるかと思った。だけど、あの日と同じような夕焼けの中で先輩はゆっくりと微笑んで、いいよ、と快諾するものだから、圧倒的な幸福感に浸され、返事をもらえなかった「好き」のことを忘れてしまいそうになる。忘れられたらだめな言葉。三度目の夕焼けの今日は、行き場をなくした言葉を海で殺すためにあった。
○
午後六時を過ぎているからか、海岸線をふちどるのが柔らかい砂ではなく細かい石だからか、その浜には人気がなかった。
水平線の上で太陽が燃えている。つめたい海に沈んでいこうとする強烈なひかりは触れたらひとたまりもなさそうでおそろしい。ひょろりとした幹を持つ防潮林の隙間は黒々としており、まだだれにも発見されていない生き物が棲んでいそうで背筋がぞくりと粟立つ。夏のビーチと呼ぶには溌剌さがない、うらぶれた場所だった。
「はい、ちゃん。りんごジュース」
地球の半分を覆っているにふさわしい広い太平洋を眺めていると、不意に声をかけられる。駅の錆び付いた自動販売機で買ってもらった缶ジュースを差し出す先輩は今日も昨日も一昨日も嘘みたいに穏やかで、そのさまが私の脆弱な心臓を不安でいっぱいにさせることを、先輩は知らないに違いない。
恋人同士が交わすようなあまい睦言を並べ立てる唇は閉ざされ、身体に触れる手はおとなしく息を殺している。私たちの目の前に横たわる海のように静かで死んでいるみたいだ。
「先輩はなにも飲まないんですか?」
「あー……うん。ごめんね、喉かわいてないんだ」
「夏なのに?」
「ちゃんと待ち合わせする前に、コーヒーを飲んだから」
流木がたまっている一角へと足を進めていくと後ろからついてくる足音。ひときわ大きな木に腰かけて先輩を見上げ、手を伸ばした。もしかしたら手を握ってくれるかな、と淡い期待を込めたりなんか、したくなかった。プルタブを開いたあとに手渡されるジュースはただ甘ったるいだけで喉に貼り付き、乾きを潤すには不十分だった。
「せんぱ、い……は」
ごほりと咳が出た。口の中がばかみたいに甘い。
「どうして今日来てくれたんですか?」
「ちゃんに誘ってもらったからだよ」
「そうじゃなくて……」
舌の上を転がる甘味が、苦みに変わる寸前。
「どうして断らなかったの」
季節のフルーツが変わるごとにパフェを食べにいこうと誘われていた。前髪を切ったら朝一番に気が付いて褒めてくれていた。そのどれもが失われたのは告白をしたあとのことだと思い至ったのはすぐのことで、身体を内側からびりびりに引き裂かれるような、残酷な痛みに心臓が大きく膨らむ。
「……ちゃんの誘いだから」
「私が言ったら断らないの?」
「断らないよ」
「このまま泳いでアメリカに行ってって言っても?」
「いいよ」
靴と靴下を素早く脱ぎさった守られてない足が小石を踏む。え、と目を丸くするが先輩はこちらを振り返らずに浜辺を進んでいく。あんなに強く燃えていた夕陽はほとんど海に沈んでしまっており、橙色を押しつぶすようにして濃紺が空を塗り替えていた。いつの間にかそれなりの時間が経過していたらしい。
ジュースの缶を地面に落としたのにも構わず、慌てて先輩の背中を追いかける。先輩の長い足はもうすでに海水に浸かっており、足元の悪さも相まってひどく歩きにくかった。
どうにか追いつけたのは先輩の膝が海に浸かってしまったあとで、背中に抱きついている私の方は太ももまで海水に侵されている。分厚く、黒い海は、あんなにも冷たそうだったのに慈しむようにあたたかい。
「う、そ、嘘です、そんなことしてほしくない」
波音に混ざったのは痛いくらいに内臓を揺らす心臓の音。ざぶんと波が掻き混ざられる音に混じってどこかの駅で出会ったような高い音が聴こえた。海猫だろうか。もしかしたら、発音魚が歯や骨をすり合わせた摩擦音なのかもしれない。突然海に侵入した私たちを警戒するための、身を守る音。
声が引っ繰り返る。先輩の胴をぎゅうぎゅうに抱き潰す。
「ずっと真剣に考えてた。ちゃんのためになにができるかって」
頑固に抱きついていた腕をやわらかく、やさしく、あたたかく撫でられる。戸惑いながらその力をほどいて腕をおろし、ちゃぷんと水音を立てながら振り返る姿を目にうつす。微笑んでいるのは変わらないが、穏やかな薄茶色の目はいまにも泣き出しそうだった。
「たぶん、なんでもできるよ。俺はきみになんでもしてあげられる」
いつも飄々としている先輩が泣いてくれないのは残念だけれど、私の目の端に滲んで溜まっている涙のしずくをそっと拭ってくれたから、お腹がじんと沁みて温かくなる。
「私は、だめだったとしてもすぐに返事がほしかったのに」
「だめって思ってたの?」
「絶対にだめだって、ずっと思ってた。口説き文句みたいなこと簡単に言うから、私の片想いだって、それならそれで、先輩のくちから断ってもらえたらいいなって……」
背中にまわされた手に甘えてしまいたい気持ちをどうにかして堪える。
「いつもちゃんは本気で取り合ってくれなかったから、俺の方が片想いしてるんだって思ってた、って言ったら……」
信じてくれる? と耳に直接吹き込まれて、新しく生まれた熱い涙がまばたきのせいで目の外に追いやられて頬を伝う。
先輩を生かしている息遣いがまぶたの近くで消える。そっと口づけられたそこから涙をすべて奪い取ってしまえるほどの、生まれて初めて感じる、やさしい触れ合い。信じるもなにも、私のことを真剣に考えてくれていたと言うこの日々が、信じてもいいのだと太鼓判をおしている。
「……コーヒーのにおいがする」
「ちゃんのせいで昨日は眠れなかったから」
眠れない夜も、果てしない不安も、すべてを海に還しにきた。数時間後、太陽に照らされて蒸発してしまうまで、どうか大切に温められていて。
「……べちゃべちゃになっちゃった。このスカート、はじめて穿いたのに」
「また穿いてみせてよ。そうだ、今度は花火をしに行こっか。そのときは俺に切符を奢らせてね」
先輩の右頬に差し込んだ最後の夕焼けが照れたように笑う。